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蒲生氏郷芋コロッケ

コロッケ、ソースをかけるか醤油をかけるか?
私は風通のコロッケにはウスターソースをかけますが、醤油が合うコロッケを作りながら、信長にも認められた文武両道の戦国武将を妄想した記録。


材料

里芋    小さいのもを12個
ツナ缶   1個
出汁つゆ  大匙1
卵     1個
米粉    適量
粒状大豆肉 適量

少し前に蒲生氏郷と家臣達の逸話を書きました。↓

今回は蒲生氏郷本人についてまとめてみます。
近江日野の出身の氏郷、信長の娘婿に、つまり一門衆として迎えられたに等しい。氏郷本人の器量だけではなく、日野は伊勢と近江を繋ぐ重要な位置にあったので、戦略的な意味合いでもあった。
織田家中では猛将、柴田勝家の寄騎となる。初陣では介添え無用として、自ら敵を討ち取る活躍。


里芋を圧力鍋で煮る。

義父、信長が倒れた本能寺の変。氏郷は信長の親族を保護。
その後、寄親だった柴田勝家ではなく、信長の後継者として台頭してきた秀吉に臣従。
秀吉と家康がぶつかった小牧長久手の戦いでも殿を務める。こうした功績と器量を見込まれて、伊勢で十二万石の大名に。
松ヶ島城主となり、近世城郭を築城。更に日野から商人を多く誘致。
城下町を松坂と命名。この名前は秀吉の町、大坂から一文字もらった命名。
現代の松坂と言えば牛ですが、昔は商人の町。その基盤を作った人物として、氏郷は今でも松坂で顕彰されています。


茹で上がった里芋の皮を剥いて潰し、ツナと出汁つゆを混ぜ合わせる。

小田原征伐でも活躍。北条方の夜襲があることを探知して、迎え撃つ。
因みに陣中では、友人だった高山右近、細川忠興と牛肉を食べたという話。
熱心なキリシタンだった右近に感化されて、氏郷自身も洗礼を受けて、レオンという洗礼名を持つキリシタンに。
戦後、会津に転封、四十二万石の太守に。
ここは伊達政宗、関東に封じられた徳川家康を牽制する重要な位置。
ただ、氏郷本人は都から遠い地に転封されたことで、天下を狙うことは出来なくなったと嘆いたとか?
秀吉は氏郷の器量や覇気を恐れていたからこそ、こうした人事を行ったとも思われる。
氏郷が嘆いたと聞き及ぶと、ほくそ笑んだとか。


丸めて米粉を塗す。

会津のシンボルたる城は鶴ヶ城。この名前は氏郷に因んだもの。
蒲生家の家紋は向かい鶴。蒲生家の遠祖が敗戦後、鶴に導かれて無事に逃げおおせたという伝説から作られた家紋。
氏郷本人の幼名は鶴千代。この名前が今でも城の名前として定着。
会津は元々、伊達政宗が自力で奪い取った領地ですが、秀吉により没収されて、氏郷に与えられた地という経緯から、政宗と氏郷は火花バチバチ。
領地が接している安達ケ原の向かいにある黒塚は伊達家の領地だと政宗が申し立ててきた時、
「みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」という平兼盛の古歌を引いて、黒塚は蒲生領の安達ケ原に含まれると返答。
武力ではなく教養でやり込めた。
勇猛な武将というだけではなく、氏郷は文化人でもありました。
千利休七哲、つまり七人の高弟の一人。特に筆頭とも言われています。


米粉、卵、大豆肉を付けてコロッケを成形。

政宗は懲りずに清十郎という美少年を蒲生家に仕官させて、スパイをさせ、最終的には氏郷の暗殺を指示していたと言われます。
その企みが露見。しかし氏郷は主に忠実だった清十郎を許して、伊達家へ帰した。
葛西大崎一揆が起こり、政宗と協力して平定に当たるが、この一揆が政宗の扇動が原因だったことも看破。
政宗に毒殺されそうにもなる。
これだけのことをやりながらも、巧みに秀吉からの追求も言い逃れて首を繋いだ政宗も大した者。


油で揚げる。

一揆の平定後、更に加増されて九十二万石。
これは当時、徳川家康、前田利家に次ぐ三位の石高。
他の大名達と、秀吉亡き後、天下人になれそうなのは誰かと話している時、多くの者が徳川家康の名前を挙げたが、氏郷のみは前田利家。それがなければ自分だと言ってのけたとか。
広い領地を貰い、遠方の国に行かされても戦国武将らしい覇気は少しも衰えず。


揚がったら、油を切る。

文禄元年(1592)秀吉は唐入りの戦を起こす。一般的には文禄の役と呼ばれる朝鮮出兵。
氏郷も活躍を期待されて、前線基地であった肥前名護屋城へ出陣。
この陣中で体調を崩す。そのために翌年、会津へ帰国。はかばかしくない病状が続く。
腹水がたまり、顔や手足にむくみが出たという症状から直腸或いは肝臓癌だったのではないかと推測されている。


蒲生氏郷芋コロッケ

揚げ過ぎた。すでに火が通っている食材ばかりなので、ある程度色づいたら引き上げるべきでした。
それでも焦げた大豆肉も香ばしくて良い。
中身の里芋は柔らかく、出汁もよく効いている。ツナもよい風味を加えてくれる。目論見通り、醤油をかけると美味いが、そのままでも十分にいける。
パン粉ではなく大豆肉を衣にしているのでグルテンフリーで、タンパク質たっぷり。

三条西実枝から和歌を、里村紹巴から連歌を学んだ氏郷。
「かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風」
という辞世を遺して、文禄四年(1595)伏見にて死去。

公式には病死なのですが、昔から毒殺説も根強い。
伊達政宗だけではなく、秀吉も怪しい。

織田家の家系は美形。氏郷の妻、冬姫は信長の娘ということで美人だったようで、夫の死後、秀吉がちょっかいを出そうとしたという話ですが、これを拒んだので、蒲生家は宇都宮十二万石に減封された?
氏郷と冬姫の間には二人の男子がいたのですが、共に早世。蒲生家は断絶。
文武に優れた戦国武将、蒲生氏郷を妄想しながら、蒲生氏郷芋コロッケをご馳走様でした。

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