おばあちゃんのなくなった日🌾新潟📸
2024/6/16
おばあちゃんが亡くなった。父方の祖母。
おばあちゃんが亡くなったとき、急な豪雨になったらしい。
おばあちゃんのお葬式に向かうため、東京の家を出たときには、朝には豪雨になり、1日の雨。
梅雨の時期ということもあるだろう。
しかし、なんだかおばあちゃんの悲しさや新潟を想起してしまっていた。
父方のおばあちゃんは統合失調症・糖尿病があって、蜘蛛膜下出血で2回倒れた。
この10年ほどはいわゆる植物状態が続き、胃瘻をして生きていた。
そしてコロナ禍となり、面会は禁止。
その前から合わせると8年ほど顔も見れていなかった。
父方のおじいちゃんは知的障害と癲癇をもち、
おばあちゃんもたくさん障がいを持っている。
いつも祖父母の家に行くと、部屋で 電気もつけず薄暗い中 ただ座っているという記憶が多い。
私が物心ついてくると、
父方の祖父の食事中にオナラをしたり 大きな咀嚼音を立てるのが気になるようになる。
古い農家の家は、ネズミがいたり 台所のシンクはドロドロ 物が散乱していた。
思春期の私は”普通”でなさを感じていたのだろう。
演劇の活動や習い事や部活などが 忙しくなったことも重なり、近寄らなくなっていった。
父方の祖父母へ どう付き合っていいかわからなさと、自分の心の狭さに、ずっと何か申し訳なさを抱えていた。
おばあちゃんと最後に通じ合えたのは、10年以上前。
その頃のおばあちゃんは、もうぼんやりとした中に生きていて、言葉もあまり発することもなかった。
その様子は、"ここ"に居ながら"どこか別の世界"にいるようだった。
(特に昔は、統合失調症の薬は 症状を抑えるためとても強く、副作用によって”心ここにあらず”の状態になるようなことも多かったらしい)
ニュージーランドへ行くことが決まっていた私は、おばあちゃんに会いに行った。
一緒にお寿司を食べている おばあちゃんは、
うつむきながら、寿司に醤油を べたりべたりと付け 口に運ぶ動きをただただ繰り返していた。
帰る頃になり 私が「海外へ行って留学してくる」と話すと、
「そ〜れは大変だ」と目が合い おばあちゃんは微笑んだ。あたたかな声。
そのとき涙が出た。おばあちゃんの中に私がいた、通じ合えたのだなと。
私は何に申し訳なさを感じていたのだろう、ただこの瞬にピュアに立ち会うおばあちゃんをみて、思った。
父は、小さい頃ぜんそくで入院していた。
その時におばあちゃん(父のお母さん)が病院に通ってきてくれたらしい。
だから恩を返したいと話していた。
父にとって、自分を大切にしてくれた唯一の人だったのかもしれない。
おばあちゃんに何かあると、病院のことや 毎週の洗濯など、文句ひとつ言わず、本当によくおばあちゃんのことをしてくれていた。
コロナ禍以降、ただ眠り続けるおばあちゃんの顔もみれないまま 続くお世話。父もいろんな葛藤があったはずだ。
おばあちゃんの亡くなる、本当にすぐ前に 病院の面会が可能になり、父はおじいちゃんを連れて会いに行けたらしい。
2024/6/19
おばあちゃんのお葬式に参加した。
20人ほどの家族葬。
この日は、晴れて、夏のような陽差しの日だった。
「大変だったから」とおばあちゃんのことを、親戚の方が涙を溜めながら労ってくれていた。統合失調症と糖尿病、ひいおばあちゃんの介護、2度の蜘蛛膜下出血。
苦労の多く大変な人生に思える。
お葬式後、おばあちゃんの霊柩車と実家に行くと、30人もの近所の人が集まってきてくれていた。
そして、焼き場に行き、おばあちゃんを火葬する前、おばあちゃんに話しかけ 泣いている人が多くいた。
おばあちゃんは、色んな人に会いに行っていたらしい。そんな積み重ねで、人との関係が築かれて行っていたのだなと思った。
おばあちゃんの人生は大変なように見えていたけれど、そんな中で、幸せな瞬間があったんだなと思った。
天気と共に 悲しみも晴れた ような気がした。
おばあちゃんを偲びながら、
おばあちゃんとの記憶を思い出していた。
うちの家は、おばあちゃんの代まで農家をして 農村に住んでいた。
私は 小さい頃、おばあちゃんの広々としたお家、元気な野菜のなった畑や田んぼが大好きだった。
畑から、家の水道まで走って、”もぎたて最短できゅうりを食べる”をやってみたり、のびのびと家の中で走り回って遊んだり。
そんなことを何か言わずにさせてくれていたなと思う。
おばあちゃんは、お年玉や誕生日にはお金をくれていた。私のいることを知ってくれているんだなと嬉しかった。
おじいちゃんおばあちゃんの思い出す顔は、笑顔なのだ。
ただただ、そこにいて笑っているような、無垢さがあったなと思う。
その子供たちである、私の父や 父の妹さんは、本当にいい人だ。
心優しく、当たり前に人に手を差し伸べられる、何かが起こった時に それを受け入れ対応していく。
私が申し訳なく思っていたことは、おばあちゃんは気にしていなかったのかもしれない。
父方の親族の醸し出す雰囲気の中で、悲しさもみんな感じていながらも、何かたんたんとした雰囲気も感じていた。
それは、母方の祖母の親族とのお葬式とは違う感覚。
喪主の父の性格も出ていたのかもしれない。
この家族には、何か余計な思考が少なく、目の前のことに当たり前に取り組むような、純粋なものが何かあるのかもしれないと思った。
瀧澤の名前は私で最後になる。
今は好きな名前だ。
仕事を続けるかぎりは この名前とともに、生きていけたらいいなと思っている。
2024/6/20
おばあちゃんの葬式の翌日、私は32回目の誕生日を迎えた。
私はどのように人生を紡いでいくのだろう。
この日の新潟と東京は晴れていた。
( 写真撮影📸 konica c35 fd 🗓️ 2021/3-4 )
写真と言葉を綴ったひと
瀧澤綾音
演者・美術モデルとして活動。
6歳から演劇に演者として関わり、20歳でインスタレーション作品に感銘を受け「より体感・実感的な作品を演劇でつくりたい」と上京。
新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあ APRICOT/文学座附属演劇研究所/美学校 演劇 似て非なるもの/無隣館/映画美学校 アクターズ・コース/未来の踊りのためのプログラムで表現や創作について 培う。
2022年 調布市せんがわ劇場演劇コンクール俳優賞 受賞。
演劇・パフォーマンス・映像・写真・旅・癒し・インスタレーションなど重なり合う、より体感的な、作品の創作や出演を続けている。
2011年から写真の撮影をはじめ、
2021年よりフィルムカメラでの撮影を開始しました。
フィルムカメラkonica c35 fdの写真を載せた Instagramもやっています。
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