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秋の寂しさの理由

 最近、朝歩くのがちょっと億劫。

 前まではこの時期歩かないのは、いつも出勤前というあわただしい時間に、空が暗いから、暗くて歩く気がしないんだと思っていた。

 働いていた時は、暗闇を歩く気は無いから、ウォーキングは自然消滅。
 だいたい10月から3月まで。(何?半年もさぼっているんだなあ!)
 半年間、歩き続けて減っていた体重が半年かけて、ゆっくり戻る。

 しかし、今、出勤は無い( ´艸`)。
 さぼる口実が無いのであったw。

 最近、歩いてみての感想。
 秋って、なんかつまんないな~と思っている自分を発見笑。

 やはり、春に向かって、植物が勢いを増していく、生き生き伸び伸びとした姿に比べ、木の葉が枯れて落ちてくる、そんな、寂しい姿を観なければならないからではないだろうかと気が付いた。

 人間の人生で言うと、青春を見るのと、晩年を見るのの違いかな?笑
 この違い、でかいよね?笑

 しかし、これでくじける私ではない。
 晩年にだって面白いことが山ほどあるはずだ。

 小さな秋を見つけようとカメラを持って出かけてみた。
 積極的に小さな秋見つけよう大作戦。

庭に無花果があるってなんか羨ましい!しかも獲って何かしている気配はない。
私が収穫して、もらってもいいですか? 
柿もなっている。これからオレンジに色づいていく。そういえば、晩秋は、柿の実が美しい。

 近所の、畑も広く展開している家の庭の木を勝手に撮ってみた。

たぶん七変化と呼ばれるタイプの紅葉

 姉が遊びに来た時に教えてくれた。

 この紅葉は七変化って言うんじゃない?

 そう言われてみると、4月はリンデン・グリーンだったし、次々色が変わって楽しい紅葉だと思う。

 前まで、ここは綺麗に手入れされている土地だったが、持ち主が、年を取ったせいか、今年から売地になり、住宅屋の大きな看板が立っている。
 草もぼうぼうで、手入れされている気配が無くなった。
 1本残された七変化。

川べりにずっと植えられているどうだんツツジ。色が変わりかけている。

 これから真っ赤に変わるときが楽しみ!

 緑のものが赤に変わる不思議。

 赤と緑は色相環でほぼ向かい側にある色だけど、自然は平気でそんな大胆な色遣いをする。

真っ先に桜が咲く、ソメイヨシノじゃない桜たち。真っ先に散っていくのも彼らだ。

 この辺の桜たちは、ずいぶん前から葉を少しずつ落としてる。
 あの、死にそうに暑かった夏からだ。
 秋は小さく忍び寄っていた。

近寄ってみる。

 11月になると樹々はすべての葉を落として、すかんと潔い姿になる。
 頭の上を覆っていた緑の葉が無くなると、景色は妙に明るくなる。

家の塀を伝う蔦の紅葉が進んでいる。


秋草図といった風情の秋の草たち

 同じ季節に咲く植物の姿は、似ているものが多い。
 同じ種だから、というのがあるのだろうか。
 牧野富太郎博士に聞いてみたい。

 ススキ状の茫漠とした形のものが沢山生えている。

酒井抱一『夏秋草図屏風』

 ほらほら、これ、ですよ。
 このススキ状の植物が、静かにうなだれて、寂しそうなんですよ。
 なんだろうな、この琳派の人たちの絵のかっこよさって。
 絵が描かれてない空間が善き。


草刈から取り残されたススキ。よく育ってるw。

 むむむ( ^ω^)・・・
 秋は植物の形から、寂しげということがわかった笑。
 発見だ!

家主不在の庭で咲き乱れる朝顔

 朝顔が一斉に咲いている其一の絵は、フィクションだろうとずっと思っていたけれど、ノンフィクションなのかもしれない。


其一の朝顔


 其一が、朝顔を描きながら、可愛い、可愛いと話しかけていたら、一斉にこちらを向いて咲いた日があったのではないか? 

 

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき   猿丸大夫

百人一首より


 古の時代から、和歌も、そうなのである。

 秋は寂しくて悲しいのを認めるか。
(ちょっと、負けた感ある( ^ω^)・・・)

 歌でも詠んでみよう。