見出し画像

籠の鳥たち〜映画『カナリア』を観て〜

※注意・本文には作品の内容が含まれています。

引き出された記憶

私が小学生の頃、自宅の外壁に無断で貼られたポスターがあった。
そのポスターは、長髪の男が水中で祈っているような写真で、何分も潜っていられるだとかそんなようなことが書いてあったように記憶している。
そのポスターの男は私が中学生になると、オリジナルソングを流しながら自分そっくりな着ぐるみ達と共に渋谷などの街を練り歩き、世間を賑わせた。
そして私が高校生になったときに、地下鉄サリン事件が起こった。 
ポスターの中の男は気が付くと、多くの人の人生や命を奪っていたのだ。

もしも我が家にポスターを貼った者が家の呼び鈴を鳴らし、私の親を勧誘し、親が勧誘に乗ってしまっていたら私の人生は一体どうなっていたのだろうか。考えるとゾッとする。

なぜ突然そんなことを思い出したのかというと、先日映画『カナリア』を観たからだ。

この映画は、母親のせいでカルト教団に入団させられてしまった光一という12歳の少年の物語だ。
まるであの教団のような、ニルヴァーナという名の教団に。

東京へ

物語は主人公の光一が、祖父に引き取られた妹を取り返しに東京へ向かうところから始まる。

父を亡くし、母親に連れられてカルト教団ニルヴァーナに入団した光一とその妹の朝子。
やがてニルヴァーナは無差別テロを起こし、強制捜査の末、数十名の子供たちは保護され、関西地区の児童相談所へ送られた。
祖父は妹の朝子を引き取るが、光一の引き取りは拒否される。
児童相談所に残された光一は、妹を祖父から取り返して行方不明の母親も連れ戻すと決意し、児童相談所を脱走する。

そんな光一は、援助交際をしながらお金を稼いで生活をしている同じ年の少女由希と出会う。
由希は母を亡くし、唯一の親である父親からは暴力を受け、生むつもりなんてなかった、仕方なく生んだんだと彼女の存在全てを否定されながら生きてきた。
「こんな町出て行きたい、うちも人の役に立ちたい。」由希は光一に伝え、2人は光一の祖父の家がある東京へと向かう。

直面する現実

2人は東京に着くと、光一の母岩瀬道子を含む4人の特別指名手配人のポスターを見つける。
また、ようやく見つけた祖父の家はいたるところにスプレー缶で誹謗中傷の言葉が書かれており、家の中はもぬけの殻で、床には外から投げつけられたであろう石が窓ガラスの破片と共に落ちていた。
こうして、光一が知らなかった真実が次々と露わになっていく。

祖父の行方が分からなくなり露頭に迷っていると、元信者で親交の深かった伊沢と偶然再会する。
彼は今、元信者同士で助け合って生きていることや、自分はもうシローパ(教団内での名前)ではないことを光一に告げた。

元信者たちの暮らす家で、人の温かさに触れる優しい時間を過ごす光一と由希。今まで見せなかった無邪気な笑顔がそこにはあった。
しかし、元信者の吉岡はしっかりと事実を光一に伝える。家族を騙してまでお布施をしていた伊沢のことや、そのために犠牲者となった人たちのことを。そして、なにしてたんだらうな俺たちと。

やがて祖父の現住所を手に入れた光一と由希は元信者らの家を去る。
別れ際、伊沢は光一にこう伝えた。
「光一、お前は神の子じゃない、ニルヴァーナの子でもない。光一、お前はお前だ。〔中略〕自分が自分でしかないことに耐えられなくなるかもしれない。だが光一、その重荷に潰されるな。俺が俺でしかないように、お前がお前でしかないことに絶対に負けるな。」と。

ニルヴァーナで自分に信念を教え導いてくれていたのは吉岡だった。
未だマンドラを唱えたり、洗脳が残る形で1人置き去りにされた光一には、どれほどまでに吉岡の言葉が重く辛いものだったか。

しかし、こうやって己の間違いを認めた上で光一を正してくれる大人がいてくれたことや、やり直しながらも小さな幸せと穏やかな時間をもてている元信者たちの存在は、後に光一がそれでも生きるという決断に大きな影響を与えていくように見える。

子供は親を選べない。親は子供を選べるの?

