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冬苺(ふゆいちご)  三、彩雲

一、虫の味  
二、人形の部屋
 三、彩雲   
四、渦の底  
/ 全四話

 心臓の拍動にのって痛みが遊んでいた。鼻の痛みにはじき出された感覚が耳の中でうずくまって電話の鳴る音を聞いていた。ずっと鳴っている。家の固定電話の音を聞くのは久しぶりだった。誰だろう。正人の職場からだろうか。

 呼び出し音が切れ、テレビの音が残った。

<N市のマンション密室殺人事件で搬送された被害者に、また死亡者が出ました。死亡したのは、唯一路上で撃たれた男性で、これで五名全員が死亡となりました。死亡者で現在身元がわかっているのは、極東道冶會組員李政紀三十四歳、一人だけです>

 いちごから離れた男は冷蔵庫から出したパック牛乳を飲みながら、美鈴の横に立って居間のテレビを見つめていた。

<尚、別の被害者の死亡直前の証言から、逃亡している犯人と思われる一名の名前が確認されました。逃亡しているのは、野賀業人のがなりひと。年齢・職業は不明、四十歳前後>

 アナウンサーとは別の声がした。

<死亡者の中に特殊詐欺の関係者以外は確認されたんですか>

 現場レポーターが答えた。

<死亡者全員の身元が確認されていませんのでわかりませんが、完全な密室ですのと、設備の状態から見るとおそらく全員関係者の可能性が高いと思われます>

<暴力団員が殺されているということは、特殊詐欺のみかじめ料をめぐって何らかのトラブルがあったのかもしれないですね>

 アナウンサーが神妙に言った。

<内輪もめ、ですか>

 男がパックを流しに投げ捨てた。

 半身を起こして衣服をなおし始めたいちごに、TV画面の顔写真が見えた。今、目の前に立っている男の目だった。いちごは、何もかもを頭に入れないようした。起きていることすべてを認識しないように、何かが心に触れたら片端から捨てていくのだ。毎日してきたように。

<逃げているのは別の暴力団員か何かですか>

<情報によると最近グループに入ってきた人間で、警察では特殊詐欺グループ同士の争いではないかと捜査しているようです>

 コメンテーターがしゃべった。

<ハタキですか。ハタキの復讐とか。だって釘で殺されてたんですよね>

 オレオレ詐欺に慣れた連中が、別のグループの出し子や受け子が老人から金を騙し取ったところを襲うことがある。場合によっては自分のグループの出し子を襲うことすらある。いくら奪っても、どれだけ殴っても絶対に被害届は出ないからだ。

<幹部らしい人間以外は拳銃で殺害されていることから、逃亡している犯人は現在拳銃を所持している可能性が高く、警察が警戒態勢を敷いています。暴力団員の拳銃を奪ったようですね>

<躊躇なく五人も殺せるのは普通ではないでしょう。人殺しに普通も何もありませんが、おそらく元々そういった関係か、そうでなければ……>

 野賀がテレビを切った。

 しばらく黙って、いちごと美鈴を見つめていた。

「車の鍵」

 母が、硬直しているいちごの後ろを見ながらかすれた声を出した。

「ひきだし。そこの、右の」

 野賀がいちごの真後ろの食器棚のひきだしから、鍵を出してポケットに入れた。引き出しの中の荷造り用の紐をひっぱり出すと、美鈴の前にしゃがんだ。

「声出すな」

 美鈴の手の甲に、自分の指をうずめるようにねじった。美鈴がガム・テープごしに悲鳴を上げた。

「声出すな」

 うまくいかないのか、何度も捻り返す。美鈴の涙が口のガム・テープの上をすべって落ちた。何かを押し込んでいるように見えたが、ようやく細い棒が赤く濡れた姿を見せた。いっきに引き抜きシンクに放り入れると、硬い金属音が跳ねた。釘だった。いちごは、恐怖で唾も呑めずに、両手分が抜き終わるまでただ見つめていた。

