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言葉がなくても友達でありたい

「友達だよ」、「親友だよ」。
そう言ってくれた子の多くは、今は昔。
むしろ何も言わない人こそ長く仲が良かったりもする。

長く交流が続いている人に、「私達の関係性に名前を付けたとき、親友になるのかな?」と聞いてみた。その人はこの関係性も含めて「りりちゃん」らしい。
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「友達だよ」「親友だよ」
みんなの前でそう宣言されると、その子の言う私が私の全てになり、自分ではない自分が作られる。
自分がどう見えるかは、人によって違うのに、公正な判断のチャンスが奪われる。
そして、私は私を「親友だよ」という子を通してしか見られない。
こうやって出来上がった私は、私を「親友だよ」と呼ぶ子にとって都合のいい私。その子に下僕が必要なら下僕、人気者が必要なら人気者。その価値観がグループ全体に浸透させられる。

みんなと私の距離が遠くなる。
私はみんなと仲良くしたいのに。

そして私を「親友」と呼ぶ子に、面白くないことがあれば、そのグループで私の人格非難を繰り広げ、
親友であるはずの子によって、居場所を追放されかねない。

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人間関係は、うつろう。昨日の敵は今日の友。逆もしかり。にもかかわらず、親友との名前で束縛されたら先が知れている。私は他人のフィルターを通さず私が見たその人を見ていきたい。

関係性に名前を付けて拘束するより、相手の名前が関係性になって欲しい。

「親友だよ」「友達だよ」そんな言葉がなくても、当然、お互いを大切にし、思いやりを感じ合えるところで止まっていたい🤗🌻
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この「りりちゃん」と言う関係は、言葉がなくても自由な自分でいられるかけがえのないところなのだ。

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