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伝えるということ

こんにちは。

コロナの影響を受け、職場から少し距離を置いたいま気づいたことがある。

意思表示が苦手になっていた。

わたしは空港で接客の仕事をしている。

接客の仕事をしていると、「お客様のことを第一に優先して考える」「お客様が何を求めているかを考えて行動する」「相手を思いやる気遣いの精神」が美化されてそれが習慣化する。

接客という仕事なのだからそれは基本かもしれない。接客員の対応で会社のブランド価値を高めたり、下げたりもできると思う。だからこの接客の基本は大切なこと。でもこれ、何でもかんでも習慣化するとやばくない...?

ここからの文章は

ランチの時間に食べると決めていたお弁当があったのに、自分の意見を伝えられないが故にそれが食べられなくて落ち込んだ。という話を交えて、意思表示について考えたことを書いて行きます。

どんな環境においても自分の伝えたいことを伝えてコミュニケーションとれていますか?

久しぶりの勤務にて

今日は会社でとある教育があった。通常業務を行う場所から少し離れたところで教育を受講するためランチはその移動先で済まさなければならないという。

いつもランチでは自分で用意したお弁当を食べていて、ランチの時間までは休憩室の冷蔵庫にお弁当を保管している。

1人の先輩(一度も話したことがない)から、”ランチここに戻る予定のある人いる?”という気の利いた一言があった。

大いに手を挙げたかったけど、わたし含めその他5人が発した言葉は ”大丈夫です。” 

問題が発生

・ランチだけのために戻るような距離にはない場所にこれから向かうことになった。そもそも移動があるなんて聞いていない。→お弁当が食べられない。

・ランチは自分で用意したお弁当を食べる予定だった。         →ここ数か月のわたしは食に対して少々ゆずれないこだわりがある(玄米・魚・野菜を中心とした食事をするようにしているから)

・みんな大丈夫って言ったから私だけお弁当があるので戻りますって言えない。しかも、先月部署異動があったから周りに馴染めてないし…。

そんなこんなで、色々考えたわたしは移動先のコンビニで買った食べたくもないたらこバターのパスタを食べる羽目になった。

自分でせっかく用意したお弁当、食べられなくて悲しい。

なんだか今日は家に帰ってからもこのランチ事件が妙に引っかかる。

ただ、お弁当の代わりにたらこバターのパスタを食べたというだけなのに…。

何が引っかかる?

いや、ただお弁当が食べられなかったことが悲しいんじゃないと気がついた。

わたしは、一度も話したことがない先輩に自分の事情を説明してコミュニケーションをとれなかったこと・周りがどう思うかを気にして自分の素直な意思表示が出来なかったことが悲しかったんだ。

わたしが食事にどんなこだわりがあろうと、ランチだけのためにどこへ向かおうとおそらく誰も何とも思わないだろう。

更にこの件に関しては私がお弁当を食べていたとしても特に誰にも迷惑をかける話ではない。

それより、他人がどう思うかは私にはコントロールできることではない。

ランチだけの話ではない。仕事においても日々の気づきやもっとこうしたら良いんじゃないか?という ”伝えたいこと” 伝えられているだろうか。

何でもかんでも周りは気にしていても自分の考えはもっているだろうか。

何かを問われたとき、自分の意思表示がないことは存在価値がなくなるも同然。

相手がどう思うかを考えすぎるといつからか自分の意見を持って伝えることのハードルが高くなってゆく。

訓練が必要だと強くおもった。

相手を思いやる精神×意思表示もしっかりできるようになれたら強い。

もお、お弁当が食べられなくて悲しい思いをすることが無いように、自分の意見に自信をもって素直に伝えることができるように。


















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