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明日という字は明るい日と書くのね。

珍しい食材を料理しながら、明るい日を待ち望み或いは日々を楽しんでいた?島流しになった大名を妄想した記録。


材料

明日葉 1パック
鰹節  一掴み
味噌  お玉に一杯位
米   1合半

珍しい食材は明日葉。八丈島に自生。ただ、これはスーパーで買った群馬県で栽培された物。
味噌は自家製。↓

元亀三年(1572)備前国(岡山県)に宇喜多直家の次男として生まれた八郎が後の宇喜多秀家。
父の直家は裏切りや暗殺で伸し上がった梟雄でしたが、秀家はそれに似ず人のいいお坊ちゃんといった風な人。
父の死後、家督を継いだのですがまだ十歳。
秀吉に気に入られ、一門のような扱い。これは母が美しく、秀吉の側室になったからとも言われる。
元服の際も一字を与えられて秀家と名乗る。そればかりか豊臣姓、羽柴の名字まで与えられる。ついには秀吉の養女である豪姫と結婚。
養女ですが実は前田利家の娘。


明日葉をざく切り。

数え齢二十七歳の時に五大老の一人に任じられる。その年(1598)に大恩ある秀吉死去。
ここまで厚遇されたので当然、豊臣政権を支える決意を固めて、政権簒奪を狙う家康と敵対。というのが秀家の前半生。
豊臣家のためというだけではなく、宇喜多家の御家騒動を通じて家康とは因縁があった。
妻、豪姫と共に前田家から移って来た中村次郎兵衛と従来からの宇喜多家の三家老が対立。
家康がその調停。結果として家老達は宇喜多家を去り、徳川家に仕える。
中村も越中に蟄居。
このことが宇喜多家の弱体化を招いた。


鍋に水を張り、鰹節を投入。加熱。

慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では主戦派として奮戦。しかし武運拙く敗北。逃亡を余儀なくされる。
逃亡中に落ち武者狩りをしていた矢野五右衛門という人物に見つかる。
「湯漬けでも振舞ってくれれば、私を徳川方に引き渡しても構わない」と申し出る。
自分だけではなく付き従っている者達のことも考えたのではないか。
潔さに感じ入った矢野は秀家達を40日間も匿う。そればかりか都への逃亡を助けた。
無事に都に潜伏し、豪姫とも再会。


明日葉投入。

京都所司代を務めていた奥平信昌に発見されると、また逃亡。船に乗って目指したのは遥々と薩摩。
薩摩の太守、島津家も関ヶ原の負け組。突如、領内に逃げ込んできた秀家を匿ったのは、徳川方との交渉に切り札として使えるという計算?或いは懐に飛び込んできた窮鳥を殺すことは出来ないという武士の情け?
結局は島津家の仲介で秀家が出頭したのは既に関ヶ原から三年後。
首謀者の殆どは処断済みで徳川家の天下もほぼ定まりそうな局面ということで死罪は免れて、駿河の久能山に配流。次いで八丈島に島流し。
ここからが秀家の長ーい晩年の始まり。


味噌投入。

八丈島は水が乏しく、水田が作れないので島民は雑穀を主食として海産物を食べていたが、自生している明日葉もよく食べていた。
今日、摘んでも明日にはもう生えてくると言われる程に生命力が強い植物。
二人の息子や従者と共に島に渡った秀家へ、愛妻の豪姫は隔年で米や生活物資を仕送り。
これが島での生活を大きく支えた。
定期的な仕送りでも足りなくなると、前田家に無心することもあった。
或る時、福島正則に献上する酒を積んだ船が島に立ち寄った時、
「少しでいいから酒を分けてくれないか」と秀家自身が頼んだことも。
かっての五大老の零落した姿に哀れを感じた福島家の者達は酒に干し魚を付けて贈ったとか。
前田家だけではなく、先述の御家騒動で秀家の許から去った三家老の一人、花房正成も秀家に仕送りしていました。
秀家は人に好かれる所があった?


今回も玄米使用。

八丈島の代官に食事に招かれた秀家。飯をお代わり。
お代わりはお握りにして、屋敷で待っている家臣達に土産として持ち帰る。
自分だけではなく家臣達にも少しでも貴重な米を食べさせたいという思いやり。
こうした苦労をしながら、明日には赦免の使いが来るだろうかと首を長くして待っていた?
と言われることもありますが、そうは思えない節がある。
江戸幕府が確立して、世が平和になった頃、前田家から領地を十万石程譲るから大名として復帰しないかとのお誘い。
「今更、徳川に仕える氣はない」と秀家は返答。
武士の意地というだけではなく、島の暮らしが氣に入っていたのではないか。


ご飯投入。

島から出て大名に復帰して、徳川家に頭を下げて軍事やら政治で疲弊する暮らしよりも島で自然に囲まれて、家臣や息子達とのんびり暮らす方がよくなった?
八丈島で暮らすこと約50年。明暦元年(1655)に宇喜多秀家は八十四歳で死亡。最後の様子は伝わっていません。ということは穏やかに天寿を全うしたということではないか。
病は氣からと言われる通り、不満や怒りという負の感情に満ちていると早死にしそうなものですが、秀家は関ヶ原に集ったどの大名よりも長生き。
既に幕府の将軍は四代目、家綱の治世。


明日という字は明るい日と書くのね

明日葉、料理するのも食べるのも初めて。
永山久夫先生の「武士のメシ」を参考に作ってみた逸品。
以前もこの本に載っている料理を作ったことあり。↓

「武士のメシ」に掲載の写真と異なり、拙作は雑炊になった。
明日葉、体に良さそうな味。つまり薬っぽい感じ。しかし濃厚味噌が食べやすくしてくれる。
煮込んだ玄米は更に柔らかい。
明日葉にはカルコンというポリフェノールが含まれ、抗菌作用、血行促進。
抗酸化作用があるカロテンばかりか、CやK、E、B1とビタミンの宝庫。鉄分も含有と正に生命力の塊。

秀家の子孫はそのまま八丈島に土着。
驚くべきことですが、前田家は江戸時代の間ずっと、浮田と改名した秀家の子孫に仕送り。260年も支援し続けた。
明治維新後、新政府は浮田家を赦免。前田家の庇護で一族は東京へ。
ところが一族の内、何人かは島へ帰ってしまう。
東京暮らしは便利なようでも、島の暮らしが板に付いていたので、その方がよくなってしまったか。
貧しいようでものんびりとした暮らしの方が精神にも健康にもいいのかもしれない。
人生の半分以上を流人として暮らしながらも、長寿を全うした宇喜多秀家を妄想しながら、明日という字は明るい日と書くのねをご馳走様でした。

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