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井上亜美さん「The Garden」

先週末、「拝啓京都芸術センターにまだ来たことない貴方へ」という京都芸術センター主催の鑑賞プログラム(全4回)の初回が無事に終わりました!

初めてオフラインでファシリテーターをやったのですが、ウルトラ反省点も含めてすごく実りの多い時間でした!!
今回対話型鑑賞は初めてという方ばかりだったので、「いつもならすぐに通り過ぎてしまう作品も立ち止まってじ〜っくりみてみる」という体験や「思ったこと感じたこと疑問に思ったことなどを言葉にして誰かに伝えてみると起きる化学反応」などをまずは楽しんでもらえたらなという思いで取り組んだのですが、「作品」についてはもちろん、「鑑賞」についても皆さんそれぞれになぜ?わからない、どうして?と様々な問いやわからなさに気づいてくださって、こういうことなんじゃないか、ああいうことなんじゃないかと「考える」ことにも積極的に取り組んでくださって感激しました。

今回は対話型鑑賞の後に、井上亜美さん(作家さんご本人)によるギャラリーツアーもあり、疑問に思ったことを直接質問することができた参加メンバーの方も!なんて豪華な経験…!!素晴らしい!!

さて、ここからはみなさんと一緒に鑑賞した作品について遠藤が感じたこと、考えたことを忘れたくないな〜と思ってつらつらと書いていこうと思います。
(こちらの作品、事前に撮影した写真を見ながら1度ACOP仲間と対話型鑑賞をしたのですが、その時の鑑賞も含めて書きます。)

私たちが鑑賞したのはこちらの蝶々の作品。井上亜美さんの「The Garden」から《胡蝶 | Ghost》(紙、ろう、鱗粉、蝶の標本、2022)

白い部屋の中に、空間を蝶々がパタパタと羽ばたいてるように配置されています。展示空間から感じたことは「天国みたい〜」。

蝶々1つ1つはどうやら羽だけが紙に精緻に「描かれている」ようですが、良くみると左右の羽は色味も柄も少し違います。なんだか片方が濃くて片方が少し薄い。羽が少し欠けているものもいくつかあるようです。しかも頭、胸、腹の体がない。ですが紙の折り目があることで、それが体の役目を十分に担っているようにも思えてきます。

ではまず「体がない」に注目してみます。遠藤は蝶々の標本を撮影でよく扱うのですが、体の部分が割とグロテスクなのであんまり体の方は見ないようにしています。
虫全部怖いタイプなのですが、なんでかっていうと小さな体の中にやたら細かい装飾が施されたほっそ〜い曲がった手足とか触覚とか生えてたりするのもぞわぞわするし、ムニムニした柔らかさみたいなのもぞわぞわするからです。(虫の体見るの大丈夫派の方もいて、なんで大丈夫なのかも聞いてみたい…。)

そんな気持ち悪い要素のないこの羽だけの蝶々たちは見るに耐えうる安心と信頼が担保されてる状態で、何も怖がらずに「綺麗〜♡」って感じれました。

もう少し良く見てみましょう。羽を「描いてる」のかと思いきや、キラキラした粉でできていることに気づきました。そう、鱗粉です。これ、鱗粉転写というものなのですが、紙にロウを塗って、蝶々の羽だけを挟んで上からこすると、紙に鱗粉だけが転写される技法のことです。羽の模様の観察などに使われているそう。ネットで検索してみると子供達のための鱗粉転写のワークショップとかいっぱい出てきます。こんなに綺麗に転写できるんや〜と驚きました。

なるほどだから羽の脈がここにはないし、左右で色が違うのも「片側」の羽の表と裏だからかとわかったのですが、もう片方の羽を転写したものは?どの種類も左右どちらかの片方の羽だけを転写したものしかありません。
蝶々の形に見えてても片側の羽しかないなら飛べへんやん。ん?もうどっちみち死んでるから飛べへんのか。なんでもうすでに死んでるのに飛べる飛べへんを想像したんやろう…。と疑問が湧きました。
鮮やかでキラキラしてて死を感じさせないような色や輝きをしてるからでしょうか?

さて、私はこの作品を見た時から何の違和感もなく、「羽の柄が綺麗、生命の神秘♡」とかのうのうと思ってましたが、蝶々って鱗粉をごっそり失うと飛べなくなるのご存知ですか?
鱗粉だけ移し取ったものは綺麗ではあるのだけれど、同時に蝶々から鱗粉を奪う行為がとても残酷にも思えてきました。しかも体から羽だけを外すというプロセスもなかなかにしんどい。鱗粉転写する時の井上さんはどういう心境でこれを作らはったんやろう?
「標本 作り方 蝶々」で検索すると「蝶々の殺し方」が出てきます。生きたままの蝶々の胸の部分をぐっと圧迫すると死ぬんですって。井上さんの蝶々作品も、今回のテーマにもなっているご自身の庭で採取した蝶々とのことで、この殺す作業もされてるとのこと。