「立て」

 血で手が床にはりついていて身動きできずうろたえる美鈴を、野賀は脇から抱え、無理矢理立たせた。泣き顔で拗ねた子供のような声を出す美鈴を椅子に座らせると、穴から血の糸を引く手を後ろ手にして紐で縛りはじめた。美鈴の手のあった床に、赤黒いシミがいびつに広がっていた。

 今度は、身動きできないいちごの手首をつかんだ。ガム・テープをはがし、荷造り紐のロールを渡した。

「足縛れ」

 言われるまま、いちごが母の足を椅子にくくりつける間、美鈴はじっとしていた。当然、甘い縛り方しかできない。野賀はもたもたしているいちごの手元からロールを取り上げると、太ももから足首までを椅子の脚といっしょに無造作に巻いていき、残りをテーブルの脚に巻き付けた。最後に美鈴の体中の紐の具合を確かめだすと、美鈴は処刑を待つかのように目を閉じた。

「スマホ出せ。テレグラム入れろ、アプリだ」

 野賀がスマホを取り出した。いちごは自分の折りたたみ携帯を渡した。野賀は一瞬だまってから、今度はポケットから傷だらけの三台のガラケーをテーブルに転がした。一台は美鈴のだった。いちごの携帯をいじると、鳴りだした一台を手にとって切り、イヤホン付きの一台からイヤホンを抜いていちごの携帯に挿し換えて返した。

 そして、携帯とイヤホンを受け取ったいちごの顔の前に、スーツから取り出した数枚のキャッシュ・カードをトランプのように扇に広げて裏返した。サインの箇所にマジックで番号が書かれていた。暗証番号だ。

「金おろしてこい」

 二枚が床に落ちた。

「拾え」

 拾ったいちごの手のひらの上に更に三枚をのせ、残りをまた内ポケットにしまった。

「逃げたらこいつを殺す」

 母を見た。何を言われてもただうなづく以外できるわけがない。

「来い」

 背中を押されたいちごは、母を振りむくこともできず部屋を出た。

 外は形の悪い雲がまばらに漂い薄暗かったが、青い部分がいくらか残っていた。空気の臭いがまったく違って感じ舌にへんな味がした。鼻の痛みが胸まで広がってきたように感じた。

 いちごは、まだ殺されていない安堵とわけがわからなくなっている不安のせいで、なんだか足が耐えられなくなって、車庫の前の側溝に跨がって口を開けて嘔吐物を待った。野賀はなぜか近所の様子をうかがう風もなく、いちごの吐き気が止まるまでじっと待っていた。

 血が混じった唾は、なかなか途切れなかった。

 吐くまでにはいたらず、少し静かになったいちごの襟をつかむと軽自動車の運転席側から乗り込ませ、助手席まで押し込んだ。

 前の路上を自転車が通り過ぎた。ハンドルをつかんだ野賀がつぶやいた。

「ヤマダだ」

 スタートボタンを押した。

「俺はヤマダだ」

 わかったのかという目がいちごをうなづかせた。

 エンジンがかかると同時に車庫から飛び出した車の頭に、クラクションがあびせかけられた。無表情だが野賀も焦っているのだと思った。いちごは車のことはよくわからなかったが、なんとなく野賀は運転がうまくなさそうだった。

 恐怖が勝ちすぎていてまともに顔を見られなかったが、野賀は頬がこけ、覇気のない目で、背を丸め、はっきり言えばあまり強そうにも頭が切れそうにも見えなかった。

 陰鬱な表情で運転する野賀は、魔物ではなく普通の人間に見えた。


 いちごに案内させ、車は市街地の路側にATMが見える距離で停まった。

「イヤホンつけろ」

 野賀のスマホがいちごの携帯をコールした。コールに出てイヤホンをつけた瞬間、いきなりいちごの手首をつかんで袖をめくり下げ、取り出した果物ナイフを前腕に走らせた。細い小さい切れ目から赤く笑いを浮かべるように流れ出した血を見て喉を鳴らしたいちごの首に、短い刃をあてた。

