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現実の不気味さを理解しながら【僕たちはどう生きるか/森田真生】

この本を手に取って感じたのは、表紙の手触りのよさ。これはなんというものでできているのだろう。これももしや環境に配慮された紙なのだろうか。だとしたらめちゃくちゃすごい。

そんなことはどうでもよくて。

最近「持続可能」や「SDGs」などの言葉を聞くことがやたらと増えてきた。なんとなく言葉だけが一人歩きしているような感じがする。私はそれらについてよくわからないまま、調べないまま、なんとなくのイメージをもって今に至る。環境のことは私はあまり詳しくない。

今回読んだ本は、森田真生著「僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回」

本書では環境問題や未曾有のパンデミックなどについて、著者の森田さんの日常生活を通して語られている。それら問題の多くの原因が人間にあることはわかっているのだけれど、私は真剣に目を向けたことのないものばかりだ。

お店でもらえていたポリ袋が有料にならなかったら、私は今でもエコバッグを持ち歩くことはなかっただろう。しかし海外旅行ではエコバッグを持ち歩いていた。なぜなら旅行先の国ではそれが当たり前だったから。

環境の当たり前が変わってきていることは、私のような素人でもわかる。

ニュースでCO2の削減目標が報道されていても、あまり関心をもったことがなかったが、近年日本で頻発している豪雨や海外での山火事など、何か地球が変わってきているのかもしれないと感じることはある。

本書ではそんな環境の変化に私たち人間がこれからどう付き合って生きていくのかについて、森田さんの考えが書かれている。


息子さんの一言

息子は自転車で走りながら今日、「なーんにもない街があったらいいのにね!」と叫んだ。「なんで?」と僕が聞くと、「そしたらどんな道でもびゅーん!って怖がらないで走れるのに」と笑った……自分自身の活動の帰結に、怯え続ける必要など「なーんにもない街」。そんな街、そんな場所は、残念ながらもうどこにもないのかもしれない。僕たちは、自分たちが作り出したこの現実の不気味さと、これからも付き合い続けていくしかない。

私たちが今暮らしている環境には、人間が創造してきたものが多い。生活を豊かにしようとあらゆるものを創り出したが故に、自らの首を締めているのかもしれない。「現実の不気味さ」ってなんだか怖い言葉だ。楽しいはずの現実が、不気味になってしまう。

本当に「なーんにもない街」にはなにもないのだろうか。もしかしたら人間たちがつくったものだけが残り、生き物たちがすべていなくなってしまうなんてことも考えられる。なーんにもないと感じるのは人間だけで、つくられたものたちはただその場に存在し続けるのかも。


学校という環境

そもそも学校という場は、異様なほど多様性の低い空間である。教室や校舎のなかには人間以外の生物種がほとんどいない。生態系との繋がりを絶たれた上で、外部から肥料や農薬を与えられる野菜のように、子どもたちは、外部環境との交流をほぼ絶たれた空間で、あらかじめ決められた手順で知識を注入される。

「異様なほど多様性の低い空間」だから、教室でカブトムシを飼うことはお祭り騒ぎになる。教室が人間しかいない環境で、カブトムシは「異質」だから。学校にいる虫などは自然に訪れたとしても、学校にある草木や花といった植物が自然のありのままの姿であることはない。誰かに植えられ、誰かによって整えられている。

たしかに学校では知識を教えながらも、知識と実体験がぶつ切りになっていることが多い。そもそも教科を分けていることだってその一つだ。言葉が読めなかったらそもそも算数の文章問題だって理解できない。

いつでも大人が「教えてあげなくちゃ」と思っているから、現場は苦しいのかもしれない。子供にとっても大人にとっても。「安全第一」ってよく言われるけれど、子供はやばいことにはわりと自分で気づくし、本当に必要最低限のことだけ伝えたら十分なのだと思う。

もっと自然に放ったほうが、子供たちは自分なりの視点で新しい発見を見つける。それは教員時代によく理解した。子供を難しく悩ませているのは大人かも。こんなこと言っちゃいけないか。


シミュレーションと現実

三〇分後、あるいは1時間後の雨雲の様子が、高い精度で手軽に確認できてしまう。計算機の力を借りて、まるで未来を先取りしているような気持ちになる。予報では雨なのに、現実は晴れていたりすると、一瞬、現実の方が間違っているんじゃないかという奇妙な感覚になる。シミュレーションと現実の境界が曖昧になる。

これと同じことは私も感じたことがある。レーダーを信用しているから、目の前の本当の現実が信じられなくなる。なんだか変な話。未来になにが起こるか分からないのに、情報を得ると知っている気になってしまう。

そんなことより、私は雨が降る前に必ず頭痛を起こすからそのほうが自分にとっては信用度が高い。これは失わないようにしたい感覚の一つだ。(ちょっと辛い時もあるけど)


感染は悪いことばかりではない

生物が密集すれば、様々な感染が起こる。細菌やウイルスに感染することもあれば、アイディアや思想に感染することもある。不安や恐怖が伝播することもあれば、あたたかな感謝の気持ちや生きる喜びが伝染していくこともある。

パンデミックが起こったことで「感染」という言葉はよりネガティブなイメージがついてしまった。でもこの引用にある通り、感染するのは悪いことばかりではない。みんなにとって良いとされるものであれば、どんどん感染していったほうが世界が幸せになる。

今回のパンデミックは悲しい思いをした人、今も苦しんでいる人もいるから、当たり前の日常を過ごせている私が適当なことは言えない。

でも今回のことがきっかけとなって世界が何か少しでも良い方向に向かうことにつながったら……とは感じている。

人間も自然と同じ。人間の思いのままに自然を動かそう、使おうとするのではなくて、みんなに優しい環境がいいな、と思った。


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