多様性

その言葉が世間に浸透してきたのは、私の中ではつい最近だった。
大学を卒業するころだろうか。「ダイバーシティー」なんてかっこいい横文字になって広まっていったその言葉は、当時就活をしていた私の目にうつったその言葉は、小さな違和感として私に残っていた。

とはいえ、「ダイバーシティー」という言葉が嫌いだたわけではない。やれ企業の方針だ、やれイメージ戦略だ、そういったものに巻き込まれていっている「ダイバーシティー」という言葉に少し嫌気がさしていたんだと思う。

 

そこには、きっと就活直前、私がドイツに留学に行っていた経験が関係している。

大学時代、4回生の後期から5回生の前期というとても中途半端な時期にドイツへ留学に行っていた。留学中に学科やサークルの同期はみんな卒業してしまうし、本来であれば3回生の夏休みに行くはずだった実習をいろいろな事情で1年延期してもらっていた私は帰国後に実習、就活、卒論の3つのハードルを一気に超えないといけなくなってしまった。

それでも、わたしは留学に行ったことをもちろん公開なんてしていない。
ありきたりな言葉を借りれば、それは私の人生の価値観を大きく変えてしまうような1年だった。

 

俗に言う「文化の違い」が私の考え方を180度変えてしまったのだ。

それがドイツだったからというわけではないのは重々承知しているけれども、今まであったことがない人がたくさんいた。
初めて会うムスリムの友達。朝早くから1日に5回お祈りするのよと優しくムスリムの文化について教えてくれた。
男性が好きなんだと笑顔で語ってくれた彼。人を好きなことに性別は関ないと教えてくれた。
中東から来たという語学学校の友達は、ドイツに来る途中に弟が亡くなったらしい。雪を見て、僕の国は雪は降らないけど爆弾は降るよなんてびっくりするようなことを、それが日常であるかのように話していた。

そんな私がいきてきたたった二十数年の常識なんて、簡単に覆されてしまうできごとを何度も目の前にしていると、だんだんと、そういったことを「わかろう」としている自分がいることに気が付いた。

 

「自分となにかしら違う部分を持つ人を認めること」
それを今まで多様性だと思ってきた。
これだけたくさん海外に出て、海外に住むことまでして、そうやって手に入れたものは、「相手を理解すること」ではなく「相手を理解しようとすること」。

「理解」できないことだってある。
お祈りなんてお正月に神社でお参りする程度だし、わたしの恋愛対象は男だし、爆弾が降る中街を歩いたことなんてもちろんない。

きっと多様性は「理解する」ことではなく、相手を「理解しようとすること」、「こういう考え方もあるんだ」ということをわかることなんだと思う。

 

そんなことを考えていると、「理解する」なんてそれ自体がとても上から目線な行為であるような気がしてきた。
当たり前のことだけれども、別に彼らはわたしに理解されるために生きているわけではない。彼らの人生は、わたしというたったひとつの物差しで測れるものではない。

それが分かるとどこかのどの下のほうにできていたわだかまりのにも似た違和感ががすっと溶けていくのを感じた。

 

「多様性」

それは相手を理解するために都合のいい言葉かもしれない。
でも、言葉の後ろにある本当の意味での「多様性」を見失ってはいけないし、目の前にいるその人個人を多様性の陰に隠してしまってはいけない。

それはきっと1年という、長いようで短い留学生活がわたしに残してくれた大事なもののひとつなんだと思う。

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