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12本のバラをあなたに 第三章-6

 出先から会社に戻ったタイミングで藤田ふじたから着信があった。革張りの椅子に腰を下ろしながら出てみると、いつもの藤田らしからぬ沈んだ声が聞こえてきた。
富貴子ふきこから聞いたよ」
 ドクンと心臓が大きく脈打った。
「お前と遼子りょうこ先生に、大きなものを背負わせちまったな、すまない」
 富貴子は自らの病のことだけでなく、自分と遼子に秘密にするよう頼んだことまで藤田に話したようだった。
「いや……。本当なら……、すぐお前に話すべきことなのに隠していてすまなかった」
 実は迷っていた。富貴子が病を得たことを夫である無二の親友に秘密にし続けるのは、正直しんどいものがあったから。だけど彼女から向けられた信頼を、どうして無碍にできるだろう。とはいえ秘匿の罪悪感がなかったわけじゃない。別所は藤田に謝罪した。だが……、
「謝るなよ。むしろ感謝してるんだから」
「え?」
「お前と遼子先生が約束を守ってくれたおかげで、あいつは時間を掛けて病気を受け入れることができたらしい。それに俺もちゃんとあいつと向き合えた」
 思いがけない展開に驚きを隠せないまま別所は藤田の話に耳を傾ける。
「富貴子から話があると真面目な顔で言われたとき、俺、離婚を切り出されるかもしれないとヒヤヒヤしたんだ」
「離婚? どうして?」
 藤田は愛妻家として、富貴子に至っては夫を陰に日なたに支える妻だと二人を知る誰しもが口をそろえて言っている。それなのになぜ離婚という言葉が出てくるのかわからず別所は眉をひそめた。
「ずっと頑張らせ続けてしまったからな、あいつに」
 富貴子は、藤田が起業してからずっと家事・育児に加えて会社の裏方の仕事を一手に引き受けていた。会社の成長とともに、雇い入れた社員に任せるようになったものの、中元や歳暮などといったいわゆる「付き合い」に関わる業務を富貴子が取り仕切っているのは周知の事実だ。特に同業の妻たちとの交流を富貴子が続けていたから、藤田は仕事が途切れなかったと言っていいだろう。藤田はそのことを言っているに違いない。そう思った。
「子供が結婚して親になって、やっと俺たち夫婦の親としての役目を終えたっていえば大げさかもしれないが、そのタイミングで離婚を切り出されるかもしれない。本音を言えばそう思っていたし覚悟も決めてた。ところが違ってた」
 藤田が言うには、富貴子は病名を打ち明けたという。それに主治医のもとへ二人一緒に行って、今後の治療について話を聞いたということだった。
「俺に病気のことを教えなかったのは、富貴子自身が病気と向き合う覚悟ができるまで時間が欲しかったからだそうだ」
 なるほど、そういうことかと別所は得心した。
「病気を知ったときとても怖かったと言ってた。それまで漠然としていた死というものを突然目の前に突き出されたような気持ちのまま俺に話せば、動揺して仕事に集中できなくなるはずだから、まずは自分自身が覚悟を決めてから話そうと決心したらしい」
 でも、と藤田は話を続けた。
「結婚するとき病めるときも健やかなるときも慰め合いともに助け合うと誓ったのに、あいつ一人にしんどい思いをさせてしまったのが口惜しいよ。あいつが俺を思ってそうしたことだとわかっているがな……」
 藤田は悔しそうに言った。
「夫婦ってもんは、なんでも半分こするもんだ。片方だけ我慢したって、なにも良いことはない。しんどかった記憶が残るだけだ」
 耳が痛くなるような話だった。別所は「ああ……」と沈んだ声で相づちを打つ。
 もしも藤田のように考えられたなら、別れた妻にさみしい思いはさせなかっただろう。それに離婚してほしいと彼女から切り出されることもなかったかもしれない。つまらぬ意地とおごりが招いた過去と後悔が脳裏をよぎり、苦い思いが胸に広がっていった。
「ということで、俺は代表から降りたよ」
「え?」
 突拍子のない言葉が耳に入り驚いた。別所は真顔で瞬きを繰り返す。
「リタイヤするには早いと引き留められちまったから仕方なく相談役にはなったが、これからは富貴子のことを第一に考えたいんだ。もう二度とあいつのことで後悔したくないからな」
 そう言って藤田は別れの言葉を口にしたが、
「藤田、お前に聞きたいことがあるんだが」
 別所は、思うところがあって悪友に問いかけた。
「なんだ?」
「男が女性に言う「守る」ってどういう意味だと思う?」
「守る」という言葉は主語がないと抽象的だ。岡田おかだから尋ねられたときは、男が勝手に作り上げた都合のいい言葉でしかないと思ったが、愛妻を思うがゆえの藤田の行動が「愛するものを守る」と繋がっているように感じてならなかった。それで聞いてみたところ藤田はあっけらかんとした声で答えてくれた。
「男にとっちゃ張り合いだろうが、所詮一人相撲以外なにものでもないな。俺も若いときは富貴子や娘を守るぞと息巻いていたものだが、頑張れば頑張るほどあいつらとの距離が離れてしまったんだ」
 そう、自分もそうだった。結果守りたかった相手から別れを切り出されてしまったが。
「富貴子や娘がいる家に帰っても孤独を感じて仕方がなかったよ。それで気づけたから良かったが、もしも気づけないままだったら俺は富貴子と娘から愛想を尽かされていただろうな」
「僕は愛想を尽かされましたよ。気づけなかったから」
 もしも藤田のように気づけていたら。心の奥にしまい込んだ後悔がじわじわと心に広がってきたけれど、別所はあえて意識をそらした。でなければ深い淵に入り込んでしまいそうだからだ。
「じゃあ今度は間違えるんじゃないぞ。守るより支え合ったほうがいい。じゃあな」
 今度か、と心の中で漏らしつつ、別所は電話を切ったのだった。


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