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翼人

1.
 わたしの弟が翼人症候群と診断されたのは、十一月十日のことだった。わたしは母さんと一緒に、付き添って病院へ行った。

「典型的な症状ですね」
 白い板のような顔をした医者は、弟の背中を診ながら言った。弟の肩胛骨は、素人のわたしが見てもはっきり分かるほど異常に盛り上がっていて、弟は触られる度にじんじんと伝わってくる痛みを堪えて俯いていた。

「これはこのまま進行すると、場合によっては骨が皮膚を突き破って外に出てきます。そうでない場合でも、肩胛骨の形成に支障が起きて、突起は大きくなる一方です。突起が大きくなりすぎるとその周囲を包む筋肉にまで影響が生じて、腕が上手く動かなくなったり、背骨が歪んで真っ直ぐ立てなくなることもあります。少なくとも、そのまま放っておいて治癒する可能性はありません」

 医者は母さんの方を向いて話していたけれど、母さんを見て話しているとは到底思えなかった。母さんのことを、母さんの形をした人形だと思っているのかも知れない。母さんは心配そうに弟を見やり、小声で医者に訊いた。

「……あの、この子は、バスケットボール部に入っていまして、またやれるようになりたいんですが」
「バスケ? 出来るわけないじゃないですか」
 医者はそう言うと身を震わせて笑った。
「スポーツなんかよりまずはこの突起を何とかすることを考えないと」

 母さんは黙った。弟の顔は影になっていて見えなかった。

「それでは、今後の治療の方針について説明しますね。方法としては三つ考えられます。まず一つ、このまま通院を繰り返していただきながら経過を見守り、治療を行う。これは患者さんにもご家族の方にも負担は少なく、また医療費も比較的低額に抑えられます。ですが、治癒の可能性は著しく低まりますし、ほぼ間違いなく後遺症が残ります。完治の確率は二パーセント未満ですね」

 診察室の壁には、ありとあらゆる病気の患部を写した不気味な写真が貼り付けられていた。どれもこれも毒々しい色で刷られていて、まるでその病気の苦しみを強調するために撮影したようだったけれど、不思議なことに患者の顔は一枚も写っていなかった。写真の隅にはプライヴァシー保護のためとかなんとか小さな文字で書いてある。しかしどちらかというと、患者の顔なんか不要だと主張しているように思えた。

「次の方策としては、入院して長期療養、という手段があります。これは患者さんへの負担は最小です。専門の病院を紹介して差し上げますから、そちらへ入っていただき、ゆっくりと治します」

「どれぐらい時間はかかりますか」

「最短で五年、長ければ八年以上ですね。また、治療費もかなりかかります。さらにこの手法の場合、根治というよりはむしろ安全な状況で一旦完全に発病させ、その後、山を越えて終息させる、という形になります。つまり、行き着くところまで行かせてしまう、ということです。そうすれば、後は治る方にしか進みませんから。もちろんそのままになってしまって一生完治しないという可能性もある程度ありますが、とはいえ人体に対する悪影響は最小限に食い止められますので、私としてはこの方法がお勧めです」

「それでは……もう一つの方法は」
 母さんはすっかり怯えてしまって、おずおずと尋ねていた。
「もう一つの方法は、専門の病院に入院後、手術ですね。何だかんだ言って、最もスタンダードな手段です。手術の例は極めて多いですし、成功する確率も高いです」
「確実、ですか」
「百パーセント治る医療なんてないんですよ、お母さん」
 医者はあくまでも平板な顔で言った。

「医療費も一般家庭で払えない額ではありません。退院までの期間も……どんなに長引いても精々二ヶ月でしょう。完治の確率は、九十パーセント以上です」

 以上三つの方法がありますが、どれになさいますか、と医者は母さんに向かって言った。選択肢なんかないようなものだった。
 弟は浅黒い背中を晒したまま、動こうともしなかった。


2.
 家に帰ると、わたしはケータイからネットで翼人症候群について検索してみた。今までは名前ぐらいしか聞いたことがなかったし、周りにも患者を見かけたことはなかった。でもあの医者の説明からすると、もし患者がいたところで発病する前にたちまち三つの選択肢の中のどれかに放り込まれてしまうのだから、目に付きようがないのかも知れない。

 すぐにネット上の辞書サイトの記事を見つけた。

『翼人症候群』

 読んでみると、何年に最初の患者が発見されただとか何歳から何歳までの間に何千人に一人の確率で発症するだとか、要するにうちの弟とは全然関係のないことがだらだらと書き連ねてあった。下の方には発症後何年何ヶ月でどれくらいまで症状が進むか、ということがイラストで丁寧に解説してあって、そこをむしろわたしは熱心に読んだ。そこには、徐々に背中から大きな翼が生えていく姿が、綺麗なスケッチで描かれていた。ある段階までいくと、羽も生えるということだった。隅には、これは人類進化史上における一種の先祖返りなのかも知れない、という学者の説が引用してあったが、これもやはり弟には関係のないことだ。細かいところは結局よく分からなかったので、わたしはケータイを閉じた。

 そのままわたしは、ドサリとベッドへ背中から倒れ込んだ。そして少し考え、体を横に向ける。弟はこうして仰向けに眠ることすら出来ないのだから。白い壁紙を間近に見つめながら、わたしは自分が弟に何をしてやれるかについて考えた。

 弟が背中が痛い痛いと言いだしたのが大体一ヶ月前で、その頃にはすでに学生服を着るのも苦痛に感じていた。肩胛骨が硬い布地に擦れて痛いらしかった。母さんはおろおろとあっちこっちの病院を廻ったけれど、どこへいっても曖昧でいい加減な応えしか返ってこなかった。そして最後に正解が出たと思ったらあんなのだった。

 わたしは弟に何をしてやれるのか。今、父さんと母さんはリビングで医者から貰ってきたパンフレットを眺めている。安いと言っても、うちが払うには多少の借金が必要なぐらいの額だった。でも、確かに払えないほどではない。もちろんわたしもバイトぐらいのことはしてもいいけれど、そんなことをしたところで焼け石に水だろうとも思った。

 結局、わたしに出来るのは今日みたいに弟に付き添ってやって、何も出来ないバカみたいに横に突っ立っているぐらいしかなさそうだった。そんなこと、マネキンにだって出来る。

