12本のバラをあなたに 第二章-9
『夫には病気のこと、黙っていてほしいの』
昨日面会した富貴子は、思い詰めたような顔でそう言った。しかし……、
『でも……、別所さんはなにか気づいているようだから話して良いわよ、全部』
次の言葉を口にしたとき悲しそうにしていた。
富貴子が別所の名を挙げたのは、篠田からの突然の電話が理由だと言う。
『夫から周年祝いのお礼状の書き方を聞かれたの。あの人、裏方の仕事まで手が回らないから誰かから言われたんじゃないかって思って聞いてみたら別所さんが教えてくれたって……』
そういえば、パーティーの翌日富貴子に連絡しようとしたのを、遼子は急に思い出した。だがその後別所から告白されたことで動揺してしまい頭から抜け落ちてしまっていたのだった。そんな自分と違って別所は篠田にそれとなく聞いたに違いない。
富貴子は、篠田の会社の一番の貢献者だと言っていい。大手ゼネコンを退職し篠田一人で設計事務所を立ち上げ今に至っているが、もしも富貴子がいなければ今のように絶え間なく仕事が入っていたかどうかわからないのだから。
富貴子は、篠田ができない裏方の仕事を一手に引き受けてきた。取引先への中元や歳暮はもちろんのこと、それ以外に篠田が付き合いのある人間たちや世話になっている建設会社の人間の妻たちと定期的に茶会を開いて付き合いを続けている。自分も何度か参加したことがあるけれど、富貴子を中心にした集まりはとても温かくアットホームな雰囲気だった。
富貴子は賢く聡い。猪突猛進な篠田の性格を考慮し行動できる女性だ。篠田夫妻との付き合いのなかで自分自身も富貴子のようになれたら良かったのに、と思ったことも一度や二度ではない。だが富貴子に言わせると、現在のようになるまでにいろいろなことがあったという。さまざまな経験を積んで考え続けたおかげで、現在の良好な関係を築くことができたのだと笑っていた。過去のあれやこれやを思い出しながら昼食後のコーヒーを飲んでいたら、昨晩富貴子から言われたものがふいに浮かんだ。
『別所さんは、私が夫に話すまで何も言わないわ。だから話していいわよ』
富貴子がそう言ったのは、別所の優しさが理由だった。
『優しい人って、きっと自分が大事にしたい人のために心を砕ける人なんじゃないかって思うわ。別所さんがまさにそう。だから別所さんは病気のことを夫には言わないわ』
そう言われたものの、本音を言えば別所に打ち明けていいものか迷った。富貴子の病について話したら、いくら思慮深い別所であっても自分のように動揺するに違いない。それに篠田にすぐにでも連絡するだろうと踏んだからだが、実際はというと富貴子が断言したとおりになった。
別所は富貴子が言ったようにたしかに優しい。関係が悪化していた岡田と深雪に向き合う時間を作ってくれた。篠田のパーティー以降二人の関係がどうなっているかはわからないが、あの日を境に深雪は岡田を罵倒することはなくなった。ということは、いくらか修復できているかもしれない。ソバ屋の軒先で鉢合わせしてからの二人の様子を振り返ってみると、それは確信に変わっていった。
向かいの席にいる深雪に目線を向けたら、彼女は真顔で女性向けの雑誌を見ていた。どんな記事を真剣な表情で読んでいるのか気になり、こちらを向いている雑誌の表紙に目をやると、最新デートスポット特集と書かれている。富貴子の話を打ち明け気持ちが軽くなっただけでなく関係が改善している若い二人の未来に思いを馳せたら温かい気持ちになった直後、昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴った。
十八時になり遼子は仕事を終えて一階のエントランスへ向かった。
一緒に部屋を出ようとしていた深雪に、今日は別所と一緒に行くところがあるからと言うと、彼女は不安そうな顔をした。どうしてそんな表情をしたのか、それは自分と別所が揃ってどこかへ行こうとしているからだろう。
深雪は、自分と別所が気まずい思いをしないようにしていた。しかし、別所と出かけると聞いて不思議に思わないはずがない。だから気遣わしげな顔をしたっておかしくない。そう思い至ってすぐ、深雪は小声でなにやらつぶやいた。
『社長が一緒なら、きっと大丈夫ですよね、うん』
まるで自分自身に言い聞かせるような言葉を耳にし、深雪が案じているのが自分と別所のことではないと確信した。では深雪は何を気にしているのだろう。下に向かうエレベーターの中で考えを巡らせていたら、いきなり姿を現した高桑が脳裏に浮かんだ。それにそのとき自分を助けてくれた別所がとった行動を思い返してみたところすべてが繋がった。
あの日ソバ屋を出て深雪たちが待っている店に行ったところ、彼らは驚いたような顔をした。篠田のパーティーで何が自分と別所のあいだにあったのかすべて知っている二人だからそうなっても仕方がないと思っていたが、もしかしたら岡田と深雪は別所からなにかを頼まれて自分と一緒にいたのかもしれない。自分が知らないところで別所に守られているのだと気づき心苦しい気持ちになったが一方で嬉しかった。
秘めている思いが膨らんだ直後、一階に到着したことを告げるベルの音が耳に入った。その音で現実に戻り、開ききった両開きのドアを通り抜けてすぐ、一番会いたくない相手・高桑の姿が目に入った。
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