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より高みを目指すため、私は「キンタマ」を書き続けた

ずっと優等生として生きてきた。

学生時代は学級委員、生徒会、特待生。品行方正をモットーとし、真面目を絵に描いたような人間。自他ともに認めるクソ真面目。そんな私は昨日、運命の出会いを果たした。

「キンタマ」の記事だ。

衝撃を受けた。一生のうち一度だって「キンタマ」と発音したことも書いたこともない私が「キンタマ」で涙を流し笑う日が来ようとは。「キンタマ」ってすごい。いや違う。patoさんってすごい。

キンタマを痛め命からがらこの記事を書いた人物こそ、ライターのpatoさんだ。テキストサイト「Numeri」の管理人で、私の愛する太陽醤油が登場する『タコの刺身が好きすぎるので最高に合うしょうゆを100本の中から探してみた』や、私の地元枕崎が出発地点『JR九州の乗り放題きっぷを利用して九州のご当地ラーメンを食らい尽くしてきた』などの記事を書かれている。文章の面白さや巧妙さ、他にはない企画のど根性さ、そしてひたすらに長い文章が持ち味の唯一無二のライターさんである。

そして昨日発表されたのが件の「キンタマ記事」である。今回も例に漏れず多くのインターネットキッズたちは彼の文章に熱狂した。なんて文章だ。patoさんには人を文字だけで笑顔にする大きな力がある。すごい。私も、私も書きたい。この力が欲しい。人を元気にしたい。
もちろん、数々の伝説的な記事を書かれた彼の文章を真似することなど到底できないのは百も承知だ。だけど少しでもその高みに近づきたい。私も誰かを笑顔にする、そんな文章が書きたい。興奮さめやらぬ中、思わずツイートした。

私にとってこれが「キンタマライティング」デビューである。でももう、後生「キンタマ」と書くことはないだろう。残念だが、私にはとても模写はできない。真面目でお堅い女、最初で最後の「キンタマ」 さようなら「キンタマ」

「キンタマ」の持ち主からのまさかのリプライ。patoさんの書く文章には「キンタマ」ひとつ重要な意味を持つらしい。そこにはテクニックがある。こだわりがある。この事実は私の心を突き動かした。

そんなこんなで、「キンタマ記事」の模写を行うこととなった。こんにちは「キンタマ」! さようなら淑女な私!

はじめての模写(キンタマライティング)

人の文章を模写すること自体初めてだった。初めての模写が「キンタマ」で良いのだろうか。いや、それもこれも至高を目指すためだ。人を明るくする良い文章を書くためだ。

手始めにまずは模写用のファイル名をどうしようか。ファイル名は重要だ。間違っても「キンタマ」というワードを入れてはいけない。いつなんどき誰に見られるかなんてわからないのだから。

そう、思い起こされるのは十数年前。10代だった私は「グチョグチョライフ」というブログがだいすきで、更新されるたび全ての記事をダウンロード・保存するという気持ち悪い趣味を持っていた。当然私のPCのデスクトップ上にはおびただしい数の「グチョグチョライフ」の文字。完全にエッチだった。
さて、ここから先は私の記憶も曖昧であるため、漠然としたキーワードだけお伝えしようと思う。
「親族」「アダルトサイト」「ウイルスチェック」「業者」
これ以上は絶対になにも聞かないでほしい。真面目に生きていた女の恥部。禁断の扉。頼む。忘れさせてくれ。

悲しい業を背にファイル名の設定には万全を期す必要がある。無難に「patoさん模写」にした。これで誰に見られても問題ない。安心してキンタマライティングができる。

※グチョグチョライフはとても健全なサイトです。

メモをとりながら、2時間かけて模写を行った。ひたすらに「キンタマ」を打ち続ける時間。途中「勃起」がうまく変換できず、どう頑張っても「ボッキ」となってしまう沼にハマった時はもうやめてしまおうかと思った。地獄だった。なかなか出現しない「勃起」を前に、私の中の淑女がお怒りになられているんだと確信した。地獄だった。それでも続けた。模写すればするほど、私のなかの「キンタマ」は形を成してきた。

そして気づく。patoさんの使うすべての単語、記号、文章にはこだわりと信念が息づいている。私は文章の素人である。汲み取れたものはわずかだ。しかし、patoさんの魂の一端に触れられた瞬間、「こんな文章を書けるようになるんだ」という決意のようなものが生まれた。

今回、実際に模写して私が気づいたpatoさんのテクニックについてまとめる。私なんぞがまとめるのもおこがましい話であることは重々承知している。私の推察が正しいかもわからない。そのためゆるりと温かい目で見ていただければ幸いだ。