 つまらない。

 わたしはカバンの中から携帯ゲーム機を取りだして電源を入れた。ゲームの中では、世界的に有名なキャラクターが跳んだり撥ねたりしながら敵を踏んづけて、ラスボスを倒しに画面を左から右へ移動していた。これぐらいの分かりやすさがわたしにも欲しかった。わたしも画面の左から右へ飛び跳ねながら走っていって、最後に旗に飛びついてゴールインしたいのだ。お姫様を助けるなんて脳天気な目標はなくていいから、ひたすら走ってジャンプして敵を踏んづけて日々を過ごしていければいいと思う。そうすればいつの日かわたしもその功績が認められて、世界的なキャラクターになれるかも知れない。世界的なキャラクターになったら後は海外のリゾート地で悠々自適の生活を送るのだ。そしてその財力を使って片手間にひょいと弟の病気を治したりもする。

 そんな脈絡のない妄想をしながら、わたしはベッドの上でゲーム機のボタンを一切頭を使わずに押して、押して、彼を画面の左から右へと移動させた。


3.
 国内にはその病気を治せる施設は一箇所しかなかった。わたしと弟は会社を休んだ父さんの運転する車に乗って、高速道路を何時間も走り、その施設を見学に行くことにした。弟は出来る限り柔らかい素材の服を着て、椅子にもたれ掛からないよう気を付けながら座っていた。

「姉ちゃんさ」
 ふいに弟は口を開いた。
「いつになったら学校行くわけ?」

 答えられるくらいならとっくに行っている。わたしは何も言わなかった。

 わたしたちは田舎の閑散とした町を通り過ぎ、山道を登り、トンネルを一つくぐって、ようやく目的の施設へたどり着いた。施設には見上げるほどに大きな黒い鉄の門があり、その向こうには蔦や草に埋もれるようにして、昔の病院らしい陰険な建物が建っていた。重苦しさの残骸のような気配を感じた。時々のどかに鳥の鳴き声が聞こえた。

 建物内に入るなり、看護師さんに案内された父、弟、そしてわたしは、そのまま待合室に並んで座って大人しく待っていた。

 どうして病院の待合室というのは、こんなに器用に会話を封じる雰囲気をたたえているんだろうと思う。例えて言うなら、銃撃戦が始まる前の平穏に似ている気がした。数秒後には辺りに血まみれの死体が転がっている直前のような緊張感。そんな場所にいたことはないから、本当に似ているかどうかは分からないけれど。

 壁には、上手いのか下手なのか分からない抽象画が掛かっている。部屋の隅には古びた柱時計が置いてあり、カッチコッチといやらしい音を立てていた。わたしは弟の背中を見やる。その部分は、さすったら心地よさそうな形に膨らんでいた。わたしはそこを、ただじっと見つめていた。いつかここにも、羽が生えるのだろうか。そして一体弟の翼は、何色になるのだろうか。わたしは色々に想像した。

 でも。
 やっぱり銃撃戦の比喩は間違ってなかった。

 突然、外のどこかからわーという叫び声が聞こえた。

 何だろうとわたしたちは窓の外を向く。どこから聞こえてくるのかまるで分からない。わー、という男たちの叫び声、そっちだ、止めろ、という怒号、人が走り回る音。そんなあれこれが、どうやら上から響いてくる。施設の上の階で騒いでいるのかも知れない。

 続いてばたばたばた、と右へ左へ、人の一群が動く音が聞こえる。わたしと弟は気になって、席を立った。受付の中の看護師のお姉さんが、不安げな顔をしている。父さんは眉を顰めている。一階の受付前ロビーにはわたしたち四人の他は誰もいない。

 わたしと弟が外へ出ると、一層はっきりと騒ぎの音が聞こえた。ずっと上の階から、人の走る音が聞こえる。屋上かも知れない。ぱん、という発砲音も聞こえる。ほら、やっぱり銃撃戦だ。でも、どこから聞こえるのか分からない。施設の前庭は大振りな木々が生い茂っていて空は見えない。広がった枝葉の合間から安っぽいテレビドラマみたいに光が射し込んでいて、視界を塞いでいる。何も見えない。不意に怒声が止まる。何も聞こえなくなる。

 どこかでばさばさと、大きな翼が羽ばたく音が聞こえた。

 それからしばらくして、どん、という鈍い音と共に、地面が揺れた。

 わたしと弟は立ち止まったまま、動けずにいた。


4.
 弟が父さんと一緒に診察を受けている間、わたしは施設の食堂にいた。お昼前だったけれど、お客さんは誰も来ていなかった。さっきの騒動のせいかも知れない。患者さんを見てみたい気持ちがあったので、少し残念だった。食堂を見廻すと、机も椅子も天井も壁も病院らしく白で統一されていて、わたしはそこで一人、うどんをすすっていた。

 さっきの音が何だったのかは、受付の看護師さんも弟の担当のお医者さんも説明してくれなかった。二人とも外見上はにこやかに振る舞おうとしていたけれど、表情が引きつっていることぐらいは鈍いわたしにも分かった。施設の奥が騒然としている気配は待合室まで伝わっていたし、だから何も質問する気にはなれなかった。あの瞬間の記憶が繰り返し蘇る。巨大な鳥が羽ばたくような音がした。それから何かが落ちる音が聞こえた。

 わたしはうどんの汁を飲みながら、自分が想像していることが本当に起きたのかな、といい加減に考えていた。

 そのとき、自動ドアが開く音がした。わたしは何気なく顔を上げて、入ってきた人を見た。そうして、思わず失礼なくらい見入ってしまった。たぶんわたしは、間抜けな表情をしていただろう。

 そこには、背中に大きな翼を生やした男の子が立っていた。

 男の子と言ってもわたしと同い年、高校二年生ぐらいの痩せた子だった。ちょっと暗いすねた眼をしていて、わりかし綺麗な顔をしている。ただ、どっちかというと、自分でわざとそういうポーズを取っているように見えた。自分は今すごく憂鬱なんだぞ、と周りにアピールせずにはいられない、みたいな。中学のクラスの男子に、そんな子が何人かいた。

 残念なのは服装もだった。肩から背中に掛けて大きく開いた長袖シャツの、前を縦に切ってボタン留めにしている。見ようによってはコルセットみたいにも見えた。たぶん翼のせいで普通に頭から服を着られないので、あんなものを着るしかないのだろう。肩掛けのひもまで付いていて、それもボタンで留めてある。見ているだけでちょっと恥ずかしかった。

