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夏の軽井沢のようなミュンスターで、アートをめぐる。そして、芸術は芸術を目的にして何がいけないんだと自問した

ドイツ北西部ミュンスターの夜は静かだ。朝は鳥のさえずりで目を覚ました。よく晴れている。日課にしているnoteの記事を書いてしまった後、朝食を食べていそいそと出発した。朝からワクワクが止まらない。アートに出会いたいという思いが、こんなにも自分を駆り立てていることに、我ながらちょっと戸惑う。何がそうさせるのだろうか。

10年に一度開催されている彫刻プロジェクトの、今回の参加アーティストは34組。複数の作品を展示しているアーティストもいる。加えて、公式マップ上にはパブリックコレクションが38作品マッピングされている。とにかく、全部観たい。特に今年参加しているふたりの日本人作家、田中功起と荒川医の作品は絶対に観たい。一刻たりとも晴れ間を無駄にはできない。

おとぎの国のようなミュンスターは、自転車で走っているだけで楽しい。

市街地から離れた場所に作品を展示している荒川医を観るために、湖のほとりを走った。「爽快」なんていう、ありふれた言葉しか出てこないくらい、とにかく気持ちいい。

乗馬クラブの隣にある原っぱが、荒川作品の展示場所。左手に点在するいくつかのパネルはそれぞれ、様々なアーティストが制作した絵画作品へのオマージュになっていてLEDが点滅したり音がなったり。暗くなってから観るのが正解なのだろう。作品裏のコンセプトテキストを丁寧に読みたいんだけれど、日差しにクラクラしてしまって、頭に入ってこなかった。

田中功起は街の中心部、LWL美術館のすぐ近くにある建物の地下に展示があった。2016年に開催された水戸芸術館の個展において、「民主主義を再考する」としていた田中の問題意識をさらに深化させたようだ。背景の違う人同士がどう互いに知らないことを伝えあえるのかをテーマに10日間のワークショップを開催したドキュメンテーションが展示されていた。

空間の作り方もすばらしく、力みなぎる展示だった。

ドクメンタ アテネと比較してしまうと、作家数は少ないものの、1作家あたりの予算の取り方や展示の充実度はミュンスターに軍配が上がる。そのため、グループ展とはいっても、作家の世界観をきちんと味わえるようになっているのがいい。観ることにせわしなくなってしまうよりは、よく噛んで味わえたほうが、鑑賞の充実度は上がるからだ。

ところで、このミュンスター彫刻プロジェクトだが、1977年の開始当時には、市民が「現代美術反対運動」を起こすほど、賛否両論の渦をつくっていたようだ。しかし、現在は町中が静かに、10年に1度の100日間の展覧会を楽しんでいるように見える。変なお祭り感はないのに、展覧会を楽しむ環境がしっかりと整っているとでもいえばよいか。まだ感じたことをいい当てる明快な言葉は見つからない。

そして、ミュンスター彫刻プロジェクトは当初、芸術と公共空間をめぐる芸術家と市民との対話を重視していた。そのスタイルが現在はどう受け継がれているか、作品を鑑賞するだけではわからないが、作家が長期間滞在をして、固有の場所や空間を強く意識したサイトスペシフィックな作品を制作するという基本コンセプトは揺らいでいないはずだ。

おもえば、ドクメンタは「ナチスが弾圧した芸術活動の名誉回復」という命題を元に始まり、ミュンスターには開催当初から現在まで「芸術と公共」という問いがある。ドイツで開催されている、このふたつの世界的に有名な大規模展覧会は、いわば「芸術のため」に始まっているのだ。

「芸術の目的はつねに芸術だ」という言葉に、日本ではなんどもぶつかってきた(受け入れられにくいという意味で)のだが、ミュンスターでは、ごく自然に芸術が芸術のために存在しているように思えた。

これは羨ましい。ほとんどジェラシーだ。

近年は日本でも本当にたくさんの国際芸術祭が開催されるようになり、今夏は5度目のヨコハマトリエンナーレが開催されるし、今年初開催の芸術祭には、北アルプス国際芸術祭などがある。

日本の場合、多くの芸術祭が行政の予算で開催されるからだろうか、「芸術の、芸術による、芸術のための芸術祭」という論理は通りにくいと感じる。それよりも、「市民に豊かな文化芸術の体験を約束して、観光誘致、経済効果も見込めるでしょう」と、早い段階から結果を求める言葉ばかりが飛び交っているように感じてしまう。

理由は分かる。「芸術のため」と言い出したら、特定の人たちの利益のために行政が行動しているように見えてしまうからだ。ざっくりと考えれば、行政システムを通過した芸術は、世界中のあるいは次世代をも含む全ての人がその文化の恵みを享受できるようになるものなのだが、日本のマジョリティは「芸術は芸術好きの人のためにある」と考えていて、教養、人類の叡智、人の生き死にをそのエッセンスから学びとれるもの、社会に問いを投げかけるもの、なんて、いろいろある芸術そのものの価値には目を向けようとせずに、ごく近視眼的だ。

行政が芸術を自分ごと化しない市民をうまく巻きこもうとするならば、最もわかりやすい芸術祭開催の理由は、「観光による経済効果」なんだろう。経済は自分ごと化しやすいから。

否定はしないのだけれども、私のように芸術祭の動きの一端で生息しているアート好き人間は、そうした市民を説得させるための行政の言葉遣いに、つい右往左往してしまう。方便が苦手なタチが災いしてか、「芸術をやるためのいいわけづくり」のような言葉の使い方に、心のどこかが疲弊しまう。

そして、日本において本気で「芸術の目的はつねに芸術」という原則を浸透させようとするならば、今よりもっと多くの人が、芸術とは何かを深く理解する状況を作り出さなくてはならない。でもそれって、翻って考えてみれば、「日本人って、芸術的素養ないよね」と言い出す、痛い専門家みたいなもので、そういう言い方やスタイルでは、育つものも育たないわけだ。

日本における芸術の専門家は、金銭的には恵まれないのに、専門性が人々のコンプレックスを刺激するのか、「芸術のひとたちって、お高くとまってやーね」と攻撃されやすいので、「より多くの人たちが、もっと芸術の価値を理解するように」なんて、専門家が言い出すのは、崖から飛び降りるようなもんだったりもする。芸術界の人々が生きづらい、我が日本よ。どうしたものか。

22時に見たフューシャピンクの夕焼けが美しかった。自然豊かで静かなミュンスターでは、難しいことはあんまり考えたくない。



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