「逃げるなよ、親殺すからな、お前と一緒に」

「……逃げません」

「捕まっても殺す。わかったな」

「……はい」

 悲鳴どころか声を出すのが精いっぱいのいちごの震える喉を、ナイフが離れた。野賀はいちごの傷口にティッシュの束を雑にあててガム・テープを巻いた。狂っていた。

「機械を交互にかえて五十万ずつ出してこい。出なかったら残高全部」

 野賀は助手席のドアを開けてガードにぶつけた。車を出たいちごを野賀の声が追いかけた。

「封筒入れてこいよ」

 いちごが小刻みにうなづくとドアが閉まった。

 物か動物のように扱われている。慣れていたわけではないが、今より悲惨になることはないと確信するごとに底を割ってくる。底のない渦の流れだった。いちごは、自分の心が、身体が、運命が自分のものでなくなっていくのを感じた。足がうまく地面につかず、意識的に地面を踏んで歩いた。夢の中で走るように、目の前のATMがなかなか近づかない感じがした。

 入り口のガラスに映った景色は、まるで知らない街の景色に見えた。イヤホンから野賀の声が頭の中に入ってきた。

<カメラ見るな>

 うつむきながらATMに入ると、キャッシュ・ディスペンサーは二台とも空いていた。カードのローマ字の名義はすべて違うものだった。五十万円の引き出しはいちごには長く、大量の札を数える音が延々と続き怖さが増していった。ようやく一枚目が終わり封筒に札を入れた。ATMの封筒など普段使おうと思ったことすらなかった。

(封筒こんなにあるの、使う人多いんだ)

 指示通りディスペンサーを移ったが、同じことをあと四回繰り返すのかとため息が出たとき人が入ってきた。防犯ミラーで背後を凝視すると、野賀ではなかった。となりのディスペンサーに入った。大量の札を引き出しながら封筒に入れている女子高生が不審に思われないわけがない。身体を寸分も動かさないようにするために、満身の力をこめた。

 ディスペンサーが急にしゃべった。

<もう一度、はじめから、やり直してください>

 ただの機械音声に背中に電気が走る感じを初めて味わった。入力を間違えていたらしい。お巡りさんにどなりつけられたような錯覚がして、自分でわかるほど手が震えて止まらない。

<吞み込まれたら、すぐ出ろ>

 無効カードは出てこなくなる。犯罪に使われたカードは、即時回収される。そして、警察が飛んでくるだろう。自分はまさに犯罪の側にいるのだと感じた。天井にあるはずのカメラに脅えて首が硬直し、正面の呼び出しホンのスピーカーからは今にもどなり声が飛び出てきそうだった。

 結局、となりの客が出て行くまでいちごの身体は動かなかった。

<できないカードはいい、早くしろ>

 残高不足のカードの、金額を確認、残額を指定して出金する、だけの単純な作業にも焦り、手間取った。

 ディスペンサーが唸っている間、利用明細票の残高の桁を数えてみた。口座ごとにバラバラだったが、七百万から、二千万を超えている。

(詐欺に使った口座とか、すぐ閉鎖されるんじゃないの? 振り込ませた現金をこんなに残していたら、銀行とか警察に見つかったりしないのかな)

 万一の逃走資金用の分散口座という風には、いちごには思いつかなかった。

 マスクと鼻が悪いのとで息がつらく倒れそうになってきた頃、終わった。終わるまでの十数分が何時間にも感じた。結局、無効カードとパスワード間違いは一枚もなかった。意識が朦朧として開く自動ドアに身体をぶつけてATMを出た。

 いちごが戻ると野賀は即座に車を出した。次の駅へ向かう途中の信号待ちで封筒を受け取った後、残高ゼロのカードを窓から捨てると、またアクセルを踏んだ。信号ごとに札の枚数を確認しながら運転し、封筒をスーツのポケットにねじ込んでいった。