 でも、彼の背中に生えた白く大きな翼は、言葉が出なくなるほどに美しかった。邪魔にならないよう小さく閉じられたそれは、無数の豊かな白羽で上品に膨らんでいる。触って匂いを嗅いで、撫でまわしたくなった。彼自身の身体とは不釣り合いに大きくて重そうだったけど、でもその部分だけ、まるで古いヨーロッパの絵画みたいに暖かで、懐かしげな雰囲気をたたえていた。

 不意にその翼が、ばたばたと控えめに動いた。

 驚いて、わたしは彼の顔を見る。

 彼も、わたしの方を見ていた。

 ほんのちょっと疲れたような眼差しだったけれど、黒くて澄んでいて、やっぱり、綺麗な眼をしていた。


5.
 次にわたしが施設を訪れたのは、三日後のことだった。診察の結果、弟の手術は日取りも含めてあっさりと決まり、簡単な準備だけをしてから入院することになったのだ。それでわたしはまた、何の用もないのに勝手についていった。この日はちょうど日曜日だったので、父さんは会社を休まずに済んだ。

 今回は看護師さんに、施設を案内してもらうことになった。わたしたち家族は三人揃って、広い敷地の中をあちこち廻る。看護師さんは、こんな部屋もあります、こんな器具もあります、だから安心して入院してくださいね、ということを、感情のない笑顔を浮かべて説明してくれた。けれど、わたしたちはそれよりも、施設の中を当然のように歩き回っている、翼を生やした人たちにすっかり目を奪われていた。

 男の子も女の子もいたし、年齢は小学校高学年ぐらいから高校生ぐらいまでまちまちだった。みんな、この前のあの男の子と同じ変わった服を着ていて、普通に会話し、普通に本を読み、普通に生活している。結構にこやかに、平然と暮らしていた。

 たまに狭い場所を通り抜けるとき翼をぶつけそうになっても、みんな慣れたもので上手に避けている。

「長期療法の方も、短期で手術の方も、普段は同じ病棟でこうして同じように生活していただいています。落ち着いて静かに過ごすのが、何よりも大切なことですから」

 看護師さんは、笑顔のままでそう説明した。

 辺りにいる翼の子たちは、一人一人翼の色や模様が微妙に異なっていた。白、茶、黒を基にした柄が一番多かったけれど、まれに赤とか緑、青がほんのちょっとだけ羽に入っている子もいた。中には翼が真っ黒な人もいた。弟みたいにまだ翼が小さくて羽の生えてない子も、ちょくちょくいる。彼らは背中の皮膚がひどく突っ張っていて、歩きにくそうに見えた。

 そんな中、わたしはこの間の真っ白な翼の男の子を眼で捜していた。

 その後、看護師さんは弟と父さんを連れて入院の手続きと病室の支度に行ってしまったので、またしてもわたしは一人になった。仕方なくわたしは、施設の中庭を散策することにした。

 中庭は、ちょっとした植物園のようだった。程よく陽が射し込み、草葉や木や花が、雑然とする一歩手前で植えられている。他にもちっぽけな噴水や彫刻、蔦の絡んだ四阿もあった。やっぱりここも天国的だった。

 わたしはそんな中庭を歩く。周りの子たちはみんな当然、背中に翼を持っていた。美しかった。一方わたしは、センスのない安物のコーディネートで、すり切れたジーパンなんかを穿いている。ただ立っているだけでも惨めで、この翼人たちの世界を汚しているような気分になった。わたしだけ、後からコラージュされたみたいだ。中世の絵画にセロテープで貼り付けられた、週刊誌の切り抜きみたいなわたし。丈の高い草の間を掻き分けて、わたしは木々の側にまで寄った。

 そこに、例の彼がいるのを見つけた。

 彼は今日もつまらなそうな表情を浮かべていた。服装も、前に見たときとまるで変わらない。彼は近付いてくるわたしに気づくと、最初は少し驚き、それから次第に、呆れた目つきになった。

 わたしは彼から少し離れたところで、黙って軽く会釈した。

「……この前、食堂にいた人だよね」

 彼はそこで、初めて口を開いた。声変わりした後あまり喉を使っていないらしい、擦れた聞き取りづらい声色だった。わたしは頷いた。

「何しに来てるの?」

 彼が続けてそう尋ねてきたので、弟が入院することになったから付き添いで来た、とだけ応えた。ふうん、と彼は大して興味なさそうに頷く。わたしのことを彼が憶えていただけでも、意外だった。

 わたしは口を開く。

「ハヤカワ・ユカといいます」
「おれはヤモト・ユウ。弟の名前は?」
「コータ」
「手術はいつって?」
「来週の日曜日って。弟、すごく怖がってます。あの、よかったら……慰めてやってくれませんか?」
「どうして? 自分で言ったらいいじゃん」

 彼は微かに翼を揺らすと、首を傾げてそう言った。どういう感情の時に翼が動くのだろう、とわたしは想像する。犬のしっぽみたいなものだろうか。

 わたしは応えた。

「……わたしの言うことは、弟は聞いてくれないので」
「へえ。どうして?」
「バカにされているから」

 それは本当のことだった。いや、正確には軽視されているとか、諦められていると言った方が適切だろう。そしてそれは弟だけのことではなかった。
 父さんも母さんも、家族総出でわたしのことを諦めていた。わたしがいつ、どんなことをしようと無視される。いないのと同じだ。わたしに、発言権などない。

 彼は、ちょっと変な顔をした。
「じゃあ何で今日ついてきたのさ」
「家にいても、することがないので……」
 そんな答えしか、思い浮かばなかった。

 彼は小さく溜息を吐いた。
「あっちにベンチがあるから、そこで話そうか」


6.
 彼に導かれるまま中庭を歩いた先には、背もたれのない小振りなベンチがあった。木製で、手触りがよい。わたしと彼は、そこに腰を下ろす。陽のよく当たる、過ごしやすい場所だった。

 周りにはいろんな年頃の男の子や女の子がいて、わたしをちらちら見ては去っていった。翼のないわたしが、よほど異常で奇妙な存在のようだった。

「この『病気』の治療法の話って、聞いた?」

 彼は言った。わたしは頷く。

「いちおう」
「三つの方法がある。在宅と長期入院と、手術。この辺にいるおれぐらいの翼を持った奴らは、ほぼみんな長期入院療法。ここに何年も閉じこめられて、何にも出来ないまま十代を終える、かわいそうなだろ」

