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『上村松園』展

上村松園展
京都市京セラ美術館



8月に行った時の記憶なので薄ら薄らしてしまっていますが、これは絶対書いておきたいやつ。

今年春に開催された「あやしい絵展」で初めて知りました。そう上村松園。まだまだNIWAKAファンなのですが、強烈に彼女の描く美人画、そして彼女自身にシンパシーを感じ、惹かれています。出会いは突然ですね(なに)



葛飾応為といい上村松園といい遠藤の推しは“こんな風に世界が見えたらいいのに”という願望を美しく豊かに描いてくれる&強いが女が多いです。しかもどんなことがあっても鍛錬を怠らない。遠藤は自分に甘甘ゆるゆる大魔神なので己の技術を生涯をかけて狂ったように磨いていける人々にめちゃ憧れるのであります。できひんねんよっぽどの気概がないとそんなん。


応為は自分が表だって絵師として大成することを選ばずお父さんである北斎の右腕として手腕を発揮した絵師ですが(北斎作と言われている作品、特に後期の作品なんかは応為が仕上げているものが多くあると言われています)、江戸時代後期は絵師や画家で現在目立って名前が残っている女性が多くないことを思うと、彼女が早々にその道を諦めたのは時代のせいやと思わずにはいられません。(でも北斎ほどすごい人がお父さんで、自分が力になれんにゃったら役に立つために生きていこうという気持ちもすごいわかる)

それから半世紀ほどして松園の生まれた明治初期も当たり前に女性が画家として自立し生きるなんて選択肢は無い時代でしたが、そんな男性優位が一生続くのかと思われた日本の画壇の扉をバチボコにぶち壊して女性が絵で食べていくことをやってのけた本当にかっこいい女性なのです。


本展は遠藤が小学生の頃からちゃりんこで通いまくっていた京都市美術館が改装されて、京セラ美術館に生まれ変わってから1周年が経った記念展なのですがなぜそんなおめでたいタイミングで上村松園なのかというと、彼女京都の人なんです。しかもわたしの実家の近所!四条御幸町の生まれ!そしてわたしは開智幼稚園に通っていたのですが、松園はその隣の開智小学校に通ったはりました(今はもうない)。なんと先輩やねん!!!憧れの人がこんなに近くにいはったんやと思うとめちゃくちゃ興奮するよな!!しません!?するよな?!?(圧)

というわけで私が彼女を好きな理由の1つが京都の人間の土着的な感性にすごく共感できるからです。

生粋の江戸っ子であるコレクターの福富太郎が「松園の美人画は綺麗過ぎて好きじゃない」と言っている部分がわたしにとっては「逆にそこが好きなんやけど」って感じ。隙があったり陰があったりゆるさや慎ましさを感じる女性はエロや弱さを表現しやすいけど、それ男性目線の美化した美人画であって、それはもうええわって感じのところ、松園が凛としたむちゃくちゃかっこいい美人画を描いてくれたはったって感じ。気をてらっていない正真正銘の美人画。痺れます。



そんなわけで溢れんばかりの松園への気持ちを胸に、いてもたってもいられずPCR陰性確認して京都にスッと帰って展示見て、スッと東京に帰ってきました。

本展は前期と後期に分かれてて、ほぼ作品が変わるという展示内容だったのですが残念ながら前期しか行けなくて御目当ての「序の舞」は結局見れませんでしたが(無念無念無念!!いつか必ず絶対!!)、それでも絵を描き始めた時の作品から絶筆まで松園の生きた軌跡を

辿れるようなとんでもない量の名作が一堂に介していてむちゃくちゃ嬉しかったです。しかも松園の絵が並んでいる空間の気のいいこと。他者を跳ね返すような傲り高ぶった美ではなく、鑑賞者にこびへつらった美でもなく、なんというか松園がただひたすらに追い求めた美を我々が覗き見させてもらってるって感じがして、いい緊張感がありました。



16歳の時に描いて内国勧業博覧会で賞を受賞した傑作「四季美人図」をはじめ、初期作品はアウトラインに師匠の松年先生の勢いのある強くて固い筆致が継承されてて、あぁ影響たくさん受けはったんやなぁってのがわかるのですが、そこに北斎独特の筆致も感じられると思っていたら、松園は子供の頃に北斎の挿絵を見て「上手な絵やなぁ」と魅入っていたという記述が残ってて、やっぱりうちら気が合うなぁと思いました(何様)


