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昆布きゃらぶ九州王朝説。

この時期になると、彼方此方に蕗が出てくる。
田舎暮らしなので野原に幾らでも生えている蕗を只でゲット。ということで定番な伽羅蕗を自己流アレンジしながら、幻の王朝を妄想した記録。


材料

蕗 10本
醤油 大匙2
味醂 大匙1
蜂蜜 大匙1
昆布 適当

万世一系の天皇がずっと日本を統治してきたと思っている人が多いかもしれませんが、左にあらず。
現在の皇室以前にも複数の王朝が存在。それどころか一時期には併存。
所謂、大和朝廷と最後まで並立していた王朝が九州に存在。国号は倭国又は大倭。
女王卑弥呼の邪馬台国から始まり、その一派は東に向かい、大和に新たな国を建国、これが神武東征。
九州の本家は大宰府を都として、仏教を国教とした国造り。
倭の五王は中国にあった晋、宋、斉といった国々に遣使。
統一王朝となった隋に
「日出る国の天子、日没する国の天子に使いす。恙無きや」と国書。
その後、白村江の戦いで大敗。
援軍として来た筈の大和軍に裏切られて滅亡。
事績や歴史はすべて大和朝廷が横領。歴史から倭国は消された。


蕗の葉を落として、適当な長さに切る。

古田武彦を代表として様々な人が主張している九州王朝説。
教科書には決して載らない話ですが、決して有り得ない話ではない。
何しろ歴史は勝者が書く物であり、都合よく歪曲されたり消されたりは当たり前。
様々な文献や話から倭国について妄想。
中国の南朝と呼ばれた国々に遣いを送ったという倭の五王。その家系図は歴代天皇の系図とは合致しない。その存在は中国の歴史書『宋書』にしか確認出来ず、『古事記』とか『日本書記』からは見付からない。
讃、珍、斉、興、武が五王の名前ですが、歴代天皇が漢字一文字の名を用いた史実はない。
一応、それぞれ讃は允恭天皇又は履中天皇、珍は反正天皇、斉は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇ではないかと言われる。


蕗、調味料と水をひたひたになる位まで圧力鍋に投入。

一般的に隋の煬帝に遣いを送ったのは聖徳太子とされています。
しかし隋書によると、どうも様子が異なる。
「日出る国の天子、日没する国の天子に使いす。恙無きや」で始まる国書を送って来た倭国王の名前は『阿毎多利思比狐』アメノタリシヒコと読み、アメが姓でタリシヒコが名。
これまた天皇に比定するには無理がある。何しろ天皇家には姓がない。
聖徳太子の時代の天皇は推古天皇。女帝です。
遣隋使を送って来た倭国王は男です。
ヒコという名前も男であることを示しているようですが、国書には妻の名前ばかりか後宮には600から700人の女性がいると記されています。


加圧後、細長く切った昆布を投入して、煮詰めていく。

倭国は朝鮮半島にも領地を広げて高句麗と対立。ついに唐の援軍を得た高句麗と白村江で戦。しかし敗戦。朝鮮半島からも撤退を余儀なくされた。
首都、大宰府を守るために長大な水城という土壁を築造。
本家である倭国を助けると言う名目でやって来た大和の軍勢は寝返り、倭国を攻撃。こうして起こったのが壬申の乱。
これによりトドメを差されて倭国滅亡。大和朝廷に呑み込まれて、その歴史や功績は大和に横取りされて歴史から抹消。

六世紀初期に磐井の乱という事件。
一般的には筑紫国造、磐井が大和朝廷に従わずに起こした反乱。鎮圧後、屯倉という直轄地が九州に置かれた。となっていますが恐らく磐井は九州王朝、倭国の王。分家たる大和が起こした反乱でこともあろうに王が討ち取られてしまった。これにより領土割譲を余儀なくされ、衰運の始まり。


昆布きゃらぶ九州王朝説

圧力鍋で煮たことで短時間で柔らかくなるばかりか、筋を取らずとも頂ける。無駄なくすべて食べられるということ。
思い付きで加えた昆布からいい出汁。昆布のフコイダンはコレステロール値を抑えることも忘れずに。
蕗には食物繊維だけではなく、フキノール酸やクロロゲン酸というポリフェノールが含まれる。つまり抗酸化作用あり。
甘辛い味が昆布出汁と絡んで、これは美味。


倭国は九州全土を治めたとしても島ですから、海を渡って領土拡大のために朝鮮へ。西に向かおうにも出雲王朝が存在若しくは既に大和が出雲を併呑して勢力扶植しているので他に行く道なし。
一方、大和は陸伝いに東へいくらでも伸びていけるので国力はどんどん拡大。
年代を経るごとに力の差。
朝鮮全土を獲得するために中国の王朝に朝貢して、後ろ盾になってもらう必要が倭国にはあった。
その戦略が上手くいかず、唐と結んだ高句麗によって朝鮮半島から追い払われて、大きく国力減退。
援軍のふりしてやって来た大和によって滅亡。

隋に遣いを送ったのは倭国王の多利思比狐。
聖徳太子が遣いを送ったのは隋ではなく唐。ことによると大和は唐から倭国討伐のお墨付きを得た?
倭国を吞み込んだ大和は巧みに倭国の歴史を自国の歴史に組み込む。その際、この国は万世一系の天皇が独立独歩で治めてきたという歴史を作った。それを覆すように中国に朝貢していた倭国は隠しておかねばならないので歴史は改竄された。

九州王朝である倭国は大和に先駆けて年号を使用。
私は実見していませんが、法隆寺の仏像の裏側には明らかに日本歴代の年号とも中国のものとも異なる年号が刻まれているとか。
そこに刻まれている名も上宮法王。恐らく倭国王と思われる人物の事績が聖徳太子に吸収されている可能性。
法隆寺の五重塔など幾つかの建造物や仏像は元々、九州から移築、移送されてきた物。
特に五重塔は大宰府にあった巨大寺院、観世音寺からの移築。
往時よりも規模は縮小したものの観世音寺は現存。五重塔の礎石は遺っています。
他にも講堂裏には長大な食堂(じきどう)があったのですが、現在は礎石のみ。建物自体は都に運ばれて、京都の三十三間堂になっている。

という具合に文献や遺跡からの妄想を楽しみながら、昆布きゃらぶ九州王朝説をご馳走様でした。

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