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amazarashi「永遠市」への旅✧♡②

 ついに、会場に着いた。

 会場に入るまで、安心できないとやさぐれが言っていた。
 なんだか、紙のチケットの方が、手にした時の安心感があるんだなと、思う。たぶん、予想するに、転売目的の、ダフ屋阻止みたいなことのためのスマホチケットのように思うが、この、不便さ、なんとも言えない。

 我々が着いた途端に、何やら、行列が作られ始め、動き始めた。
 今、受付というか、開場が始まったのだと思う。

 なんというベストなタイミングだろう。

 左側にまだ立ち止まっている人たちは、知人との待ち合わせか、当日券の人なのだろう。
 姉と共に歩いて行って、画面を見せると、
「一緒の方にも、チケットを分配してください」と言われたが、
「スマホ無いんです」と言うと、姉のスマホに、2回、なんかしてくれた。

 無事、関門を通過である。

 やさぐれに、6時開場でも、7時開演で、席が決まっていたら、別に、7時ギリギリに行ってもいいんじゃないの?と聞くと、なんだか、そのチケットにハンコみたいに電子機器で押すときに、amazarashiグッズの抽選会があるらしいのだ。
 別に( ^ω^)・・・グッズは欲しくはないしというクールなオトナとしては、なんとも言えない笑。

 6時、開場で7時開演だから、席を確認したら、ロビーでおしゃべりでもしていようと、姉と椅子に座っていた。元同じ職場の同僚と出会い、鉄道で来て、日帰りで、明日仕事に行くという話を聴いた。
 やさぐれは1階中央で前から4列目の席だというので、我々、2階席のメンツと別行動だ。
「どきどきする~!見上げて首が痛くならなきゃいいけど」とやさぐれ。
 そして、何度かコンサートに行った彼女から、聴いた言葉。
「どんな席でも、その時を楽しめました」というもの。
 なんというか、その言葉がいちばんの安心感。

 舞台に近い方が、目の前で演じている演者の気配や距離が近く、臨場感を感じるので、前の方がいいに決まっている。
 私も、昨年まで、高校の芸術教室の責任者だったため、3年生は前の方で、演者の空気を深く感じて、反応も素晴らしい。1年生は2階席で、離れているので、興味が無かったら眠りかけしている人もいる。
 ただ、amazarashiのコンサートの動画を観ると、舞台に、歌詞が映し出されたり、舞台全体を把握するには、多少、後ろに行ってもいい気がする。
 
 姉が、推しがジャニーズの人に、コンサートに行くって言ったら、
「2時間、立って動いて、聴いてるの大変よ」と言われたのだそうだ。
 私は、映像で見る限り、amazarashiのファンは、微動だにしないで、えっこんなにリズムにも何にも乗らないのか?というぐらいじっとしてコンサートを聴いているから、立たなくていいし、腕を振る必要も無いんだよ、安心して、と伝う。クラッシックのコンサートみたいに鑑賞しているんだよ。
「そうか、それはそれで寝てしまったりして・・・」
と、ちょっと心配する姉。

 私と姉が前回出かけたある舞台で苦い経験がある。
 マイケル・ジャクソンの音楽とシルクド・ソレイユがコラボしてできた舞台、イモータル。今、イモータルといっても、マッドマックスのキモチワルイ、支配者しか思い浮かばなくて笑、調べ直したが、たしかに、ツアーは、その通りの名前だった。支配者はイモータンだった。惜しい笑!

 マイケル・ジャクソンが死んでからファンになった私は、このツアーに飛びつき、埼玉にいる叔母の分のチケットも買って、姉と私と叔母と3人で埼玉スーパーアリーナに行った。行く前に、うちのダンナは言った。

「おまえ、よくそんなのに行くなあ。
 マイケルはいないんだぞ?
 マイケルを真似するコロッケを観に行くようなものだ。」

と、出鼻をくじくようなことを言う。しかし、確かに一理ある。
 いやな予感がしていたが、やはり、全く、面白くはなかった。
 ダンナにメールした。

「コロッケだった」

 そんな10年前の記憶が蘇る。

 埼玉スーパーアリーナというあの広さも、ダメだった。

 演じる方は、一度の演技で多くの観客を呼び込めてお金が儲かるのかもしれないが、物理的に、感動できる距離というのがある。
 それ以来、アリーナの舞台には要注意だ。
 
 私が恐れていたのは、今回の席が、まるでyoutubeを観ているような距離でなければいいなということだった。

 埼玉スーパーアリーナではない、普通の舞台を観る会場に、かなり期待してる。

 コンサートが始まった。

 

当日のセットリストとグッズ(やさぐれ提供)

 新曲が沢山入っていて、ダンナが寝てから何度か聴いていたとは言え、まだ、そこまで馴染んではいない。
 でも、amazarashiのコンサートは、顔を人前に出さないという秋田ひろむのスタンスを貫き、彼の顔は見えず、歌声や演奏している姿はわかるが、ライトは彼を背後から照らしている。
 そして、彼らの前には透明な幕が張られていて、そこに歌詞や、mvの映像などが映し出される。mvと全く同じ映像もあるが、どちらかというとコンサート用に編集されたり新たに作られた映像もある。



 新曲も、歌詞カードを観ていなかったから、そんなに夥しい沢山の言葉が並べられていたんだとじっと本を読むように、秋田ひろむの声が届ける音楽を聴きながら、映し出された文字を読んでいた。

 これは、音楽に乗る前に、鑑賞(読書)してしまう音楽だと思った。
 言葉が、矢継ぎ早に降ってくる。
 それも一瞬では理解できない。
 知ろうとする。
 左脳が理解しようとする言語と
 右脳が受け止める芸術である音楽が混在している。
 不思議な体験である。

 今回のコンサートに参加してみて、今後、スマホを持つかどうかを決めようと思っていたが、今日のようなコンサートを、再び聴いてみたいと思った。

 時々、曲の合間に、秋田ひろむが話をする。美しき思い出を作った時、むつにいたという話とか。昔はあまり好きでなかった曲だけどと、いろいろな前の歌も歌ってくれた。

 それを聴いているうちに、なんというのか、彼が生まれた青森の地で、彼の創った曲を聴いているという幸福、今回、コンサートで、今ライブで歌っている彼を感じられたという僥倖を、受け取った。

 青森県でやるライブには、少なくとも、今後、参加しようと思った。

 雪道を漕いで、歩いて、地を這って、会場に駆けつけようと思った。

「行けども行けども降り積む雪ばかり 終わりは見えない
 ごめんねオデッセイ」

 この青森の雪道を、秋田ひろむと共有しているんだと、気づいたコンサートだった。

 


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