ほんまに1つ1つの作品に真摯に向き合ってる様子が手に取るようにわかったし、ただ美人な絵なだけやろ?ってことでは全くなくて趣向も凝らされててどれだけ見てても飽きひんし、実験的な絵があってもいいはずやのに完成度が全て高く(素描はたくさんされていた)、全部が、ほんまに全部が素晴らしかったから特筆してこの作品が好きっていうものは挙げられへんのですが、とても印象に残ったのは24歳の時に描かれた「人生の花」です。

今式場に向かう最中の花嫁とそのお母さんを描いた絵なのですが、ほぼ等身大で描かれたその大きな作品を目の前にして、花嫁がもういろんなことに不安になってるんやろうなぁでもわくわくもしてるんやろうなぁっていう複雑な心中が手に取るようにわかってこちらまでドキドキしてしまうのですが、隣で正面向いて颯爽と歩いてる母親のかっこいい姿よ。酸いも甘いも知っているいろんなことを乗り越えてきた母親という存在の偉大さは松園が生涯大切にしていたテーマなのですが、既にこの頃描かれた絵にそれが現れているのがすごいと思いました。
『20代前半のころに一生涯描いていきたいテーマはなんですか?』って聞かれてもアイデンティティ形成されてなさすぎて答えられへんと思いますわたしやったら。それだけ松園にとってのお母さんの存在っていうのはとてつもなかったということがわかりました。

またこの絵について音声ガイドで話されていた内容でうろ覚えなのですがとても印象に残った説があります。こちらの絵、背景に何が描かれているわけでもなく、母娘2人だけがたっぷりの余白と共に描かれている絵なのですが、よく見ると進んでいる左上方向から2人に光がぱぁぁあっとあたって着物の一部が明るくなっているんです。
これ、これから向かう先は明るいのだよと花嫁を祝福しているような意味もあるそうで、背景になにも描かれてないのにその光だけで解像度がぶわぁああああっとあがって情景が目に浮かんできて、なんて素晴らしいんや!!!!!と大感激しました。
松園のこの空気感を捉えて実際に絵に描き出すことができる技術、本当に本当にすごい。頭ではイメージできてても実際それを絵に描くのって相当鍛錬していないとできないと思います。美しい。本当に美しい。




また、この前横山大観についてインスタにUPした時に書いていた「彩管報国」は松園にも要請されており、国に献納するための作品をいくつか描いています。

「戦局の険しさが加わると共に、険しさ、とげとげしさが深くなる人の心に和やかさを贈ることこそ、女性本来の生き方であり、かくてこそ、はじめて女性として皇国護持の道に徹し得るのではないかと思う」という記述が残っていますが、この時期、贅沢などせず慎ましく暮らす女性の生活の1シーンを描いた絵を見ているとそこには悲観的なものは描かれておらず、どこか「これが正しいのだ」と松園自身も思い込んでいるような怖さや虚無さも感じられました。
松園たる強い女性だとしてもこのような考えだったということは、ほんとに国民全体が間違った考えに支配されていたんだろうなぁ。。
「彩管報国」に関与した画家たちのことをもっと調べていこうと思います。



そして彼女の人生を通して見れる本展の流れの中で改めてすごいなぁと思ったのが彼女の勤勉さというか知性というかそういう「絵を描いてない時に何をしていたか」っていうところがめちゃくちゃ伝わってきた点です。

当時、漢学は画家はマストで勉強しなきゃいけなかったそうで(西洋の画家がギリシャ神話や古典文学を勉強するのマストなんとおんなじ!)、松園も孟子の故事や白楽天の「長恨歌」などいろんな漢文、漢詩を学んだそうです。そこから唐絵についても学び、楊貴妃や羅浮仙などの唐美人を描いてます。

もちろん日本の古典も学び、小野小町、紫式部、伊勢大輔、清少納言などの才能のある女性たちを描いています。いいチョイスすぎひん?私も大好き。

それから古画の研究にも余念がなく、浮世絵をはじめ、いろんな画派のスタイルや、うちらの大好きな鳥獣戯画や伴大納言絵巻もやし、ヨーロッパ美術の写実表現まで研究してたそうです。