私は標本の作り方や鱗粉転写の方法を今回初めて知ったので、ギョッとはしたのですが、研究、観察、保存などのために標本が必要なことは十分に理解しているのでそこまで標本を作ることに対しての拒絶感はないのですが、単純に井上さんがなぜこれをしているのかがとても気になりました。

さて、この作品には続きがあります。
次の部屋に行くと、真っ暗。全然前が見えないので小さな懐中電灯を持って鑑賞します。「前が見えねぇ、こえぇ」って感じ。さっきの白い部屋は天国だと思っていたのに、なんか一気に死が迫りくる感じがしてきます。視界を奪われるとその他の感覚を研ぎ澄ませなければいけないので感覚が過敏になると話してくれた方もいましたし、夜の深い森に入ってしまったようだと感じてくださった方もいました。自然界の中に人間が踏み入るということとは?

そんな空間にもさっきと同じように蝶々がゆらゆらと飛んでいるように展示されています。さっきは「パタパタと」と書いてましたが、こっちは「ゆらゆら」って感じ。

近くで見るとそこには鱗粉を失った後の蝶々が.…。「うぉおぉおぉおぉ、怖い。きもい。むごい。」と最初思ってしまいました。
こんな姿の蝶々は初めて見ました。
鱗粉を失った羽はかっさかさでスッケスケで脈が今にも折れてしまいそうな脆い骨にも見えてきます。ところどころ破れてるやつもいました。
体の部分は健全(?)なのですが、鱗粉を失った羽が接着剤で体に接合し直されてるところを見て、おぉぉう…手術…ってなりました。
懐中電灯で光をあてるとスッケスケの羽の向こうに影が映るのも相まってレントゲン写真さながらの不気味さもあります。しかも懐中電灯を左右にチラチラさせるとその影が亡霊のようにゆらゆらと動くので、ソンビを連想したりもがき苦しんでるようにも見えるという方もいらっしゃいました。

鱗粉だけの蝶々と比べると、こちらからはより「形」「存在」というものも感じとれます。蝶々を形成している「枠」「肉体」を兼ねているからだと思うのですが、そう思うと何だかさっきの鱗粉は色の鮮やかさも相まって美しい夢幻のようにも思えてきました。

鱗粉転写の写真はネットでもたくさん出てくるのですが、鱗粉転写したあとの方の抜け殻の写真はなかなか出てきません。
私も今「抜け殻」と書いてますが、何かを失っている感じがすごくしたんです。もちろん物理的に鱗粉を失っているのですが、それ以上のなんか生気みたいな、美みたいな、「私が蝶々に期待していること」が失われている気がしました。
「なんやねん期待してるって、傲慢やな。」って感じもしますが、古来から人はヒョウやミンクやくまなど動物の毛皮を衣服や絨毯にしたり、玉虫の羽を装飾したりと、自然界の美しい外側の部分が「それたらしめている」という感覚が少なからずある気がしました。

生命の存在とは2分されるものなんでしょうか?違う気がするのですが、そう思ってしまう自分、抜け殻の蝶々に「気持ち悪さや怖さを感じている自分自身」が一番残酷なのかもしれません。

また、鱗粉の蝶々も、それを失った蝶々も結局どちらも死んでいるのに、私は抜け殻の方に「死」を強く感じたのですが、「死を強く感じさせられるからこそ逆に生も強く感じさせられる」と感じてくださった方もいらっしゃいました。生と死も2分されるものなんでしょうか?知りようもないのですが、もしかしたら地続きなのかもしれません。

井上さんは狩猟や養蜂をされている方なので、私たちよりうんと毎日自然と人間との関係性や生死を見つめていらっしゃると思います。
この蝶々の作品も最初は「え、これは作品?ただの鱗粉転写ちゃうん?」と思ったのですが、この制作過程で井上さんが向き合われた時間こそがアートなのだと、自然との対話によって深淵な現象がそこには生まれているのだと感じました。

というわけで、この作品をみなさんと対話型鑑賞することで人間と自然との目線や関係性について改めて考える時間になったし、虫の標本の世界についても新しく知るきっかけになれたし、外側の羽の部分なのになぜ私が「玉虫の厨子」やヤン・ファーブルの作品が苦手なのかも考えてみたいなと思いました!

あととても重要なことですが、これは私が皆さんの話を聞きながら思ったり考えたりした1つの解釈でしかないので、これが対話型鑑賞に参加された皆さんの意見をまとめたものです!というものだったり、井上さんの伝えたかったこととかでは一切ないということをご理解ください!

参加者の皆さんがあれから家に帰ってどういうことが心に残っているのかもまた聞いてみたいです。来週末にある次回のプログラムも楽しみ!

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