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アートの傍では、どんな意見でも許容されることが前提だ

旅に出てから毎朝、前日の経験を咀嚼するためにひとつ記事を書くことを日課にしているが、今朝はふたつめの記事も書くことにした。それだけ、5年に一度開催されるごとに世界からアートファンを集めるカッセルでのドクメンタが刺激的なのだ。書くことで咀嚼して、経験を意識に定着させておきたい。

午後はFRIEDERICIAMという、伝統的にドクメンタの会場として使用されている美術館に向かった。ここは、アテネのドクメンタでメイン会場になっていたGreece's National Museum of Contemorary Art(EMST)のコレクションが紹介されることで、カッセルとアテネの強いエンゲージメントの始まりと位置付けられている。

2000年から作品の収集を始めたEMSTのコレクションは映像やインスタレーションが主である。特に印象に残ったのは映像作家ビル・ビオラが2005年に制作した《Tempest (Study for The Raft)》だった。

ART iTのビル・ビオラ インタビュー「地平線の彼方へ」の冒頭でも紹介されている作品だ。

10分ほどの映像の中で何が起きるかをごく簡単に要約すると、まるでNYのメトロの乗客たちのように、多様な人種で構成された10数名の男女が、最初は互いに無関心で、むしろ他者の存在を迷惑そうに振舞ったりしている。しかし突如、画面の両脇から大量の水が噴射されて、人々はその水圧にもみくちゃにされるのだ。水の勢いが弱まってからの終盤の人々の行動が印象深く、冒頭ではあれだけ無関心であったのに、惨事のあとには、互いに互いの無事を確かめ合い、労わり合う姿を見せた。

都市に生きる人間のあり様を描き出しているようだが、私はこの作品から東日本大震災を連想して、ちょっと涙ぐんでしまった(作品は3.11前に制作されているものなので、実際には関連はない)。惨事が起これば助け合うのに、なぜ普段から互いに労わりあえないのだろうともいえるし、いったんことが起これば、人々はほぼ本能的に助け合うのだともいえる。日常での人との関わりにどんな比重を置けばいいか、いざという時のために何を信じられるか。自分の中に問いは問いとして残り、空中に放り出されたような後味が残った。

FRIEDERICIAMにはフォトジェニックな作品も多かった。

ついミーハーぶりを発揮して、写真映えする作品を撮影してしまうのだが、もちろん、携帯の画像データには残らずとも、心に焼き付いている作品がたくさんある。

夕方には、前日に申し込んでおいたDOCUMENTA HALLEでのツアーに参加した。海外で美術鑑賞ツアーに参加するのは初めての経験だし、日本国内でもツアーにはめったに参加しようと思わないので、かなり楽しみにしていたのだ。

ツアー開始時間にミーティングポイントに現れた案内人は、ロンドン出身でカッセル在住、かつてドクメンタにも作品を出品した経験を持つ女性アーティストだった。

「この鑑賞ツアーは一方的に作品解説をして情報を与えるのではなく、ディスカッションも楽しみたいと思います」

彼女は冒頭にそう宣言をして、参加者10数名はそれぞれに簡単な自己紹介をした。ほとんどがドクメンタ初体験であり、出身地はそれぞれドイツ、ギリシャ、メキシコ、オーストリア、イギリス、日本と実に国際色豊かなツアーなのが自己紹介をしたことで明らかになった。

ツアー冒頭は案内人が作品のコンセプトや彼女自身の視点を語って、参加者からの質問に答えたりしていたのだが、中盤はいわゆる対話型鑑賞スタイルも取り入れていた。

「この作品を自分なりにディスプリクションしてみてください、どうですか?」

と、仏僧の身なりをした男性がお金に囲まれて、銃弾を袈裟がけし、女性の頭を触っているどうにも不謹慎なポスターを前に、案内人が促すと、次々に参加者が、ああだの、こうだのと言い出す。案内人は丁寧に意見を受け止め、否定も肯定もしない。ただただ、参加者や彼女自身が感じたことが言葉になって共有されるのを楽しむ姿勢が見えた。

そこで居心地がよくなったのか、かなり否定的な意見も口にする参加者もいた。

「この作品は正直、わけがわからないし、観る人にとって退屈。これにお金を払うのは僕は嫌だな」

と言い出す人も。

「アーティストとして言うならば、作品にはちゃんとコンセプトはあるし、できれば鑑賞者にも感じてもらいたいと思うのよね。この作品はパフォーマンスもあるから、作品理解のためにはおすすめですよ」

案内人はあくまでも笑顔で返す。

2時間をかけたツアーの最終段階では、ディスカッションにも熱が入り、ドクメンタ14のキュレーター(アダム・シムジックを主に複数人のキュレーター陣が作家の作品を選出している)同士の協議について言及があったり、パブリックスペースに置かれたわかりやすく面白い作品を「アイキャッチになるから、いいんじゃない」と評してみたり、《The Parthenon of Books》を構成している書籍がどう選ばれたのか、どう選ばれるべきだったのかについて、参加者同士で意見を戦わせる場面もあった。

特に印象に残っているのは、パキスタンのフェミニズム運動のポスターで、ヒジャブ(顔以外を覆うイスラム女性特有の服装)をまとった女性が腕に手錠をかけられている作品を鑑賞した時。イギリス人男性は「女性はどういう生き方をするか、選べるではないか。男性や宗教、時代とどう相対するか、選ぶのはその人自身だ」と発言したのに対し、メキシコ人のアーティストで大学でも教えている女性は「それはずいぶんと西洋的なものの考え方だと思う」と返したシーンだ。男性の意見に、私自身も「もやっ」としたものを抱えたので、間をおかずに丁寧に意見を述べたメキシコ人女性を好ましく思った。

交わされた言葉の全てを理解できたわけではないが、それぞれが自分の感想をきちんと言える場が設定されていた。

異なるバックグラウンドを持つ人同士が意見を戦わせれば、けっして分かり合えないことも出てくる。しかし、「アートの傍においては、どんな意見も許容される」ことが前提だ。意見の対立もそこまで心地悪いものではないし、誰かの正直な見解は、自分の知らない世界を開く扉になる。自分以外の他者とアートを共に鑑賞する醍醐味はここにあるのだ。

ツアーのあと、前述のメキシコ人女性と軽く食事をしながら、話をした。

聞けば、日本のみならずメキシコのアートシーンもどちらかといえば閉じているし、世界のアートシーンに目を向けない人は多いらしい。おかしかったのが、メキシコで開催された草間彌生展がかなりの大盛況で、すごい列ができていて、彼女は鑑賞するのを諦めたと聞いたこと。東京で開催された草間彌生展で、私も全く同じ状態で鑑賞をあきらめたのだ。多くの日本人は草間作品をポップで可愛いと軽く受け止めていて、作品が内包するダークで性的な強迫観念に満ちたそら恐ろしいところを観ていないことが不思議だと話してみたら、それはメキシコでも同じ状態なんだそう。

日本アート界のガラパゴス化現象も見逃せないが、西洋と非西洋の間にある溝にもまた、注視していく必要がありそうだ。

「教育が問題なのよ」

と彼女はいうが、やっぱりそれは日本でもそうだ。

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