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お互い受け入れ合える環境で、遠慮なく能力を発揮できる環境だった、あの街が好き。

4歳か5歳くらいに転居した北国の田舎の家はボロボロの公宅だった。テレビで見る同じ国家公務員のエリート職の家族が住む家とはうって変わり、

平屋木造で、玄関前は舗装されていない砂利道。
和式のトイレ。
裏口のドアが壊れて閉まらず洗濯機を壁にした。
ドアは開くのではない。左右に動かすちびまる子ちゃんの家と同じ形。
お家にはワラジムシが入ってこないように薬を撒く。

きょうだいとシェアした部屋の天井は、二段ベッドの上でジャンプしたから穴が空いた。

それでも、好きな街と聞いて思い浮かんだのは、あのオンボロ屋敷しかなかった。
…………………
お休みの日は家の横の芝生で隣家のおじさんがゴルフの素振りをしながら、
私の花冠作りを優しく見ていてくれた。

町を歩いていると通りすがる人々は「りりいちゃん」と話しかけてくれる。

園長先生と思って挨拶したのは違うおじさんで、それでも仲良くおしゃべりしたな。

勿論、苦手な人も意地悪い人もいた。
向えのおうちのお姉さんは、私のきょうだいに、私に意地悪するように指示したり、
嘘もよくついていた。

幼稚園の友達から仲間はずれにされたこともあったし、
暴力的な男の子に何度も泣かされた。

それでも全部含めて、居心地が良かった。

小学1年生になったときに学校の生徒全員が友達で、誰とでもおしゃべりできたし、
絵も文章も勉強も資格試験も、
伸び伸びと能力を発揮できた。
やりたいこと全部が上手くいき、毎日が凄く楽しいと思っていた。
……………
そこから引っ越しをして、初めて、
明るく振る舞えるのは環境次第であること、
能力を伸び伸びと発揮するのには、認められて評価してもらえる環境が必要であること、
を知った。

学校でも公園でも話しかける相手は選ばなければならなくなった。

計算が早かったから、みんなに合わせて遅くするよう学級会で先生に怒られ、それからペースダウンした。能力を抑えることは余りにも息苦しかった。

市町村合併で町名を失った転居前のその町は、
人は危険ではなかったし、
遺憾なく能力を発揮できる環境だった。
意地悪い子もいたけど、周りの人たちが棘を丸くしてくれたから嫌いにはならなず、全てを含めて自分が自分で生きることができていた。
……………
住まい自体は、今のマンションの方が間違えなく快適で便利。
しかし、町中で「りりいさん」なんて呼ばれることはあり得ないし、万が一にもあったらホラー。

会社では、誰と話すかを選ぶし、居心地が良いなんて思えない。週1、2回のテレワークに縋りつくことで、辛うじて在席している感じ。

きっと家は箱で、暮らしたいと思えるのは会社の人や町の人が温かいところなんだろう。
地域も、内装もどうでも良い。

お互い受け入れ合える環境で
遠慮なく能力を発揮できたあの街が好き。
………………
市町村合併で町名を失ったあの街に、30年経った今は、知り合いは殆ど居ないだろう。それでも人を温かく受け入れるあの雰囲気は消えていないだろう。
だから私は、温もりあるあの町が好き。

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