 彼は疲れた目つきのまま、そう話した。

「でも、ほとんどの子は手術で済ませるよ。おれはここに入って四年ちょっとになるけど、手術による短期治療が失敗したなんて話は一度も聞いたことない。みんな手術の後、二週間もすれば無事に退院してく。だから怖がる必要なんてない」

 淡々と話す彼の視線の先には、張り出した木の枝があった。そこには、一羽の小鳥が留まっておどおどと辺りを見廻していた。
 彼は続ける。

「そう弟に伝えればいいんじゃないかな」
「でもたぶん、わたしが言ったら信じてくれないので」

 わたしは俯いて応えた。いつだってそうだ。わたしが中学校に通っていた頃も、いや、小学生の時ですら、わたしの言うことをまともに信じてくれた人なんて一人もいなかった。実際不思議なくらいだった。どうやら、わたしが発言すると、どんな事実でもまるで嘘のように聞こえるらしい。

 ユウくんは深々と溜息を漏らすと、さらに話を続けた。

「というか……治らない人なんてほとんどいないんだよ。医者は脅かしてるだけ。長期療養って言うけど、おれらだってここで安定した状態で放っておかれているようなもんなんだから。多少のケアはしてもらえるけど、それだけ。収容所みたいなもんだよ。街中に翼付けた人間がうろうろしてたら迷惑だから、ここに入れられてんの。大半の人間は、処置しようがしまいが、そのうち自然と『解脱』するんだ」
「解脱?」
「翼が取れること」

 かさぶたがなくなるみたいに翼が取れる日がそのうち来るんだ、ここはそれを待つための施設、と彼は一息に言ってのけた。

「だから普通なら、よっぽどの手違いがなければ翼は取れる」
「よっぽどの手違いがあると、どうなるんですか?」

 そこでわたしは本当に何気なく、そう尋ねた。
 さっきから彼の言葉には、端々にやたらと条件が付いていて気になったのだ。「ほとんどは」「大半は」「普通なら」。だったら、その例外はどうなるというのだろう。
 彼はわたしの言葉を聞いて、わずかに苦い表情を浮かべた。

「……マコトみたいになる」
「マコト?」
「こないだここに来たとき聴いただろ? あの大きな音。あれは、マコトが墜ちた音だ」

 ユウくんは正面を向いたまま、そう言った。わたしは身を固くする。
 あの時聴いた鈍く重い音が、耳に蘇る。

「……マコトは、おれと同じ長期入院療法だったんだけど、この間から『最終段階』に入ってた。『最終段階』っていうのはつまり、翼が最大化して羽も生えそろって、身体的な変化が完全な状態になると、次のステップとして、心が変化することをいうんだ。医学的には、翼の形成過程で出来た副産物が脳神経系に作用して思考力・判断力の低下を引き起こす、ってことらしい」

「……」

「すると、『ひょっとしたら自分は翼を使えば空へ飛び立てるんじゃないか』という気持ちになってしまう。これを専門用語では『離陸妄想』って呼ぶ。結果として何も考えず、何も見ず、その場から走り出して、高い場所から空へ向けて飛び立つ。でももちろん人間の体は本来翼で飛べるようには出来ていないから、少しの間くらいは滞空できるかも知れないけれど、たちまち墜ちて、死ぬ」

 ユウくんは大した感情も交えず、そんな話をした。

「とにかく翼人症候群は、そういう『異常』を引き起こすから、『最終段階』に入るとその間は専用病棟の病室の中に完全に閉じ込めて、場合によっては拘束着とかを着せて、一切動けない状態にするんだよ。そうして乗り切る。その間は尋常じゃない苦しみがあるらしくて、たまにここではその段階に至った患者の叫び声が、病棟から響いてくることもある」

 ――でも、ごく稀にそんな拘束に失敗すると、患者は飛び立つ。

 そしてマコトはそれだったんだ、とユウくんは相変わらずつまらなそうに言った。わたしに言えることなど何もなかった。

「……ヤモトくんもいつか、そうなるんですか? その、『最終段階』に」

 わたしが恐る恐る尋ねると、ユウくんは億劫そうに空を見上げた。

「もうすぐだよ。じきに、自分ではろくに物事の判断が出来なくなる。空を飛びたくて飛びたくて、仕方なくなるんだと思う。正直今だって、そういう気持ちがない訳じゃない。この使い道がなくてバカでかい、重たくて肩が凝るだけの翼を背負ってると、ばさばさコイツを動かしてここから一気に飛び立ってしまいたいなー、と思うことはよくある。だから最近、この中庭に入り浸ってるんだよ。思う存分空を見られるのは、ここだけだから」

 あっさりそんなことを言って小さく翼を揺らすと、ユウくんはそっと目を瞑った。睫毛の長い眼だった。
 長期入院なんてお金持ちにしかできない贅沢なのだろうとばかり思っていたけど、そんなのんびりしてばかりのものではないらしかった。わたしがそんな感想を漏らすと、ユウくんは応えた。

「要は態のいい厄介払いなんだ。家にこんな変な格好をしたヤツがいると、仕事に何かと差し障りがあるから。それでここに放り込まれただけ」

 そうして、ユウくんはベンチから立ち上がった。

「苦しみが小さくて済む分、手術を受ける方が幸福だと思う。君の弟と話す機会があったら伝えてやるよ。だから、安心して帰ったらいいんじゃないか」

 彼はそう言うと、軟らかな土をサンダルで踏みしめて、屋内へと去っていった。わたしは一人、ベンチに残されていた。

「……また、来てもいいですか?」

 そこでわたしは少し、大きな声を出して彼の後ろ姿に尋ねた。彼は振り返ると、肩をすくめた。

「好きにすれば」

 その瞬間の彼の表情と、それから一緒に揺れる大きな真っ白な翼の影が、目に焼き付くようにして記憶に残った。


7.
『……翼人症候群は、長らく世界各地で差別的な扱いを受けてきた。これは無論第一に、外見上の理由が大きい。

 現代の患者のように栄養状態がよくない時代の人々は、うまく翼が育たず、形が歪んでしまいがちであったため、怪物と見なされることが非常に多かった。宗教によっては、問答無用で殺害され、あるいは地下牢に幽閉されることもあった。加えて、翼は毛穴から脂質が噴き出しやすいため、かなり清潔に扱わなければ、汚れて臭気を発してしまう。こうした事情から、患者たちは世界中どこであっても、よい処遇は望めなかった。

