あの日のあの場所に立ち、平和を祈り命をおもう
6月のこと。
私の人生に、なくてはならない時間を過ごしました。
サヨ子さんの口から出てくるあの日の光景は想像を絶するものばかりで、聴く言葉ひとつひとつはあまりにも重く苦しい現実でした。
あの日に立つ
田戸サヨ子さんは93歳。
79年前、広島で被爆を経験され、その後60を過ぎてから語り部になられたそう。
14歳の瞳が捉えた、原爆が投下されたあの日のあの瞬間とその惨劇、変わり果てた人と街の姿。
横たわって重なる遺体を避けて隙間を探しては跳ぶように歩き、爆心地を彷徨い、怪我をした男の子をご家族の元まで送り届け、母を探し。
私のイメージする頭の中での描写でしか無いけれど、必死に14歳のサヨ子さんと一緒にあの日の広島を辿った。
どこか俯瞰で見ている今の私もいて、そんな選択や行動が果たして同じ年齢の私には出来ただろうか、私だったらどうしていただろうと問い続けることとなる。
今のこの歳の私でさえ、どう行動できたのか。
これまで、被爆を体験された方御本人様から直接お話を聴く機会が一度もありませんでした。
原爆や戦争の貴重なお話を聞かせてくださる方々も年々少なくなりつつあり、年齢も上がる一方だということは私にも分かっていたことだけれど。
どこか焦りと危機を自分の中に感じていました。
テレビやマンガや教科書で習っただけの知識しか持ち合わせていない自分がどこか情けなくて許せず。
サヨ子さんから語られるお話で初めて知ることも多々ありました。
3度目の正直
ときわ座でのこの催しは3度目で、そして今回で最後になるかもしれないとのことでした。
お休みが取れず、がっくりと肩を落とした1回目と2回目。ようやく念願叶い、臨んだ3度目。
当日を迎えるまでは何週間も下調べに時間を費やし、図書館に通い詰め、平和について調べ考え続けました。
そしていつか、広島の地へ必ず訪れることを心の中で誓う。
語る度にその光景を思い出し、何度も何度も再生して生きることはたいへん辛いことだと思います。
サヨ子さんはそれをもう30年以上も続けてこられているのです。
サヨ子さんから語られる魂からの言葉と光景を、目に耳に記憶に、心に身体中に刻みました。
戦時下を生き抜いてこられた方から直接届く言葉の重みを感じました。
平和の風
お話を傾聴している間、ときわ座の入口に掛かる黒い布を揺らす風が優しく頬を撫でていきました。
放射能にまみれた爆風を風に重ねれば、たった今過ぎていく柔らかな風と一秒一秒が平和そのもので、その風ひとつさえどんなに幸せなものなのか、広島とときわ座を頭の中で行き来しては、何度も目を閉じ確かめ、感応していました。
命がいかに貴いものか、そしてこの平和な時代にバトンを繋げて築いてきてくださったたくさんの方々の願いや思い、無念に亡くなられていった多くの戦没者を思うと、その度に胸が締めつけられ言葉になりません。
平和な世界を守れるのは今を生きる私達しかいないのです。また、反対にいとも簡単に壊すことだってできるということも忘れてはなりません。
今もなお世界で続く戦争のことが脳裏に浮かび、大きな悲しみと怒りで身体が震えます。
何度繰り返し何度この地獄をみれば、人は戦争の愚かさに気づくのでしょう。
誰に聞いても「戦争は誰も幸せにはしない」「人が人でなくなるのが戦争だ」「戦争は地獄」と口を揃えて言います。
だからこそ戦争を忘れず、平和について学び続けなければいけないのです。
語り終えたサヨ子さんとお話をさせていただいている間中、ずっとサヨ子さんとお互いの両手を強く握り続けていました。
伺いたいことはたくさんあったけれど、今ここにサヨ子さんがこうして生きていてくださること、3度目にしてようやくお会いすることが叶ったこと、あの凄まじいお話を聞いたあとではそれさえも奇跡だということ。
ただただ感謝を伝え、そして約束をしました。
ときわ座を出たあと、喧騒とした高田馬場の街中を歩いて駅に向かう。途中からぽろぽろぽろぽろ、涙が止まらなくなりました。
目に映るものすべてがあまりにも幸せなことに気付かされ。サヨ子さんからつい先程語られた当時の光景と比べてしまい、過ぎてゆくどんな光景も平和の上に築かれている幸せなのだと痛感。
これも幸せなことなのだな、これも、これも、これも。
今ある平和が、目の前に当たり前のように転がる幸せが、決して当たり前ではないことをサヨ子さんは強く仰られました。
私達はつい当たり前になって意識が薄くなってしまっているけれど─
サヨ子さんは白いご飯を見る度にそれがどんなにありがたいことかと、食べるものも十分でなかった当時を思い出すとおっしゃられていました。私もまた白いご飯を見る度に、そのサヨ子さんの貴重なお話を毎回思い出しては平和に感謝することと思います。
自費出版されたという書籍には、もっと細かな辛い体験も書かれています。
多くの方へ
そのサヨ子さんが、2024年8月15日放送の『徹子の部屋』にご出演されました。
サヨ子さんの貴重なお話が、もっともっと多くの方々に届きますよう心から願っております。
▼サヨ子さんのサイトはこちら
かつてを知って、これからに繋げる
お隣の市の市役所で『戦争を語り継ぐパネル展』が開催されていると、所内で働く兄が教えてくれて足を運びました。
2年くらい前にもちょうどこの時期に戦争や原爆にまつわる展示をしていて、平和を祈りながら鶴を折ったり、メモを取りながら学んだことを思い出しました。昨年来れていないことが悔しくもあります。
地元の公共施設でも『平和をみつめる会』があるよと、母もまたその展示の案内の載った広報誌を教えてくれました。
今私が住んでいる地域が、戦時下どのような建物のあるどんな役割の場所だったのか、大きな衝撃を受ける。
お散歩で目にして気になっていたものやいつも使っている駅が当時はどんな人達にどのように使われ、また、どのような姿でどんな由縁があったのか。住んでいながら本当に何も知らないことだらけでした。こんな近くでパネル展があることさえも知らず、母がみつけてきてくれていなかったら、それらを未だに知る術もなく。
伝えていくこともまた大切なのだと実感しました。
今後は平和への活動についても常にアンテナを張っていきたいと思います。
眩しい陽射しと共に積乱雲がいくつも纏まった青空が広がっていた台風前日の昨日8月15日は、戦没者を追悼し平和を祈念する日。
街中を歩いていると正午を知らせるサイレンと終戦祈念を知らせる放送があり、出先ではありましたが、足をとめ黙祷しました。
来年、市の平和都市推進事業実行委員会に応募しようと考えています。
私にできることをこれからも真剣に考え、まだまだ学んでいきたいです。
サヨ子さんのお話を伺ったことで意識も変わりました。
祈るだけでなく、想うだけでなく、
なにかできることはないか考えています。
大事なのは次の世代にきちんと伝えていくこと。なによりも戦争を繰り返さず、風化させないことだと思います。
サヨ子さんのお話と思いを聴いた者のひとりとして、平和を願うひとりとして、日本に生まれてきたひとりとして恥ずかしくないよう、平和について探究していくことをやめずに生きていきたいと思います。
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