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手前味噌我物語

日本三大仇討というものがあります。
荒木又右エ門鍵屋の辻の決闘、赤穂浪士の討ち入り、曽我兄弟の仇討。
決闘と名が付くように、荒木又右エ門は仇討というよりも旗本と大名家家臣の面子争いの面が強く、忠臣蔵事件は仇討とは言えないという考察を以前、グラタン作りながらやっています。

曽我兄弟の仇討は非業の死を遂げた父親の仇を遺児達が討ったという本当に仇討らしい話。
現在の私はテレビを所有していないので見ていませんが、昨年の大河ドラマ、鎌倉殿の十三人に曽我兄弟が登場したとか?
最近は忘れられつつあった気がする彼等に久しぶりにスポットが当たったのは喜ばしい。
昭和の頃なら、大半の日本人が知っていたであろう仇討話を同じく昭和の頃の多くの日本人は自宅で作っていたであろう自家製味噌を仕込みながら妄想。
いつもながら、何という強引さ。


材料

18時間水に漬けて置いた大豆 500グラム
米麹 1キロ
塩 300グラム

曾我兄弟の仇討は、曽我物語という本に纏められて伝わってきました。
この物語の基調にあるのは、一所懸命という思想。
平安時代末期から鎌倉時代にかけての武士の生きる指針となっていた言葉。
自分達が開墾して開発した土地、先祖代々受け継いできた土地は、文字通り、命を懸けて守らねばならないということ。
伊豆国、伊東の開発領主、久須美入道、跡継ぎである男子が早世したので、後妻の連れ子の子つまり血の繋がりがない孫を祐継と名乗らせて跡継ぎに。
ところが男子は早世していたものの、その子は健在。血が繋がっている嫡孫である祐親としては、血が繋がっていない者が領主として振舞うのが面白くない。


圧力鍋で茹でて柔らかくした大豆を潰す。

伊東の領主となっていた祐継が急死すると、早速に祐親は伊東に乗り込み、着々と手を打つ。
祐継の子、金石を都の権力者、平重盛の見参に入れると称して共に上京。そのまま置き去り。伊東の支配権を固める。
一方、金石は元服して工藤祐経と名乗りましたが、都で務める内に教養や知識を身に着けていき、そうなると伊東祐親が自分にしたことの意味を悟る。
本来、自分が継ぐべき土地を横領されたという訴えを起こそうとするものの、祐親が賄賂攻勢を都の有力者にかけて妨害。
業を煮やした祐経、伊豆へ刺客を送る。

塩と麹を混ぜる。

祐親の息子、河津三郎は相撲の達人で、今は殆ど見られない技、河津掛けの考案者。
祐経が放った刺客、河津三郎を殺害。
夫を失った三郎の妻、二人の幼子を連れて曽我太郎と再婚。当時、五歳の一万、三歳の箱王は曽我兄弟に。やうやく主役登場。

ややこしくなってきたので少し整理。どうして親子で苗字が違うのか。
姓と名字或いは苗字というものは現在ではほぼ同じ扱いですが、元々は別。
姓とは天皇から賜った氏姓。源平藤橘というやつ。
名字又は苗字というのは住んでいる場所や役職から取った呼び名。
伊東の領主なので伊東祐親、河津に住んでいたので河津三郎。本姓が藤原氏で木工寮に出仕したことから、祐経は本姓と役所から一字づつ取って工藤。

曽我兄弟、いつか父の仇を討とうと心に決めて成長していきます。

混ぜた塩と麹を大豆によく混ぜ合わせる。

やがて曽我の家督を継ぐのは一人でいいということから、元服した兄は十郎祐成に。弟は亡き父の菩提を弔って欲しいという母の願いから箱根権現に稚児として預けられることに。
その箱根権現で仇である工藤祐経と対面という場面が曽我物語に。
箱王の素性を知っている祐経、これからは親族である自分が後ろ盾となる故、何事も相談しなさいとの言葉。お近づきの印として赤木の柄の短刀を送ります。(伏線)
自分で刺客を送っておいて、何たる厚顔無恥と箱王は腸煮えくりかえったことでしょう。
本当に〇野太郎並の厚顔無恥。元ワク大臣で2億回打って一件も健康被害がなかったと抜かした河〇太郎。
全責任は私が取ると豪語しておきながら、いざ健康被害が隠しきれずに出てくると、あれはそういう意味ではなかったと逃げ口上の河野〇郎。
そんな河野太〇が次の総理候補等とたわけたことを言っているようでは、日本国は間違いなく潰れますな。
それはさておき、そんな屈辱に耐えてまで父の菩提を弔うことなど出来ないとばかりに、箱王は箱根権現を脱走。駆け込んだ先は北条時政。時政に烏帽子親になってもらい元服、五郎時致と名乗りました。
これを知った母は激怒。復讐などという修羅の連鎖ではなく平穏な日々を息子達に望んでいた母の心、子知らず。勘当を言い渡します。