 ようやく彼らが人間的な扱いをされるようになったのは、十九世紀半ばのヨーロッパにおいてである。その頃には、患者を単に自由に解放すればよい、という短絡的な考えが主流であった。それゆえ、多くの患者たちが無思慮に解き放たれた挙げ句、「飛び立ち」、そして命を落とす羽目になったと伝えられる。しかし少なくとも、人間らしく生きることが可能となった。欧米ではその後、実効性の高い手術法や治療法が確立され、法律面でも擁護され、今では差別もほぼ、なくなりつつある』

 わたしはそこまで読んで本を置くと、顔を上げて喫茶店の壁を見た。視線の先には不機嫌そうな若者の写っている、古い映画のポスターが貼られていた。きっと、何かが不満で仕方なかったのだろう。

 図書館から借りてきた、翼人症候群についての一昔前の本を読んでいて、気づいたらもう一時間近くが経っている。普段ベストセラー小説ぐらいしか読まないわたしにしては、ずいぶん集中力が続いていた。もちろん内容も面白かった。専門のお医者さんが翼人症候群の歴史について丹念に追っている本で、治療法も丁寧に書かれていた。おかげで、ずいぶん安心できた。どうやら弟は、無事に退院できそうだった。

 またページを捲る。

『しかしながら、差別がなくなった今、患者に対する「期待」が、新たな問題となりつつある。年若い少年少女が翼を生やした姿に、人びとは過度な願望、夢を投影するようになったのだ。彼らに向けられる視線の全ては、彼らが「善き者」、美しく、儚く、優しい、善の体現者であることを望むようになった。

 先程も述べたように、翼人症候群は必ずしも美しい容姿を産み出す病ではない。元々身体の形成異常なのだから、鳥のようにしなやかな形になるとは限らず、むしろ醜くなる可能性も高い。翼だけでなく、身体の他の部分にも影響を及ぼす場合がままある。施設においても、出歩いている患者はごく一部である。自分の姿を人前に晒さないため、病室から一歩も出ない子も大勢いる。

 また、この病気を罹患するのは思春期の少年少女たちである。そもそも彼らがただ美しいだけの存在であるはずがなく、内面的にも外面的にも不安定というのが常である。そんな子たちに、美しくあること、善であることを一方的に期待すること自体、当然無理があろう。しかもこの年頃の子たちは、ただ期待されるだけでも、耐えられないほどの苦痛を感じるのだ。その上にこの、元々厄介な病が重なる。精神状態は少なからず症状に影響を与えるため、何もしていなくとも激しいストレスを感じて症状が悪化した子が、世界的に大勢現れるようになった。

 そして、もう一つの深刻な問題として、近年の患者の急増がある』

「……ねー、ユカじゃない?」

 いきなり本の向こうから甲高い声で話しかけられて、わたしは慌てて顔を上げた。目の前には、憶えのない女の子の顔があった。

「あ、やっぱユカだー。やっほー、ひさしぶりー」

 その子はいやに親しげに喋りながら、わたしの向かいの席に勝手に腰を下ろした。そしてテーブルに肘をつき、ニコニコ真っ直ぐわたしを眺めている。

「二年ぶりくらいかなー。最近何してるー?」
「……」

 わたしは何も応えられなかった。顔も声も、全く記憶にない。
 すると彼女は苦笑して言った。

「え、なにー、あたし忘れちゃった? ひどくない? 中学んとき、ちょーいっしょに遊んだじゃん。■■■だよ」

 彼女はさらりと名乗ったけれど、困惑していたわたしはうっかり聞き損ねてしまった。そんなわたしには何も気づかない様子で、彼女は勝手に話を続ける。

「あ、そーだ。うちとリッちゃん、いっしょに×高行ったじゃん? ××高校。したらさー、リッちゃん速攻でカレシ作って。リッちゃんはカッコイイって言うんだけどさ、どー見てもオタクなの! メガネとか髪型とかキモいし、ちょーウケんだけど」

 当たり前のように彼女は口早に話している。でも、わたしは「リッちゃん」が誰なのかすら思い出せない。そんなものなのだ。中学の女子なんて何だかよく分からないけれどやたらたむろって一緒に行動しているもので、返事も会話もその場の流れだけで何となく済ませてしまう。そこに誰がいて誰と話したかなんて、何も憶えていない。

「あ、でも、ふっきーは今マジガリッてるって。ガリ勉。△高って進学校じゃん? だから勉強して、資格取ったり就職の準備すんだって。もちろん大学も行くんだけど。マジありえなくない? 引くよねー。あたし遊んでばっか。カラオケ行きすぎて、ちょーノド荒れてる。ねー、ユカっち何してんの? 何、コレ、本? むずそー。最近何してる?」

 そんな風に、正面で矢継ぎ早に話す彼女の顔は、どこまでも裏表がなさそうだった。悪意も曇りも何もない目つきで、わたしを見ている。でもそれが、わたしにはどうしようもなく恐ろしかった。何を考えているのか、何を言いたいのか、向き合っていてもまるで分からない。こんな答えようもないことを訊いて、どうしたいのかも分からない。

 最近何してる、と尋ねられても、一体何をしていたのか自分でも全く思い出せなかった。ぼうっとしていた、という記憶すら、ほとんどない。気づいたら無意味に時間が過ぎていて、わたしはその流れの真ん中に一人で立ちつくしていた。

 高校に行かなくなってから、一年以上が経つ。退学になっているのかどうかもはっきりしない。親も、何も言わない。わたしは放り出されている。そんな中でふらふらして、たまに弟の心配をしてみる。

「弟が……入院して」

 思いついて、わたしはぽつりとそう答えた。すると彼女は、過剰なまでに反応してくれた。

「えー! マジで! それヤバくない? きっついよねー。うちもさー、前にお母さんが入院してさー、そんとき大変だったもん。あのね、本とか持ってってあげた方がいーよ。ちょーヒマなんだって。雑誌とかさ」

 そんな調子で、彼女は間髪入れず話し続けた。わたしは黙って、彼女の言葉を聞き続けた。

 そうして彼女の言葉の渦に呑まれていると、次第に自分が逃げ出した中学、高校の頃のあのやたらにぎやかなばかりのべったりとした人間関係が思い出されて、またそのクモの巣のような力に絡め取られそうになった。


8.
 何もせず本を読み、だらだら過ごしているうちに数日が過ぎていき、弟の手術の日になった。父さんと母さんは心配なので立ち会いに行くと言い、自然とわたしも、付いていくことになる。