 車内には、いちごが鼻をすすり続ける音だけが響いた。いちごは、用済みになった自分を始末する場所へ向かっているのだろうかと思いながら、車を運んでいく路側の白線をゆれながら見つめていた。


 車は、昼間のショッピング・モール裏にまわって、公園の前につけた。野賀は別のキャッシュ・カードを今度は十枚ほど出した。

<モールで出してこい>

 いちごは、万引きがバレていて入れないことを言おうとしてやめた。捕まる。警備員が、今度こそ捕まえてくれる。イヤホンを耳につけ、ドアを開けて逃げるようにいちごは出た。だがすぐに気がついた。

(あ、捕まったらお母さん殺されるんだ)

 監視カメラを避けて路駐した野賀が、駐車場の入り口で立ちすくんでしまったいちごに気づいたとき、後方から声がした。

鈴生すずなり!」

  安川だった。まだいたのだ。

<誰だ>

「先生……です、学校の」

 安川が野賀の車を通り過ぎ、さらに声を上げて近づいた。

「どこ行ってた、お前」

 マスクの下の腫れ上がった顔を見たら、どういうだろう。万引きの件を知っているのだろうか、知らないだろうか。どちらにしても関係ない、安川に捕まることですべてが終わる、終わってくれる。だが、母が。

「たわけたことやってんじゃないぞ!」

 万引きのことを知っているのだ。おそらく学校に連絡が入ったのだろう。だから、こんな時間まで回っているのだ。家にかかった電話は安川かも知れない。ようやく見つけたぞ、こいつのせいで面倒な仕事やらなければならなくなったのだ、と顔に出ていた。

「来い!」

 ガム・テープを巻かれた方の腕をつかみ、大通りの方へ引っ張った。いつも緩慢な動きしかしない安川が、みたこともない力強い足取りでいちごを引っ張っていく。本気で怒っている安川を初めて見た。

 背後のエンジン音とタイヤの滑る音に振り返った安川が、首を向けた姿勢のまま飛んで消え、いちごは振り飛ばされた。急ハンドルを切って駐車場の壁にめり込んだ軽自動車の前部で、横を向いたままヘンテコな恰好で安川の身体がゆっくり沈んでいく。

 降りてきた野賀が眠そうな三白眼をいちごに向けた。

「行け」

 助手席を開け、安川の残骸を飽きた仕事のように積み込みはじめた。死体が死骸を片付けているようだった。地面で動けなくなっているいちごに、野賀はもう一度言った。

「早く行け」

 いちごは恐怖の濁流に押し流されるように、暗い駐車場へ飛び込み、頭の中に飛び散った安川の血の色を振り払いながら走った。イヤホンの中に固い機械音が何度も響き、後ろから追ってきた同じ音と共振した。

 いちごの後ろで、赤色灯を持った男性が出口の方へ歩いて行った。昼間の誘導員だった。車のぶつかった音が聞こえたのだ。いちごは、夢中で店内への連絡ブースに飛び込んだ。

 野賀は、何かをうまくやろうとはしていない。彼は何かを手に入れたいのではない。何かに取り憑かれ、命令か何かで目的地に向かってただ突進しているだけのように思えた。いちごは、ひたすら売り場へ走り抜けていった。


 一階のATMは三台とも埋まっていた。後ろにつくと、いちごは顔全部隠そうとするようにマフラーに沈めた。自分の後ろに人が並んだだけで異様なほど圧迫感を感じる。店内は暖かいはずだが身体が震え続けた。

(どうなるんだろう、どうなるんだろう私)

 このまま警察に行った方がいいに決まっている。モールを出てすぐ交番がある。どうこうがんばる問題ではないし、自分になんとかなる状況ではないことは明らかだった。

(でも……)

