枕草子お麹雑煮
正月と言えば餅、餅と言えば雑煮。というのは日本全国共通ですが、雑煮という料理、地方毎に随分違う。
白味噌、澄まし汁、醤油。餅も丸餅、角餅、餡子餅。
オリジナルな雑煮を作りながら、古典の教科書の常連というべき元祖エッセイを書いた才女を妄想した記録。
餅 好きなだけ
昆布 5センチ位
大根 適量
人参 大根より少な目
塩麹 大匙3から4
三つ葉 適量
「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく山際」で始まる枕草子。
1000年前の平安時代に書かれて、現代まで読み継がれてきた作品を遺したのが清少納言。
この人の名前、セイショウナゴンと一気に読んでしまいますが、実はセイ・ショウナゴンが正解。
この名前はいわば綽名。本名はなぎ子ではないかと言われます。
歌人として有名な清原元輔の娘。清という字は清原氏という出自を示しています。
少納言というのは普通に考えると父とか兄の官職と思われる所ですが、近い親族に少納言に任官された者がおらず、何故、彼女がそう呼ばれたのかは不詳。
一条天皇の中宮、定子に仕えて宮中へ。
定子の方が10歳若い。才色兼備な女性だったらしく、清少納言も才気煥発な人ということで気が合った。
ただ清少納言は才はあっても色はあまり、、、という人だったとも。
当時の女性の美しさの要素の一つが艶やかな黒髪ですが、少納言は縮れ毛で髪が薄く、鬘を使用。
父も薄毛だったらしく、遺伝でしょう。
ある時、少納言が塞ぎ込んで出仕しなくなる。
心配した定子は少納言に大量の紙を届けさせた。これは以前、気分が落ち込むようなことがあっても、白い紙があれば気が晴れると少納言が語ったことを覚えていた定子の心遣い。
ちょっとした会話を覚えていて、気遣いしてくれた主に少納言は感動。
この紙を使って執筆開始されたのが枕草子。(諸説あり)
「いとおかし」の文学と言われることもある枕草子。内容は季節のことや人の評判、宮中での出来事など約300章。
よく対比される「源氏物語」が「もののあわれ」を示した壮大な物語であるのに対して、一貫したものはない。正に随筆。
「香炉峰の雪は如何に見る」と冬の寒い日、定子が側に仕える女房達に問い掛ける。
返事の代わりに、少納言は簾を巻き上げさせた。
これは白楽天の漢詩を知っていないと、寒いのにわざわざ風を入れるなと思いそうなこと。
「香炉峰の雪は御簾を巻き上げさせて見る」という一節が白楽天の漢詩にあり、それを踏まえた遣り取りということ。
この逸話が示しているように清少納言は漢詩が得意。
当時は漢詩とか漢字は男性貴族がよくするもの。女性でありながら、それに通じていたのも彼女がかなりな知識人だったことを示している。
父親は有名な歌人だったのに、彼女自身は漢詩を好んでいた?
と思いきや、歌人である藤原行成と歌の遣り取りをしたという話があり、その時の歌、
「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」
は百人一首にも選ばれています。
ただ、この時の行成の返歌が下手くそだったとこき下ろしたとか。
という風に時折、人物批評めいたことは枕草子にも。
中納言の君とか小兵衛といった女性達を、今風に言うならイジった記述等。
何となく愛ある批判とも読み取れる。
様々なことがありつつも、少納言は宮中生活を楽しんでいたのが感じ取れる。
清少納言が宮仕えしていたのは七年。彼女の人生でもっとも輝いていた時代を凝縮したのが枕草子と言える。
仕えていた定子が次女を出産後、死亡すると少納言も宮中を去る。その後については諸説。
彼女と入れ替わるように宮中に出入りするようになったのが紫式部。
紫式部が仕えたのは一条天皇の中宮、彰子。
紫式部と清少納言がバチバチのライバルだったように思う人がいるかもしれませんが、二人が宮中に出入りしていた時期は重なっておらず、すれ違い。
それでも紫式部が清少納言を「才女ぶっているけど、漢字の間違いなども多い、鼻持ちならない女」という風に批判したという話。
既にいなくなった人を聞こえない所で非難している陰口というべきか。
これには原因があって、少納言が式部の元夫を悪く言ったことがあったとか。腹に据えかねていたか。
昆布出汁に塩麹の柔らかな甘塩味がよく合う。後から加えた三つ葉が爽やかな後味。
大根と塩麹と白い汁は正に香炉峰の雪?
根菜から食物繊維がしっかりと頂ける。
三つ葉の香成分には鎮静効果と食欲増進効果。
少納言の兄、清原致信が大和国の利権を巡る抗争で殺害された時、彼女は同じ屋敷に居合わせた。
郎党や親族の男は殺される場面。
この時、彼女は着物を捲って女であることを示して命拾い。
その他、ある貴族が清少納言が住む粗末な屋敷の近くを通り掛かった時、
「あの清少納言も落ちぶれたもの」と呟くと、
出家していた少納言が
「駿馬の骨を買わないのか」と叫んだ。
これは名馬が欲しければ、死んだ馬の骨を買えという中国の故事を拾って、嫌味を言い返したといった場面。
老いても自分は駿馬だと強がったか?
以上は晩年の逸話ですが、宮仕えを辞した後の清少納言の人生はよくわからず。墓所も特定されず。
兄が殺された時に居合わせた話ですが、これは鎌倉時代の説話集『古事談』所載。
こうした晩年の逸話ですが、殊更に清少納言を貶めようとしている風に読めてしまう。
平安時代が終わると、この国は長らく武士が支配。武家政権の間は男尊女卑の風潮は更に強かったと思われる。才気を鼻にかけて、男を小馬鹿にしていた生意気な女を筆で懲らしめてやれという悪意を感じる。
捏造とか誇張が入っているのでは?と妄想。
武家の子女は夫や父兄に殉ずるのが美徳とされてくると、命惜しさに秘部、つまり恥まで晒したと嘲っていたようにも読めてしまうのは気のせい?
そんなことを妄想しながら、醤油味でも味噌味でもすまし汁でもない枕草子お麹雑煮をご馳走様でした。
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