1. 漢字の使い方

事前にTwitterでpatoさんからこんなリプライをいただいていた。

見事にこれはその通りで、patoさんの文章には意味の異なる連続した漢字がなかった。全てを模写したからわかる。「本当に1つとてなかった」。

しかも恐ろしいことに、そのどれもが自然で違和感を感じさせない。文章が流れるように自分のなかに入ってくるのだ。私は今回patoさんの文章を音読もしたのだが、シンプルにつっかえにくいと感じた。文章が左から右へとなめらかに進んでいく。読み手に細かなストレスを与えない。そこにはpatoさんの配慮があった。

2. 文章のリズム

全体として「リズム」が心地よいと感じた。音としての流れに緩急があるため飽きさせない。文章にメロディーがあるような感覚だ。
そもそも、patoさんの文章には1文が長すぎるものはない。文節をつなげてつなげて、どこに向かっていくのか、動詞がどこにかかっているのか、読者の視点が迷子になってしまうことは絶対にない。

ただ、それでも必要に応じて1文が長くなることはある。そういう場合かならず続く文章はシンプルでヒキの強い短文がやってくる。長文のあとで、1文、2文勢いのある短文が続くと非常に心地が良い。リズム感のある文章には爽快感がある。だからどんどん読み進められる。テキストを層のように積み重ねるそのなかに、音楽が生まれているようだった。そこにはpatoさんのパッションがあった。

3. 読者の呼吸を支配

模写を進めていくうちに読点「、」の使い方が特徴的であることに気づかされる。
例えば、『しかし、○○であった。』という文章。
1文としてとても短いのにも関わらず、接続詞の後にわざわざ「、」を入れている。かと思えば別の文章では、『(1文)、(1文)、(1文)、(1文)』と文章を「、」で区切っているところもある。
前者は読者に一呼吸おかせ、後者では言葉が次々と流れ込みまくしたてられているような感覚を覚えるだろう。
また、『(1文)、(1文)、(1文)、(1文)』のなかには、それだけで時の流れを感じさせるような箇所もあった。

つまり「、」で読者の呼吸を支配しているのだ。

書き手側が意図した拍子を読者と共有することで、書き手と読み手の視線や息遣いをシンクロさせている。我々は気づかぬうちに、文章で「patoさんの世界」に入りこんでしまっているのだ。そこにはpatoさんの魔法があった。

4. 感情を表現していないのに、感情移入させる

感情についての描写が少ないのも特徴のひとつだと感じた。いわゆるヒキの良いエモさや直接的な心の表現は一切ない。
テクニックとしては正直どういうものなのかは分からなかったが、事実を述べる淡白な文章なのに没入感があるのが不思議だった。文章を前にして、なぜか書き手のテンション以上にかき立てられ、揺さぶられている自分がそこにいた。完全に感情移入していた。そこにはpatoさんの品の良さがあった。

5. 【分からなかったこと】空白スペース

文章の中に空白スペースが配置されている箇所が複数あった。印象的な文章の後に空白スペースがあることが多かったが、なにを意図しているのかが私には計り知れなかった。
間違いなく意志のある空白スペースに違いない。これも「、」に近い息継ぎポイントなのではないかと推察している。

研鑽を終えて

patoさんの文章は、なぜ読者を魅了するのか。

彼の文章には全てに意志がある。読点、単語、構成、なにからなにまで読者を楽しませるための工夫が散りばめられていた。そしてなにより、テキスト文化への愛に満ち溢れていた。だから人々は彼の文章に熱狂する。YouTubeやPodcastがもてはやされる昨今、テキスト一本で人を楽しませようというpatoさんの「心意気」と「確固たる信念」には頭が下がる思いである。

読者を飽きさせない、ストレスを与えない、時間をかけてでも最後まで読みたいと思わせる。そのために駆使されたテクニックは全て、長年のpatoさんの弛まぬ研究と実践のなか、積み上げられてきたものであろう。
正直なことを言うと、文章を模写しながら感じたのは「少しの絶望感」であった。本物の文章を前に、今までの自分の作品が恥ずかしくなったのだ。私の手にあるものは、なんのこだわりもない、表面ばかり取り繕ったまがいものだった。とても人様に読ませられるものではない、心からそう思った。

だがしかし、誰しもが一朝一夕に良い文章が書ける自分になれるわけではない。インターネット黎明期から脈々と受け継がれてきたテキスト文化の潮流のなかで、先人たちも同じように苦悩し、それでもなお文章の力を信じ、努力と研鑽を続けてきたに違いないのだ。

それならば私もまた、文章に真っ直ぐに向き合うことからはじめてみよう。テキスト文化を愛していくことからはじめてみよう。

私の文章の「キンタマ」は、生まれたばかりだ。


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