 母は確実に殺される。警察が来ても、野賀は必ずやるだろう。

 以前、美鈴に憤った正人が彼女のいないところでいちごを打ちすえながら言った言葉が頭に浮かんだ。

「あれは、風俗の女だ」

 初めて正人に会ったとき、イメージしていたのとは違うずいぶんと年齢の高い人が父親になるのだ思った。他に美鈴に生きる道がなかったのだろうことはいちごになんとなくもわかった。再婚後、ほどなくして正人の暴力が始まって、いちごが「こうなるような気がしてた」と美鈴に言ったとき、美鈴は何も言わなかった。余計なことを言ったのだろうか、以来、美鈴はいちごの傷の手当さえしなくなった。

 身体が少し温まってきて、今日一日、つかまれ殴られぶつけたところがいっせいにうずきだした。

(逃げようか……)

 イヤホンの先で人の声がして、しばらく雑音が続いた。野賀が何かしている。急に激しい争いの音に変わった。

 ATMが空いた。カードを挿したとき、イヤホンにまた金属の打鍵音が響いた。誰かが殺されたのは確実だった。生唾を呑んで、パスワードを入れていく。開放的なモールのATMでは、周囲が見ているような気がしてならなかった。何十枚も札を数える機械音が、ドラマで悪いことが起きる直前の効果音のようだった。誰かが殺されている音を聞きながら大量の札を引き出していると、自分がとてつもなく悪いことをしているような気がしてきた。見えない視線で心が針のむしろになっていく。今まで気にしたこともなかったカメラを脅え、いちごはマフラーに埋まった顔をさらにうずめた。

 ようやくカード一枚が終わったが、封筒が切れていた。五十枚の万札を札のままコートのポケットにつっ込んで、一旦エスカレーターの方へ離れた。二回に上がるようなふりをしながら少し人が流れるのを待って、二つ目のディスペンサーに戻った。

 出たり入ったりを繰り返している間に、徐々に人も減り、残高不足二回、出金を五回繰り返した頃、コートに重さを感じるほどポケットが膨らんでいた。始終雑音が聞こえていたイヤホンは静まっていた。倒れそうになってきた頭で六回目の暗証番号を覚えて、ディスペンサーにカードを入れたときだった。

「おい」

 声が背中をつらぬいて心臓を突いた。いちごは打ちかけた暗証の最後の一文字を残したまま、骨が凍ったように固まった。

「何やってんのお前」

 聞いた声。ケイだ。錆びたロボットのように声へ首を向けると、ケイと未唯、少し離れたエスカレーターの影に残りの二人が立っていた。

「え、何これ、アンタ何やってんの」

 札が見える封筒がいくつも詰まったポケットを、未唯が引っ張った。信じられない大金だ。ケイに痛む腕をつかまれ、カードが落ちて散らばった。

「何やってんだよって」

 いちごは腕をつかまれたまま最後の暗証番号を押して、カードを拾いだした。唸りはじめたディスペンサーの横にしゃがんだいちごの手が震えているのを見たケイは、いちごのコートの襟をつかみ上げ、周囲に聞こえないよう声を殺して言った。

「何やってんだっつってんだろ、コラ」

 回り続けるディスペンサーの音に、未唯が細い眉をよせた。

「これまずいよ。まずいよこのコ」

 言いながら、未唯のカラコンは好奇な色を照り返していた。欲しいのだ、目の前のものが。奪えるかもしれないのだ。

 正に貝のようになったいちごに、ケイがモモカンを入れた。シカトされキレて女の子の腹を蹴ったのだ。うめき声を上げたいちごを揺さぶった。

「言えって、何なんだってのこの金?」

 真理絵がエスカレーターの反対側へ消えると、遠くに警備員が見えた。札が出た。いちごはケイの腕を振り払った。引き抜いた札をつかんで走り出し、目の前のエスカレーターに飛び込み駆け上がった。

「テメ!」

 二階は相変わらずガラガラだった。従業員さえほとんど見当たらないない。いちごは、とにかく止まらず走り続けたが、昼間万引きした携帯売り場に向かっていることに気づいて方向をかえた。今度は同じく万引きした文具売り場が見えてまた方向を変えた。二階はそこら中が万引きした店で、ケイから逃げながら店からも逃げ、ばかみたいにエスカレーターの周りを半回りしただけだった。