 施設に着いて、父さんと母さんは担当医に案内され、わたしを置いてさっさと弟の病室へ行ってしまった。残されたわたしは、一人施設の中をさまよい歩いていた。今日は薄曇りで、窓からはあまり陽も射していない。すると、廊下の途中に「図書室」と札の下がった部屋を見つけた。わたしはそこに入る。

 本棚の合間をあちらこちら覗き込みながら、ちょっと埃っぽい図書室を見てまわった。普通の図書館よりも、棚と棚との間がずいぶん広く開けられていた。翼がぶつからないようにするためだろう。並んでいるのは、古い文学書ばかりだった。背表紙の文字を確かめつつ歩いていくと、その突き当たりには、読書用の席が設けられていた。白っぽいソファがいくつか置いてある。

 そこに、ユウくんが座っていた。

「……何してんの」
 相変わらずの呆れ顔で、彼はこちらを見ていた。わたしは肩をすくめた。
「弟が、今日手術だから」
「それは知ってる。じゃなくて、君がここで今何してるの、って訊いてんの。弟に付き添わなくていいの?」
「もうちょっとしたら行くつもり」

 わたしは小声で応えた。彼の持っている薄い文庫本を見ると、表紙には『シェイクスピア・ソネット集』と書いてあった。どんな内容なのか、想像もつかない。彼はかすかに翼を動かすと、左手で隣の席を勧めた。

「座れば」

 言われたとおり、わたしは腰を下ろす。背もたれのないソファなので、少し座りにくかった。時折、視線の隅に、大きな翼を生やした男の子や女の子たちが通り過ぎていった。図書室はとても静かだった。

「……あの後、コータとは色々話したよ。よく聞き入れてくれた。落ち着いた、いい子だった」
「ありがとう」
「でもあいつ、何で君の話聞いてくれないの?」
「さあ……」

 わたしは俯いたまま、そう呟いた。いつの頃からこうなったのかも、よく憶えていない。けれどたぶん、わたしが悪いのだろう。
 話が続かず、沈黙が広がる。

「……ああそうだ。マコトのことって、外で報道とかされてたか?」
「マコト?」

 唐突に彼にそう言われて誰のことか思い出せず、わたしは首を傾げる。彼は苦い顔で続けた。

「マコトだよ。屋上から飛び立って死んだ。ニュースで流れたりしたか?」
「あ……うん。結構何回か見かけたし、ネットのニュースにも出てたけど、割とすぐに聞かなくなったかな」
「死亡理由は何だって言ってた?」
「理由? 普通に、事故って……」

 そう応えると、ユウくんはやっぱりそうか、とだけ呟いて、また俯いた。わたしは首を傾げる。

 マコトくんの事件は、民放の夕方のニュース番組でも数回取り上げられていた。けれど、扱いはごくあっさりしたものだった。色々事情もあって、大々的には報道しづらいのかも知れない。彼の名前はもちろん出ず、ここの近辺の風景が雰囲気程度に映されて、管理責任を巡り、院長を何とかかんとか、と言っておしまいだ。一通りの話が終わると、すぐに次のニュースへ移っていった。マコトくんと彼の友人たちの間に起きた大事件は、そんな手続きを経てたちまち無数にあるその日のニュースの群の中の一つと化して、みんなに忘れ去られていったようだった。

「どうかした? 事故じゃないの?」

 わたしが訊くと、彼はちらりと周囲を見廻した。そして、ソファから腰を上げて言った。

「じゃあ……歩きながら話そうか」

 そのまま彼は本棚の方へ真っ直ぐに向かうと、シェイクスピアの本を戻して、あっさり図書室から出て行こうとした。わたしは慌てて、その後を追った。

 患者の行き交う廊下を黙って歩く彼は、まるで翼をそびやかしているかのように見えた。当然、そんなつもりは彼にはないのだろう。背中にあんな大きなものが付いていれば、重さの関係で胸を張らざるを得ない。
 けれど、あまりに大きなその翼は彼の身体を必要以上に大きく見せていて、それが却って、彼の負担になっているようにも感じられた。

「……大体、そんな事故ってあり得るか、と思って」
「え?」

 前置きもなく彼が話し出したので、わたしは聞き返した。
 わたしたちは一階の廊下を抜け、階段を上り、長期療養の患者の病室がある棟へと、足を踏み入れていた。白いまっさらなドアが、いくつもいくつも並んでいる。次第に看護師と多くすれ違うようになってくる。
 無表情のまま、ユウくんは呟く。

「最終段階に近付いた患者って、窓が一つもない専用の病棟に押し込められて、そこで症状が寛解期に達するのを待つだけなんだ。室内で拘束されて、ドアには鍵を掛けられて……後は万一外へ出ても飛び立ったりしないよう、病棟の出入り口にも鍵を掛ければ、閉じこめるのは簡単なはずだろ? 大体この施設は何十年も翼人症候群の患者を診てきているんだから、ひょいひょい取り逃がしたりしてたら、とっくに問題になってるはずなんだよ」

 小さめの声で話しながら、ユウくんは手近なドアを開いて、中へ入っていった。わたしも恐る恐る後に続く。

 そして部屋の中を覗き込み、わたしはすっかり驚いてしまった。病室はまるで、どこかのホテルの一室のような、小綺麗な造りになっているのだ。本棚や大型のディスプレイ、応接用のちょっとしたソファまで置いてある。もちろん個室だった。

「そこ、座って」

 彼に言われるまま、わたしはそのソファに腰を下ろした。彼も真向かいに座る。そして、顎に手を当てると、むっつりした表情で考え始めた。わたしは黙って、彼の言葉を待つ。

「……なのに、マコトの件については扱いが簡単すぎる気がするんだよ。普通だったら、想定外の事態だってもっと大騒ぎして、警備を厳重にしたり、システムを整備したりするもんじゃないのか? いや、そこまでする気がなかったとしても、せめてポーズとしてそれぐらいやらないと、色々世間的にマズいと思うんだ」

「ユウくんは、マコトくんと仲良かったの?」
 わたしは何となく、そう尋ねた。彼は顔を上げる。
「話さなかったっけ? 俺とアイツは、ちょうど同じ時期にここへ入院したんだよ。手術の患者は年に何人も入ってくるけど、長期療法はあんまりいないから。同時期に入院するってすごく珍しくて、だから仲良くなったんだ。ここへ来て四年ぐらいの間、ずっと一緒に過ごした」
「そう……」