混ぜた物を袋に詰める。

後はこれを怜暗所に10ヶ月保存。続きは10か月後。
というのはあんまりですね。曽我兄弟の話も終わっていないし。

実は昨年、仕込んだ味噌があります。それを使って味噌汁作りながら続けます。

手前味噌

兄の十郎と大磯の遊女、虎御前との恋、怪力自慢の五郎がこれまた力自慢の朝比奈義秀と力比べ、鎧の草摺りを引っ張られても微動だにしなかった話等々、様々なエピソードが曽我兄弟の物語を彩っていきます。


材料、あ、出汁昆布を写してない。

シンプルに自家製豆腐と葱で作ります。

討てそうで討てないすれ違いが幾度か続いた後、クライマックスの舞台は富士の裾野。
建久四年(1193)五月下旬、源頼朝は大規模な巻き狩りを富士の裾野で行いました。前年には征夷大将軍に任じられ、名実共に頼朝の天下が定まった時分。巻き狩りというのは軍事演習も兼ねた行事で、天下に自分の威勢を示す意味合いもあったかと思います。
数日間続いた巻き狩り、土砂降りの夜に事件が起こりました。
工藤祐経の寝所に忍び入った曽我兄弟、ついに本懐を遂げ、父の仇を討ちました。トドメに使ったのが宿敵、工藤から送られた赤木の短刀。


昆布出汁を取った鍋に賽の目に切った豆腐と小口切りの葱を入れて煮る。後は自家製味噌を溶けばよし。

しかし、ここから事態は奇妙な方向へ。仇討が終わったというのに、何故か兄弟はそのまま暴れ、最終的には頼朝の寝所目指して突進。
御家人の中には、兄弟の行動を見て見ぬふりする者もいたとか。
やがて兄、十郎は仁田忠常に討たれ、弟の五郎は生け捕り。
この奇妙な経緯から、仇討の裏には何らかの陰謀や政変があったのではないかという見方は古くからあります。
この事件の後、頼朝の弟である範頼は伊豆の修善寺に追いやられて、死に向かう。常陸国でも紛争。
一連の黒幕だったのではと言われるのが北条時政。五郎の烏帽子親になったという縁から、そんな説が出て来たのでしょうが、確証はない。
又、源頼朝という人物も実は兄弟にとっては遺恨があると言えます。
伊東祐親の娘、つまり兄弟の叔母に八重姫。彼女は流人時代の頼朝と恋仲に。頼朝の子を出産。祐親はこのことが都の平家に知られることを恐れて、生まれたばかりの子を滝つぼに投げ込んで殺害。こうした経緯から祐親は頼朝の旗揚げには加わらず、平家方。しかし頼朝の勢いが強くなるにつれ、立場はどんどん悪化、自殺したとも言われます。


仕上げに摺り胡麻。

滑らかな自家製味噌。発酵の風味がどことなく甘酒を思わせる。味噌とは優れた保存食。一年位はもちます。仙台味噌等は3年、熟成させるといいます。仙台味噌に関する記述がこちら。↓

それ故、スーパー等で販売している味噌にもしも保存料が入っていたら、それはウソンコの味噌。

さて翌日、五郎は頼朝の前に引き出されて、直々に尋問。その際の悪びれず、堂々とした受け答えに感じ入った頼朝は助命しようと言い出します。しかし、大勢の意見からそれは通らず。

現代の日本人の心情に仇討というものが完全にマッチするとは私は考えていません。だからこそ、忘れ去られようとしているのかもしれません。
日本の法律は仇討を認めていません。それに兄弟の母が危惧したように仇討は新たな報復を呼び、血の連鎖がいつまでも続くことになりかねない。
この物語も工藤の視点から見れば、兄弟の祖父、伊東祐親が工藤祐経に行った仕打ちが元凶ということになる。
幸いと言っていいのか?兄弟には子がなかったので、生け捕りになった五郎が祐経の子に引き渡され、処刑されたことでこの連鎖は終了。
兄弟の養父、曽我太郎や母には何の咎めもなし。それどころか、曽我の里の年貢は免除するので兄弟の供養に充てよという頼朝の寛大な処置。
十郎の恋人、虎御前は出家。兄弟の菩提を弔いつつ、曽我物語を語り伝えて生涯を終えたと伝えられます。

日本人の琴線に触れ、長く語られてきた曽我物語、このまま忘れられるのは惜しいので自分なりに要約。同様に多くの日本人が忘れてしまっている手前味噌も令和の世に蘇って欲しい。去年から試験的に始めた手前味噌作り、いずれは大量に作って年中、楽しめるようにしたいものです。

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