それらを縮図帳っていう松園オリジナルノートに繰り返し繰り返し模写していたんだそうです。「縮図帳は私の命から二番目」「縮図した作品は決して忘れない」という言葉も残っています。

また写生もめちゃくちゃしていたそうで、男性ばっかりの中で女性1人だけで写生の合宿にも参加するなど、女がなんで参加しとんねんって思う画家もいっぱいいたので強気でいかないと心が折れてしまうのですが、絵がうまくなりたいから頑張って我慢してたそう(涙)

極め付けに後年は能楽師に師事して謡曲も勉強し始めて、能や浄瑠璃の謡曲を画題にしたりそこで得た多くのことが絵に反映されています。
「序の舞」はもちろん、能楽では“嫉妬の美人の顔は眼の白眼の所に特に金泥を入れている泥眼という能面がある”ことから「焔」は「金泥」という金の絵具を目を描いている部分の紙の裏にそっとつけて目の奥に何か凄みがあるように見せたりと、学んだことを生かす方法がおしゃれすぎる〜〜〜〜!!!!

と、そんなわけでむっっっっちゃくちゃ勉強したはるんです松園。しかも【過去から学ぶ】【とにかく手を動かして学ぶ】【興味のあることをとことん学ぶ】という鬼ほど大切なことを全部しっっっかりやられていて、松園が松園たる所以がほんまこれにつきると思います。芸に秀でてる人は生まれた時からうまいわけなくてむちゃくちゃ勉強して鍛錬してるからなんや、それをした人だけが”うまいの先”にもいけるんやってことが改めてわかりました。

確固たる信念のある人間は己の技術を磨いていくことができるし、鍛錬の上に身に付けた技術や感性によって生み出された超越した世界はこれほどまでに美しいのだなぁと松園ありがとうなぁって思いました(だれ)



さて、話は変わり、常設展の方にも松園の作品があるとのことで、そっちも見にいってみたら、まさかの北野恒富の「いとさんこいさん」があって遠藤即死。こんな偶然ある!?!?すっっっごい見たかった絵なのでむっっちゃくちゃ嬉しかったです。

遠藤が愛するマリアノ・フォルトゥー二の「日本式広間にいる画家の子供たち」との親和性についてこの前インスタのストーリーにupしていましたが、大きな屏風と小さなカンヴァスという大きさの違いはあれど、時が豊かに緩やかに流れていくように感じるところはやはり共通しており、たまらなく美しい時の描き方やなぁとうっとり溜息。

ちょうど絵の前に椅子を置いてくれたはったのでそこに座ってこの屏風絵をゆっくり鑑賞していたのですが、フォルトゥー二の方はこどもたちの声は聞こえてこず、鳥の鳴き声や水の流れる音が聞こえてくるような静けさがあり尚且つどこかから覗き見しているような感覚だったのですが、いとさんこいさんは姉妹がほぼ等身大に描かれているからか、椅子に座っている私が三姉妹になったかのように一緒にお姉さんの話を聞いてるような、そんな至極の体験ができました。

ですがなんかざわざわしたんはお姉さんの話を楽しく聴いてるのかと思ってたら、妹、なんやようわからん視線と表情してるんです。すごくそこに気が持っていかれました。恒富らしいというか、ただの姉妹の楽しい会話で終わらせへんところがさすがやなぁと。解説には「恥じらいながら話す姉と、寝そべって頬杖をつきながら聞き入る妹」と書いてありましたが、聞き入ってるというよりは(お姉さんはええなぁ)って無の顔で心の中でぶーたれてる感じ。
私も妹やし気持ちすごいわかる顔でした(笑)



というわけで大きく話が逸れてしまいましたが、上村松園展に行って、一本筋の通った人間が描く絵の美しさにとても魅了されたし心がパンッパンに満たされました。(擬音あってる?)

あんまり最近すごい人たちのことを学んだあとに自分を省みて「自分はあかんなぁ、もっとこの人みたいにがんばらなぁ!」みたいなのがしんどいから反省禁止令出してたのですが、松園に関しては反省というよりはこういう風になりたいって思った箇所がい〜っぱいあるので、そこは真似していこう〜と思いました。私も能も舞も古典文学も勉強したい。しょうえにすと(くそダサネーム)になろ〜っと(は?)



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