物語のラストは、光一の祖父から朝子を取り返すシーンだ。
祖父は由希に「道子で育て方を失敗したから朝子でやり直す」と言う。さらに、「光一は道子と似ているから駄目だから光一の受け入れは拒否をした」と。
そこで叫ぶ由希のセリフがとても印象深い。

「そんなん理由になるかい。なんでそうなん?子供はな親を選べへん。親は子供を選べるんか?」

親を選べないからこそ、親は子供の行手を強制や否定すべきではない。些細な一言でも深く傷ついて一生その言葉を背負って生きていくことだってある。
また、幼い頃は特に嫌でも親の影響を受けて育つ。昔母親が口ずさんでいた歌を歌ってしまう由希もそうであり、拒否していたはずのマンドラを自然に唱えてしまう光一もそうだ。子供に与える影響力を、親自身がきちんと理解しておく必要がある。

親や家族、環境だったりと、子供が自分では決められないことがいくつもあり、辛い思いをして人生を諦めたくなる子だって少なくないだろう。
そんな子供たちのために大人たちがしてあげられることは、未来を諦めさせず、視野を広げてあげることなのかもしれない。この作品から私はそんなメッセージを受け取った。
家族の形は様々で、生み育ててくれた人たちだけが家族というわけではない。家族に囚われない、自分の想像の外側を知ることで、生きたいという強い気持ちに繋がっていく可能性もある。
人生は、伊沢らのように大人だってやり直すことができるのだから。

光一と由希の人生に向き合える作品

地下鉄サリン事件の数年後に、私は新堂冬樹著の『カリスマ』という小説を読んだ。
この小説は、人が洗脳されていく様子を事細かに描いており、あまりのえげつなさに読みながら吐き気がすることもあり、時には洗脳されてしまう人の気持ちに引きずられそうになるシーンもあった。
『カナリア』にはそういった過激なシーンはほぼ存在しない。
洗脳する過程をあまり見せなかったことや、話が淡々と進んでいくことで、大人たちのせいで巻き込まれてしまった彼らの人生にしっかりと向き合っていける作品になっているように感じる。
また、他人との関わりから見えてくる光一と由希の内面は心温まるシーンが多く、それは2人の役者の持つ演技力によってさらに強く感じることができる。
光一や由希の他者とのやり取りは、この作品の魅力の一つでもあると言えるだろう。

籠の中を飛び出す鳥たち


カナリアという鳥は、毒物に敏感である事から毒ガス検知に用いられるそうだ。
日本でも1995年の地下鉄サリン事件を受け、山梨県上九一色村の強制捜査の際、カナリアを携行している様子が報じられた。
この作品のタイトルはここから付けられたそうだ。

だが、私はタイトルの意味をこう捉えた。
実態以上にひ弱な、外の世界で生きられない事の比喩表現である「籠の鳥」だと言われているカナリアは、まさに光一と由希そのものだと。

籠の中を出たカナリア(光一)たちにも平等に未来がある。
ラストの光一のセリフ「生きていく」には強い生命力を感じ、これからが本当に自分の人生のスタートなんだという希望さえもみえてくる。

ひ弱だと思われていたカナリアが籠の中から強くたくましく飛び立つ瞬間を、是非見て欲しい。

そして、私たちはいつだって加害者にも被害者になり得ることを忘れてはいけない。

『カナリア』
公開日: 2005年3月12日 (日本)
監督: 塩田 明彦
出演者: 石田法嗣; 谷村美月
撮影: 山崎裕
製作会社: オフィス・シロウズ; 衛星劇場; バンダイビジュアル

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?