 ケイが飛び上がるようにフロアに出てきた。いちごが目の前の衣料品売り場に入り、什器の影を這うようにして大きな柱の裏にまわると、少し先で女性店員が背を向けて品出しをしていた。段ボールの商品をスキャナーで検品している。音を立てないように柱の二段式の重衣料のレーンの中に身体をうずめると、いちごは商品の隙間から外をうかがった。遅れて上がってきた未唯らの足音が聞こえてきた。店員の向こう側の通路を走る未唯が見えた。

<どうした>

 野賀からだ。声が出せない。

<どうした>

 怒りを含んだ声になった。いちごは死にかかっているように声を絞って返答した。

「……け、警備員」

<金は>

「あります」

<地下に来い>

 真理絵が通った。返事できずにいたが、野賀は何も言わなかった。

 人がほとんどいない店内をせわしく回っているケイの足音は聞き分けやすかった。彼らの動きに神経を集中した。足音が少しずつ小さくなっていく。

 エアコンの空気が届かない什器の裏側は冷たい。なんだか、核戦争かゾンビから逃げてシェルターに退避したような気分だった。

 いちごは、よくよく考えてみた。

 このまま野賀のところに戻っても金を渡した時点で殺されるかもしれない。

 でも、野賀はキャッシュ・カードを他にもまだ持っている。残りもいちごに引き出させたいはずだ。金を全部出し終わったところが勝負だ。

 でも、街をかえて人間も変えた方がいいと考えて、用済みの自分はすぐ殺されるかもしれない。

 でも、たぶん今、軽自動車の中は死体でいっぱいだ。死体の片づけにしばらくは自分が使われるかもしれないから、すぐには殺さないかもしれない。

 でも、どれだけ言うことを聞いても、野賀が最後に美鈴と自分を解放してくれるわけがない。どのみち口封じされるだろう。どこかで脱出しなければならない。まだ金を渡してない。今警察に行けば間に合う、いろいろと。

 でも、警察は野賀が一番気にしているはずだ。このまま逃げたら警察が行く前に母は死ぬだろう。

 だったら、110番すればいい。そうだ携帯から110番すればいい!

 でも、携帯を切った時点で、イヤホンの向こうの野賀は狂いだすだろう。

 でも、でも、でも。

 考えるほどパニックになった。どこで逃げて、どうやって母を救う? まともな方法は、いちごには浮かばなかった。

(ダメだ、私。考えたらダメだ)

 はっきりわかるのは、自分にはたぶん結局何もできないだろうということ。そして、もし今逃げれば母は確実に死ぬということだけだった。そしてお腹の子も。いちごは目をつむり耳をふさいだ。

 素人のネット動画を観るように美鈴の顔が浮かんだ。場所も時もわからない、幼い頃の記憶か夢だ。どこかの公園、木のある場所、階段、すごくでこぼこの階段の上。自分の首を絞めている母の顔が浮かんだ。本当の記憶かどうかも定かではない。テレビか何かを見たのが美鈴の顔になって夢に見たのかもしれない。白黒になったり極彩色になったり、異常な状況下でいちごの記憶がフラッシュバックした。

 男性の声がした。年配の警備員が売り場に入ってきたが、いちごには気づかず、反対側へ抜けていった。

 かなり遠くで未唯の声がした。

 今出て行って金を彼女らに渡したらどうなる。全部彼女らに背負わせてしまえばどうだろう。金を奪わせて交番に逃げ込んですべてを、何もかもをぶちまける。今なら警察は、聞いてくれる。自分の話を聞いてくれる。世間も誰でも全部聞いてくれる。野賀やお金のことだけじゃない、これまでのこと全部、たぶん言いたくなくても聞いてくる。大量殺人事件なのだ、誰が死んでもどうなっても誰も自分を責めないだろう。真理絵だって何もできない。すべてが終わる。