 わたしはそう言ったきり、何も慰めの言葉もかけなかった。こういう時、気の利いたことを言うのがとても苦手なのだ。

「……どんな人だったの?」
「マコト? うん……俺よりはずっと、溌剌(はつらつ)とした感じだった。まっとうというか、ちゃんとしてるというか。要するに、いいヤツだったよ。ここでも友だちが多かったし。だから俺以外のヤツには、アイツが死んで落ちこんでるヤツが、まだ大勢いる」

「ユウくんは落ちこまなかったの?」
「……よく、分からない。落ちこんでるのかも知れない。自分でも、自分の気持ちがはっきりしない。アイツが死んだってことが、未だにピンと来てないんだ」

 ユウくんは、そんな自分の感情が罪であるかのように呟いた。でも、実際そういうものだと思う。映画やドラマじゃないんだから、身近な人が亡くなったからといって、すぐに泣き叫んで嘆くことが出来る人なんて、そうはいない。

 現実には、誰かが死んだ後も何となく日常が過ぎていって、そしてふとした瞬間、その誰かがいないことに気づいたらやっと初めて、虚しさに襲われるぐらいのものだ。わたしが唯一親戚筋で仲のよかった父方のおじいちゃんが亡くなったときも、そうだった。葬式で悲しんでいる素振りすら見せられなかったので、わたしは周りから、変な目で見られたものだった。

 わたしは話を戻そうと、こう尋ねた。
「事故じゃないとしたら、何なの?」
「……分からない。二通り考えられると思う。誰かが病室の扉を開け放して、アイツを意図的に外へ出したか、それか、アイツ自身が何らかの方法を使って自分の意思で扉を開けて出ていったか。単純な事故だ、っていうのが、納得できないだけ」

「自殺か……他殺?」
「他殺というか、事故を誘発した人間がいる、というか」
「そんなドラマみたいなことって、現実にあるの?」
「……なくは、ないよ」

 ユウくんは意味深に言った。

「何にしろ、少しぐらいはそういう可能性を疑ってもいいはずだろ? なのに、警察はあの日の後ろくに捜査に来る様子もないんだ。だから違和感があるっていう、ただそれだけの話だよ。疑ったって確かめようがないことなんだけど。でもこんなこと、ここで他の誰かに話したら変な目で見られるだけだから」

 そう言ってユウくんは、口を噤んだ。
 わたしはそんな彼の顔を、ぼんやりと見つめる。彼は眼を細めて、どこかここじゃない遠くの方へ視線を向けていて、時折その長い睫毛が、小さく震えていた。


9.
「……弟のとこ、行かなくていいの?」

 不意に思い出したように、ユウくんはわたしに言った。我に返ったわたしは、慌ててソファから腰を上げる。すると彼は言った。

「つれてってやるよ。場所、分からないだろ?」

 ユウくんも立ち上がると、また先に病室の戸口へ向かった。わたしもその後を、足をもつれさせながらついていった。

 わたしたちはしばらく黙って、廊下を手術室に向かって歩いた。たまに車椅子に乗った患者さんや、疲れ切った表情の保護者らしい人たちとすれ違う。みんな暗く、どんよりとした空気をまとっていた。

 そう、きっと中庭の辺りまで出てくるだけの元気がない人も大勢いて、そういう人たちは、病室のあるこの棟にずっといるのだろう。いや、むしろ彼らの方が多数なのだ。ただ、彼らは目に付かないから、気づかれていないだけだ。

 ユウくんはまた、ぼそりと呟いた。

「……『天使の家』事件って、知ってる?」

 わたしは彼の背に揺れる美しい翼に気を取られながら、聞き返した。

「え?」
「三十五年ぐらい前に起きた、翼人症候群についての事件。たぶん、表だっては資料とかもあんまり残ってないと思うけど。大変なことが起きたんだ。この病気のことって、どれぐらい知ってる? 調べたりした?」
「ネットとか、市立図書館に入ってる本とかは読んだけど……」
「じゃあ、ざっくりしたところは知ってるか。ある時期から患者が急増したっていう話は?」
「見た憶えがある」

「……『天使の家』っていうのは、昔全国に数カ所あった、ここみたいな翼人症候群の治療施設の名前。今ではもう、誰も呼ばなくなったけど。元々この病気の患者は、差別的な扱いを受けていたんだ。それに対して、患者とその保護者の団体が結成されて、差別撤廃運動が行われたんだよ。それが今から、四十年ぐらい前のこと。『天使の会』っていう名前で、患者同士の親睦会もやっていたらしい。

 当時は海外に行かないと治療が受けられない状況で、それを何とか打開するために、彼らはいろんな手を打った。その努力は最終的に実を結び、この国にもここを初めとして、いくつかの施設が出来た。差別の眼差しは弱まり、患者は格段に暮らしやすくなった」

「へぇ……」
 わたしと彼は病室棟を過ぎ、となりの棟に移る。床が理科室や手術室みたいな、緑のリノリウム張りになる。漂う匂いも少し変わってくる。鼻をつく、強い消毒薬の匂いだ。

「それで終わればよかったんだけど……その後の活動が、少しマズかったんだよな」
「マズかった?」

「活動を続けていくうち、『プロモーター』みたいなヤツらが、どこからともなく湧いて現れたんだよ。何ていうか、ビジネスマンめいた、偉そうな連中。仕事と金儲けのためならどれだけ他人を傷つけても構わない、むしろそれこそが立派だと思いこんでるような、下らないヤツら。保護者たちは、そいつらに唆された。『プロモーター』は、患者である子供たちを広告塔に仕立て上げようとしたんだ。

『今以上に子どもたちの立場をよくするためには、幅広い層へ向けて宣伝活動に打って出なければといけませんよ』とか何とか、調子のいいことをいい加減に言って。そして、患者の中でも特に見た目のいい子を選りすぐって、身形を整え、翼を美しく繕って、マスコミの前に立たせた。つまりそれによって彼らは、翼人症候群の患者は『美しいのだ』、とラベルを貼り替えようとした」

「それは、前に本で読んだ気がする。患者にとってはそれが、すごくストレスになるって」

「ストレスだけならよかったんだけど。とにかく、そうして『天使の会』は患者を人前に立たせて、より病気のイメージを善くしようとした。いくつかの週刊誌は、グラビアで特集を組んだりもした。当時は大変な騒がれようだったらしい。患者の中には、アイドルのように持ち上げられた女の子もいた。その写真の中の子たちは、どう見てもまさしく天使そのものだったからだ。

