兼好法師お麹七草粥
塩麹アンバサダー(自称)です。
万能調味料を使い、季節物料理しながら、作品はよく知られていても、実像はよくわかっていない人を妄想した記録。
ご飯 1合位
昆布 5センチ位
七草セット 1
塩麹 大匙2
塩 少々
セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが春の七草。スズナは蕪、スズシロは大根。
萌え出る野菜の栄養を頂きながら、正月のご馳走で疲れた胃を労わろうという意味合いから、江戸時代に広まったという七草粥。
これを塩麹味で作ってみる。
日本の三大随筆と呼ばれるのが『枕草子』『方丈記』『徒然草』
『枕草子』についてはこちら。↓
そうです。当記事は塩麹の二番煎じ。
徒然草の作者は一般的に吉田兼好と呼ばれますが、実は生存中に吉田と名乗ったことはなし。それどころか吉田一族だったのかも疑問符が付くとか。それについては後述。
本名を卜部兼好(うらべかねよし)という人物が生きたのは鎌倉時代末期から室町時代初期、いわゆる南北朝時代。
幕府という権威の崩壊、朝廷が二つに割れるという異常事態。そうした世相に生きたことが、彼に人生の無常を感じさせたようで出家遁世。
世捨て人めいた生活をしながら、見聞や思いをあれこれと書いたのが『徒然草』
本名を音読みして兼好(けんこう)と法師名を名乗ったのですが、特定の寺院で修行するということもなし。遁世とはいえ、飯は食わねばなりません。どうやって食っていたのか?
二条派の歌人としてそれなりに名があったようなので歌の指導とか、或いは田畑を持っていたので、そこからの収入という説も。
お金については面白い話あり。
夜よもすずし
寝ね覚めのかりほ
手たまくらも
真ま袖そでの秋に
隔へだてなき風
という歌を頓阿という同門の歌人に送った。
この歌、隠された意味。各句の最初の文字を繋げると、
「よね(米)たまへ」つまり米の無心。
そればかりか、各句の最後の文字を逆から読むと、
「ぜにもほし」銭も欲しいという訳。
頓阿の返歌。
夜も憂うし
ねたく我が背子せこ
果ては来ず
なほざいにだに
しばし訪とぶらひませ
こちらも同様の読み方をすると、
「よねはなし。せにすこし」(米はなし。銭少し)
面白いと見るか、回りくどいと見るか?
『徒然草』には同時代や少し前の有名人にまつわる逸話も多い。
鎌倉幕府五代目執権、北条時頼の母、松下禅尼が自ら障子紙の切り貼りをして倹約の大切さを説いた話。そうした教育の賜物か、孫で八代執権となった時宗も質素倹約を旨とした。
そうした質素な侘びというべき生活を好んだ兼好、徒然草の中にも山中で静謐で質素な生活をしている人の住まいを見て感動したものの、蜜柑の木の周囲に柵を作って人から盗られないように用心しているのを見て、執着ということを感じて興覚めしたという話が出ています。
他にも徒然草から興味深い話を拾うと、
仁和寺の法師が酒宴の際、舞い踊りながらふざけて鼎をすっぽりと頭から被り踊り続けたが、抜けなくなってしまう。
銅で出来ているので割ろうと叩いても割れず、それどころか釣鐘の中にいるのと同じで、法師は耳が割れそうな音に悩まされる。
医師を呼んでもどうにもならず。息苦しいし、もう耳や鼻が欠けてもいいから力任せに抜いてくれと懇願。隙間に滑りをよくするために藁を詰めて引っ張り、どうにか抜けたものの、やはり鼻や耳にひどい傷。
一時の悪ふざけがとんでもない結果になった。笑っていいのか気の毒。
石清水八幡宮に参詣した者が、山上に本殿があることを知らず、山麓の建物だけを見て納得して帰った。何事にも詳しい人の案内は必要という話。これも結構、有名な話。
文とはどんどん書くもので、下手だからといって代筆などさせるものではないという記述も徒然草にありますが、代筆で思い出されるのが、高師直の恋文代筆事件。
足利尊氏の執事、高師直が塩谷判官の妻、顔世御前に横恋慕して、兼好に恋文を代筆させたという話。
書いてあることとやっていることが違うな。所詮、権力者の命令には逆らえなかったか。
或いは、徒然草の記述は高師直に強要された代筆事件を悔いて、ひっそりと書き遺した皮肉?
代筆事件の前か後かで、徒然草の記述の意味合いが異なってくるが、順番の検証はしようがない。何しろ兼好自身は『徒然草』を世に遺そうという気はあまりなかったようで、本当に自分が読むだけの手慰み。障子や壁紙の裏から発見された章も少なくない。
そうした遺稿を兼好に近しい人達が纏めて、ようやく『徒然草』が完成したのは兼好の死後、100年程経ってからだとか。
前回の『枕草子お麴雑煮』と基本的に同じ味付けですが、若干、塩麹の量を減らして、七草の滋味を味わえるようにしてあります。
春草の苦みも塩麹の甘塩さでマイルドに。
七草にはAやC等の各種ビタミン、カルシウムや鉄分、勿論食物繊維も豊富。
萌え出る若草の生命力で邪気を払うという意味合い。
兼好が生まれた卜部家は吉田神社の神官の家。吉田を姓としたのは室町時代も進んでから。最初に書いたように兼好自身は吉田とは名乗っていません。
それどころか、最近の研究では吉田一族ではなく、滝口の武士だったのではないかという説。
吉田家の方が徒然草の作者として有名になった兼好を一族の系譜に無理にくっ付けて箔漬けした?
味わい深い文章が多い『徒然草』を遺したものの、本人の姿は曖昧模糊としている兼好法師を妄想しながら、健康によい兼好法師お麴七草粥をご馳走様でした。
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