 いちごは、助かる、と感じた。何もかもから助かるかもしれないと感じた。大きな濁流にのみ込まれ流されながら水面から首が出たような気持ちだった。

 殺された美鈴の姿が浮かんだ。釘を打たれた頭で大きなお腹を抱えたまま人形になっている。子供は眠ったまま、もう起きることはない。

(生まれてきた方がしんどいかもしんないじゃん。だいたいうちになんか生まれるなんて、そもそも無理。ひどい無理ゲー)

 いちごは思った、自分は生まれたかっただろうか。初めてよぎった意識だった。

 真理絵、未唯、ケイ、勇二、無視する教師、怒鳴る警備員、殴る義理父、自分のことだけの母、誰一人助けてなどくれない。唯一、きっとやさしいと記憶に入れている実の父は、そもそもこの世界へ自分を手放した人。いちごは自分の父の顔を知らない。覚えていないのだ。美鈴は写真さえみせない。たぶん無いだけなのだろうが。

(知ってたら生まれてこなかったよ、アタシは)

 いつか天国で、産まれられなかった子と出会ってもかまわない、と思えた。出よう、全部ぶちまけよう。逃げよう、全部から。誰がどうなったってかまわない、だいたい自分のことがどうにもならないのに何ができるというのか。なんで恐ろしい人殺しの言うことを、必死になって聞いてなきゃいけないのか。自分には重すぎるものを背負おうとしていたと気づいた。

 でも、母親を見殺しにするって、人殺しより重いんじゃないのか。

(もう充分手を汚した。今さら)

 いちごはたかだか万引きの記憶に頼り気持ちを奮い立たせると、商品の隙間をひろげ、裏口からのぞくように明るい世界を見つめた。

 検品を終えた店員が、新しい商品をハンガーごと束でつかみ上げて近づいてきた。上段の商品をいっきに端に寄せると、下でしゃがむいちごがあらわになった。だが、上を見ている店員は気づかないまま商品をレーンに掛け、すぐに次の商品を取りに戻った。おそらく下段の分だ。

 いちごは、黒く重く感じるポケットを抱え、初めて万引きをやらされたときのように後ろ暗い心に背中を蹴らせると、店員の背中を見ながら什器の影を出た。

 四人はいなくなっていた。しばらく通路に立っていると、最初にいちごに気がついたのは、いったん屋上へ上がって階段をおりてきたケイだった。白いワイヤレス・イヤホンを耳に入れたままだ。いちごを見つけたとたん靴底を鳴らして、仲間を呼びながら向かってきた。

 誰だって先に何かあるような気がして生きている。なのに自分はまだ大半が残っている人生が苦しみだけに見える。人生を生き抜いてきたけど苦しかったのと、残りがほとんど苦しみにしか見えないのとどっちが苦しいんだろう。今、わかるわけがない。わかるのは、自分には残り時間だけはまだあること。今を変えるだけだ。自分にどうすることもできないことがどうなったって、何をどう気にすればいいのか。誰にどう責められたって気にしようがない。

 真理絵らのことも一部始終明らかになる。もうやられることはなくなる。いちごは、むしろ今なら間違いなく変われるチャンスが来たのだ、と思った。

(あの子には、チャンスは来ない)

 もし、障害があって生まれたら、自分でチャンスをつかむなんてできないだろう。

(そのままでいな。そのまま帰りな、あんたは)

 ただじっとしているいちごを見てあきらめを感じとったケイは、ようやく観念したかと目尻を釣り上げながらも歩速をゆるめ、売り場をはさんだ通路の勇二を目で呼んだ。勇二が売り場の中をじぐざぐに抜けてくる。

 だが、今の自分は自分でチャンスを得たのだろうか。そもそも、殺人犯に好きにまかせて母親を死なせて助かることなんかが自分の力なわけがない。ただ流されるまま下っているだけだ、チャンスなんかではない。

