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想像力は、時に人を傷つけてしまうのだろうか

わたしが中学生の時、友達に拒食症の女の子がいました。

しばらく学校を休んではまた復帰して、を繰り返していて「勉強についていけないよー」と本人はたまに笑顔で言ってたけど、わたしは勉強なんてどーでもいいよ!と思っていました。

その子がとても痩せている時と、学校の体育祭がかぶった事があったんです。
体力的に少しきついかなって思っていたのですが、その子は出たいと言っていて、無理しない範囲でと先生から許可をもらい、徒競走だけ参加しました。

体力が落ちているのでみんなより明らかにスピードが出ない、そしてとても痩せている。なのでどうしたって、目立ってしまうんです。

みんながゴールした後、その子が一人でゆっくりゆっくり走っているのを見た父兄の方々から、拍手が湧き上がりました。
頑張れー、の拍手です。

わたしはその時、ちょっと違和感を感じました。

その子は目立ちたくて走ったわけじゃない。
拍手が欲しくて走ったわけじゃない。
体育祭に参加したいから走っただけ。

だけど拍手している方々も、純粋に応援しているということ。
それがヤジだったらわたしは胸ぐら掴んでますけど、そこにそんな悪意は存在しません。

ただ、言葉ではうまく表現できないモヤモヤを感じてしまったんです。
このモヤモヤは、今になっても言葉にできません。

拍手ではなく、ゴールのところにわたしや友達やクラスメートが笑顔で待っていた方が良かったんじゃないか。
頑張れって言わない方が良かったんじゃないか。
・・・参加しない方が良かったんじゃないか。

わたしは、何ができたんだろうか。

小骨が喉に引っかかったような、チクッとした痛み。その小骨は今も取れません。


だけど。
わたしが決めることじゃないんですよね。
走り終わってその子がどう思ったか、体育祭に参加してどうだったか、それは本人が決めることで、わたしじゃない。
そしてわたしの喉に引っかかっている小骨は、わたしの「想像」でしかないんです。

今、その子がどこでどうしているのかは分かりません。
まだ悩んでいるかもしれないし、バリバリ働いているかもしれないし、お母さんになっているかもしれない。
その子の人生を決めるのはわたしじゃないんです。
他人の気持ちを決めるのは、わたしじゃない。

勝手に人の気持ちを「想像」して、勝手に「想像」の小骨を飲み込んで喉に引っかける。自分の頭の中だけの、感情のやり取りなんです。
これは優しさではなく、単なる自分勝手の自己満足。

あの時のことをなぜだか急に思い出し、気がついたら泣いていて、泣き終わった後に自己満足に気づきました。そして、そんな自分がとても嫌になった。

想像力ではなく、想像癖とでも言うのでしょうか。
わたしの想像癖が、知らぬ間に他人を傷つけていたこと、今までたくさんあったんだろうな。

想像するという回数を重ねただけで、その力はちっとも高くなっていません。

悲しいやら情けないやら悔しいやら、いろんな気持ちが混在しました。
優しさが欲しい。せめて身近にいる人たちへだけでも。



ちょっと重い話になったので、最後にひとつ。

麦茶を作ったはずのボトルに、ただの水が入っていました。
・・・どういうこと?