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住んだのは、移民だらけのパリ19区

パリの町は、セーヌ川を真ん中のシテ島から螺旋状に囲うようにして、20の区に分けられている。そして、その小さなエリアごとに、街並みや集まってくる人たちの色が異なる。

たとえば、カルチエラタンと呼ばれるパリ左岸の5区は、名門のソルボンヌ大学がある学生街で、文化的な雰囲気のエリアだし、映画『アメリ』の舞台になった18区のモンマルトル周辺は、もうちょっと下町風情だったり、13区には中華街があったりと、さまざまだ。

そのなかで、わたしたち家族が住んでいたのは(というか両親が選んだのは)、パリの中でも特に移民が多い19区(地図でいうとパリの北東部)。ビュット・ショーモンという、緑がおだやかな大きな公園のすぐ向かいのボザリス通り沿いのマンションに住んでいた。

移民が多い=治安が悪いというイメージを持つひとが多いのかもしれない。でも、わたしの両親はもの好きなので、移民が多いほうが町としておもしろいに違いないと思ったのだそうだ。(彼らはわたしと姉が生まれる以前にも、パリに数年住んでいたことがあったので多少の土地勘はあったと思う。)

マンションのお隣は、スペイン人とアルジェリアのベルベル人のご夫婦で、ゴメスさんという名前と、とても親切な人たちだったということしか覚えていないけれど、ご近所だけでも多文化だった。

当時、わたしは保育園の年長クラスにあたる年齢だったので、初めは日本人だけの幼稚園に入ったものの、現地の小学校に通い始めた姉が楽しそうでうらやましがったのだろう。秋の新年度から、飛び級して(!)姉と同じパリの公立の小学校に通うことになったのだ。

そんなことができるのかと思うけど、きっと両親がうまいことを言って、学校を説得してくれたのだろうと思う。(このときの、校長先生との面接でも「こもんちゅたぺーる?」の出番だった)

学校側も、一年という期限つきで突然やってきた日本人の家族を、前例がないとか、規則がどうのこうの、という話で門前払いしなかったことにも驚きだけど、とにかく創業以来、初めての日本人姉妹の生徒として迎え入れてくれることになった。

そうして、初めての外国で、わたしは初めての小学校生活も体験することになったのだ。

わくわく背伸びして、現地の小学生になったわたしは、そこで初めての「言葉の壁」にぶつかることになるのだけど(実際、授業参観に親がくると、いつも一生懸命に隣の子をカンニングしながらがんばっていたらしい。笑)、
こうして時間が経ってからも記憶のなかに断片的にのこっているものは、苦労した大変さとか、言葉が通じなかった悔しさよりも、5歳の日本人の女の子の目に新鮮に映ったことの記憶だ。

例えば、小学校のクラスメイトには、色んな肌の色、目の色、髪の色の子たちがいたこと。おそろいの赤いランドセルではなく、みんなそれぞれのカラフルなリュックサックを背負っていたこと。

数字の「7」を書くとき、真ん中に棒がつくこと。数字を数えるときに、親指から「1・2・3」と指を立てて数えていく(「4」がむずかしい)こと。日本にいたころは、赤く描いていた太陽を、フランスの子どもたちは黄色で描いていたこと。

どうやら、日本とはちがう「ふつう」がたくさんありそうだった。

お昼ごはんはみんなで食堂に行って、テーブルごとに料理が盛られた大皿があって、そこから食べたい量を取り分ける、家庭の食事のようなスタイルだったこと。美術の授業では、パリのあちこちの美術館に行って、好きな絵の前に座って模写をしたこと。その授業がとても楽しかったこと。

きっと19区の小学校だったから余計に、色んな人種の子どもが集まっていたのかもしれない。赤もいて、黄色もいて、青もいる、みたいな。だから、わたしの中のフランス人のイメージは白人じゃないし、パリは、いつだって虹色の街なのだ。


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