(だったらあの子にはもっと来ない、うちに産まれたら。人生をなんとかするチャンスなんて。アタシらはどっちも同じだよ)

 ケイの後方に、スマホを耳に当てながらあらわれた未唯が走りだした。

(生きるのは、アタシだけでいい。そのままでいな)

 客にあやしまれないようゆっくり近づくケイは、もう数メートルまできた。もうすぐ終わる。全部終わる。

 後ろに追いついた未唯が、走らされてイラついた声を出した。

「ナメクジぃ」

 家に美鈴の賞状があった。正人の家への引っ越しの荷物を運び出すとき、いちごが捨てた。押し入れの衣類ケースの下でカビだらけになっていた湿気除けの厚紙を開くと、賞状だった。立派な賞状枠に縁どられていたが、手書きの、おそらく百均の表彰状で、茶色に色褪せ無数の折り目にカビが線状にしみこんでいて、すぐにはまともに読めなかった。

   表彰状

   鈴生ミミズ 殿

   あなたは学校で永きにわたり一ばんキモいので

   その功績を讃えここに表彰します。

 中学校名と校長の名前もマジックの手書きだった。見つけたことは美鈴には言っていない。だから、なぜ捨てなかったとかも聞いていない。

 生まれてくる子だけじゃない、自分も母もみんな、望まれてない。最初から。

 血のシミが残ったいちごのスニーカーがゆっくり交互に下がりだした。

(そのままでいな)

 いちごがつま先を返して走り出した瞬間、ケイが舌打ちしてまた床を鳴らした。いちごは手近の什器を通路に転がして、エスカレーターを駆け上がった。

「チョロチョロすんなっ!」

 二階を飛ばしていっきに三階まで登って、まっすぐ屋上駐車場に飛び出た。まっ白い卓布の上に赤黒い天井が広がった。雪だ。西の地平線と雲海の隙間を沈んでゆく夕陽を、赤黒い雲が雪を落としながら追っていた。

 どっちへ行っていいかわからないいちごは、やみくもに右往左往して円を描いた。薄い雪が紙のようにはがれた。

 ケイと勇二が上がってきた。未唯の甲高い声が聞こえる。ケイが何か叫んでいる。いちごは、車が上がってくるスロープの方へ夢中で走った。走りながらつぶやいた。

(そうだ、あんたは身体が不自由だからお金とかもらえて、きっと知らない人でも心配してくれて。ほんで、絶対殴られたりしない)

 真理絵が出てきた。

(なんだ、私より幸せじゃん)

 スロープを駆け下るいちごを見下ろした真理絵が、一瞬足を止め、顔を上げた。世界を閉じようと黒い地平線にせまる雪雲をせき止めるように、夕陽が雲の端を五色に染めていた。彩雲だ。真下をいちごの足音が渦の底へ沈んでいく。

(生まれてくりゃいいよ)

 全力で螺旋のスロープを下っていくいちごの靴跡を勇二らが追った。

「テメェ、待て!」

 まさか上から人が全力で走り降りてくるとは思わず発進した乗用車に当たって、いちごは勢いよく転がった。車体に阻まれた勇二がボンネットに手をついた。ドライバーの女は、強盗にでもあったような顔で硬直したままだ。いちごは転がりながら立ち上がった。もうどこが痛いのかわからなかった。

(でももしいつか、生まれない方が良かったのにって思ったら、そのときは、)

 とにかく走る理由を得たいちごは、冷たいコンクリートを蹴った。

(アタシ、見な)

 五人の叫び声と靴音が、螺旋の回廊にけたたましい音を響かせながら渦の底へ向かっていった。


(つづく)

 ここまで読んでくださった方、いらっしゃったら本当にありがとうございます。
 note初作品とはいえ、一万字小説投稿なんて誰もしていないのを確認せずにやってしまいました。ついでに、是非最後まで読んでいただけたらうれしいです。
 あと一話です。

 一、虫の味
 二、人形の部屋
 三、彩雲
 四、渦の底

 蒼井あぜ


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