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【短編小説】芥-1.致死量

1.致死量


 もう随分、昔の話です。
 「心の病」とやらを患っていました。しかし、あれは、心が辛いなどという、そんな曖昧で、ぼんやりとしたものではなく、リアリスティックにいうと、単に脳の病気でした。意に反して、生物的にふさわしくない思考になってしまったりだとか、活動性が失われたりだとか、とにかく人間の臓器の病気であって、根性でどうにかなりそうな感じでは全く無かったのです。
 また、あれは患ったものにしかまるで理解できないというような、排斥性に似た何かを持ち合わせており、実際に、家のものは皆、わたしの病状を信じませんでしたので、体を引きずるようにして活動していました。すると、家にいるときのほうが、ひどく疲れるので、学校では抑えていた嫌な部分がひたひたと静かに溢れていました。友達は私に愛想を尽かせていたに違いありません。恐ろしくて、今では連絡も取れませんので、実情は知らないのですが。
 そういうわけで、このようなつまらない人生をずるずると送っていました。ずっと、十六年の人生に、どうやって幕を下ろしてやろうか考えていました。
 そんなある日の晩のことです、自宅の一階から私を呼ぶ声が聞こえました。父の声でした。「はーい」と大きく返事を返します。一度だけすっと息を吸って、にこりと笑う顔を作り、駆け足で一階へ降りました。
 父の話は、とてもつまらないものでした。いえ、つまらないのは、もしかすると私の方なのかもしれません。真相はわからないのですが、そんな話を、頭をふらふらさせながら、へらへらと笑って聴いていました。機嫌よく話していた父でしたが、突然、父は黙って私をじっと見ました。そして、ゆっくり口を開いたのです。
 「無理に笑わなくていいんだぞ。隠さなくていい。」
 私の目を見たまま、そう言いました。まるで、父だけにスポットライトが当たっているようで、昔に一度だけ見たことがある劇場を思い出しました。反芻して、咀嚼するのに時間がかかりましたが、はっきりと私の脳まで届きました。
  「‥はい。」
 意味ありげに間を取って、心でも打たれたかのような演技を披露してやりましたので、父は満足そうに立ち去りました。私も、足早に二階の部屋へ戻りました。
 ふつふつと、何かが煮立つ音が聞こえました。
 へぇ?隠すな、と言うのね。
 私の左腕を、きゅっときつく絞めました。
 きっと、優しいのね、父は。けれどね、引き剥がさないでくださいな。誰の為に面を被っていると思っているのかしら、棚に上げないでちょうだい。
 全身の熱が上がる。髪が逆立つとは、多分このような時を言うのだと思いました。
 まぁ、自己保身だとでも思っているのでしょうか。ただの自制心だというのに。
 収まらない熱で、自分の腕に爪を立てた。じわじわと赤く腫れる。
 私の心を、受け止めきれなかったのはあなたでしょう。驕らないで。心の鱗片で音を上げたあなたなどに、全貌がどうして耐えられるのでしょうか。それを伝えられた私が、隠す事を、心労を、増やさねばならなくなると想像もつかないのでしょうか。
 あぁ、きっと、優しいあなたにはわからないですよね。これがきっと、愛なんですものね。
 私はひどく泣きました。静かに、誰にも知られずに。息を殺して、舌を噛んで、涙を流しました。このまま、消えてもいい。むしろ、その方が何倍も幸せになれるような気がしました。くらくらとする頭で布団に入ります。「目覚めないで」と、この日ばかりは、強く神に願って。

 翌朝、強い朝日で目が覚めました。もう、誰にも助けてもらえないのだわと、小さくため息をつき、学校に向かう支度を始めました。

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