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同居人

ある日僕の家に同居人が現れた。

彼は突然現れた。

常識的に考えれば、家に突然現れた人物をまずはじめに同居人だと思うものはいない。空き巣に入った泥棒と考えるのが自然だろう。

しかし、僕は彼をみた時、瞬時に同居人だという確信を持った。

僕が仕事を終えて夜遅く帰ってきた時に、同居人は家のリビングでソファに腰掛けてテレビを見ていた。同居人は玄関の扉が開いた事に気付いたのか、玄関の方に体を向け、家の主人である僕(同居人の彼からしたら僕も同居人ということになるだろう)が帰ってきたのを認めると、さもここにいることが日常的なことであるということを感じさせるように、急ぐことものんびりすることもなくソファから立ち上がり、右手を軽く腰の辺りで上げて「やあ、おかえり」と言った。

僕は自分の家に同居人が現れたという事実を受け入れることに手間取っていて、同居人の挨拶に対してただ呆然と立ち尽くしているだけで、玄関とリビングの間には不自然な沈黙が生じた。同居人の方はこの沈黙に対して少し怪訝そうな顔を浮かべて、僕の態度が不適当であることを僕に対して無言で主張した上で、口を開いた。

「どうしたんだ?なんの反応も無しとは冷たいじゃないか。」

僕もようやく落ち着いて口を開いた。

「すまないが、少し混乱しているんだ。君が僕の同居人であることは確信を持っていえるが、それ以外のことは全く分からないんだ。つまり、君は僕の同居人であるが、君がいつから僕の同居人であるのか、どのようにして君は僕の同居人になったのか、なぜ君が僕の同居人になったのか、というような君が僕の同居人であるということについての周辺の情報がまるっきりないんだ。同居人である君からしたらおかしなように聞こえるかもしれない。君の立場からすれば、今まで通りの僕との生活を今日も予定していただろうし、それを望みもしていたかもしれない。そうした君の期待を裏切るようなことになってしまったことには非常に申し訳ないと思っている。それでも、君が僕の同居人であるというその事実が僕の頭の中にあって、君についてのそれ以外のことを考えようとすると僕は途方もない無力感に苛まなれてしまうんだ。」

「そうか、それはすまなかった。君が謝ることはないよ。僕は君のいつもと違う態度に少し冗談を言ってみただけのことさ。それにしても不思議なこともあるもんだ。君は僕が同居人であるということについては断言できるのに、それ以外のことは全く分からないとはね。僕について全くの情報がないということであれば話は単純だけど、僕が同居人であるということは分かっているわけだからね…。なんだかとても厄介なことになったねえ。」

同居人は壁に寄りかかり、腕組みをして僕のこうした状況に困惑している様子だった。

僕としては、一時的に記憶を失ってしまったということもあるだろうし、同居人に僕たちのこれまでのことについて幾つか質問をして、それに答えてもらうことによって、思い出すことがあるかもしれないし、ぜひともそうしたいと思った。

そうして僕が彼に話しかけようとした途端、彼は突然頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。

「どうしたんだい、突然頭を抱え出して?」

「悪いが、少しの間一人で考えさせてくれないか。正直なところ僕も非常に混乱してしまってね。どうにも頭の整理が追いつかないみたいだ。先に言っておくが、僕がこうした状態になっていることに対して、君には何ら責任は無いんだよ。それだけのことはわかっていてくれ。僕がこうした状態に陥っているのは僕自身のせいなんだ。君は何にも悪く無いんだ。頭が痛み出してきた…。ちょっとの間、外に行って気分を落ち着かせてくるよ。なあに、心配するなよ。少ししたらまたここに戻ってくるから。君はここでゆっくりと僕が帰ってくるのを待っていてくれ。それじゃ、行ってくるから。じゃあな。」

玄関が閉まり、彼が歩いて行く音が数歩聞こえたかと思うともう何も音はしなくなった。

僕はソファに座ってつけっぱなしになっていたテレビを見ながら、彼の帰りを待つことにした。

僕は最初の時よりはかなり落ち着いてこの状況を考えることができるようになっていた。彼が僕の同居人であるという事実は疑いようがないし、彼の方としても僕が同居人であることは認めてくれているようだ。依然として、彼が同居人であるということ以外何も分からない。それでもいいじゃ無いか、と僕は思うようになった。『彼は僕の同居人だ。そして僕はそれ以外のことはわからない。それの何が不満なのだろうか。彼が僕の同居人であるという事実、そのことが確信を持っていえるだけで十分では無いだろうか。』

どれくらい時間がかかったのだろうか、いや時間がかかったという事実だけ述べれば十分だろう。玄関の扉をノックする音を聞いた。

僕はソファから立ち上がって、玄関に向かった。

「きっと、僕の同居人が帰ってきたのだろう…」

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