 著名なカメラマンを担ぎ上げ、写真集まで発売された。それはやっぱり盛大に売れた。患者を題材にして、アイドルが主演した映画も作られた。下らない作品だったけど、これもまたヒットした。結果として、『天使の会』には莫大な額の寄付金が集まった」

 わたしは想像する。思春期独特のどこを見つめるでもない眼差しをカメラに向けて、静かに佇む翼を生やした女の子の姿。奇跡のような一枚。
 誰もが思わず、心を揺さぶられる。

「まあその結果、いっそう差別的な眼がなくなったのも事実なんだ。保護政策も振興されて、ますます患者にとっては暮らしやすい世の中になった。一人一人の患者が、それまでとは比較にならないほど手厚い処置を受けられるようになった。代償として、いつどこへ行っても汚れのない、純真な存在として生きなければならなくなったけど」

 ユウくんは独特の皮肉っぽい調子で話す。
 わたしたちは、手術棟の薄暗い三階にたどり着いた。廊下の突き当たりには、弟のいる手術室があった。

「でも、問題はそれだけじゃなかった。それが……患者の急増だった」

 ユウくんはそう言うと、手術室からかなり離れたところで、脚を止めた。向こうの方には、父さんと母さんの姿が小さく見えた。「手術中」のランプが光る扉の前で、気を揉みながら待っている様子だった。

 わたしもそこで立ち止まると、小声で尋ねた。

「増えたって、どういうことなの?」

「『天使の会』の活動、マスコミでの大々的な報道の後で、明らかに翼人症候群の患者の数が増えたんだよ。それも飛躍的に。原因は、未だによく分かっていない。そもそもこの病気自体の要因も、明確にはなっていないんだけど。そこいら中の学校から、一斉に翼人症候群の患者が現れだしたんだ。そしてその誰もが、確かな症状を持った、本物の患者だった。誰もが激しく苦しみ、場合によっては、以前からの患者よりも深刻な症状を持つ子だっていたらしい。ここら辺からこの病気を、単純に遺伝性のものとしていた古い議論に疑問が上がりだしたそうなんだけど……まあ、それはいいか。

『会』も施設も、これには慌てた。欧米での研究による人口あたりの発生件数とは、露骨に掛け離れた数の子供たちが、突発的に背中に翼を生やし始めたんだから。知っての通り、この病気は手術にも治療にもそれなりに金と時間がかかる。たちまち、『会』が作り上げた手厚い患者保護の仕組みはパンクし出した。

 でもだからといって、これまでやって来たことをいきなり否定するわけにはいかない。なんとかこれまでと同じように運営していこうとして、『会』の組織はますます肥大化していった。大体、初期メンバーの一部はまだ患者でもあるわけだから。手厚くなった保護を、今さらなかったことになんか出来るわけがない。

 患者のための施設はさらに各地に作られ、寄付金もそれまでの額では足りなくなって、財界にも援助を求め出す。初めのうちは、世間もそういう要求に応じていたけれど、次第に飽き始めた。その頃にはもう、ブームは去っていたんだ。写真集は売れなくなり、雑誌や新聞も特集を組まなくなっていった。そりゃそうだよな。話題としては、それほどポテンシャルの高いものじゃないから。一通りの扱いが終わったら、もう話のネタにはならない。こうして熱が冷めるにつれて、『会』は活動に余裕がなくなり、いっそう貧しくなっていく。患者の中でも金持ちとそうでない人との間で、格差が広がり出す。これは、今でもそうだけど……

 各地に作られた施設は次々に破綻を来していった。手術のスケジュールは延期、延期を重ね、そして延期すればするほど翼が育っていくから、余計に状況は悪化する。患者たちの姿を美しく保っておく余裕なんか、もうとっくに失われていた。そんな理由もあって、今さら施設以外の場所へ患者を移すことなんて出来ない。狭い施設の中に翼を縮めて押し込められた患者たちは、以前よりもずっと居場所を奪われて、悲惨な扱いを受け、どうすることも出来なくなっていった」

「それで、最後にはどうなったの?」

「死んだ」

「え?」
 わたしは思わず聞き返した。

 ユウくんは、この上なく無表情に佇んでいる。
「みんな、飛び立ったんだ。ほぼ同時期、二週間ほどの間に、連鎖的に。大体同じ頃に発症したんだから、そうなるのが当然だよな。施設自体が運営能力を失っていて、手術不能になった結果、症状の最終段階が近づいていても、患者を拘束することは出来なくなっていた。

 放置された患者たちは、自分を抑えることも出来ず、ある段階に入ると行く先も見極めずに走り出して、高い所へ駆け上り、そして翼を広げて、飛び立った。そんな姿を見ると、感染したかのように、他の患者たちも駆け出した。こうしておよそ二週間のうちに、全国で二千人近い少年少女が、ビルや崖から落ちて命を失った。

 結果、『会』の関係者は管理責任を問われて逮捕され、同時に莫大な損害賠償請求によって、『天使の会』は解散に追い込まれた。施設も次々と閉鎖され、残された数少ない患者たちは、白い目で見られながら、退去を余儀なくされる。唯一国からの援助を受けて、必要最小限の場として残されたのがここだ。ここが最後の『天使の家』。

 こうして、『天使の会』の活動は、曖昧な患者の理想像と、患者団体の悪辣で危険な印象と、そしてこの、小さな施設を残した。一番何もやっていないのに一番深刻な影響を受けたのは、患者たちだった」

 これが、「天使の家」事件、とユウくんは話を終えた。
 わたしは顔を顰めると、彼に向かって言う。

「……どうしてそんな話をするの?」
「別に。ただの話題。昔話。大した意味はない。外部ではこの話はタブー視されて、ほとんど伝わってないはずだから、教えてあげただけだ。ここの中には資料も残ってるし、みんなも一通りの話は知ってる。何か読みたかったら、さっきの図書室に行けばいい。でも、知っておいて悪いことはないと思うよ」

 それに、マコトのことを考える上では、この事件のことも必要だと思って、と彼は肩をすくめると、わたしと目を合わせる。

「……知りたくなかった?」
「そんなことはないけど。でも、知らなくてもよかったことだと思う」
「そうかな」
 ユウくんは首を傾げた。

 一方、わたしは珍しく、不快な気持ちになっていた。知ったところでわたしにはどうすることも出来ないし、頭に残ったものはといえば、続々と空に飛び立っては死んでいく翼を持った子たちの、ぼんやりとしたイメージぐらいだった。けれどユウくんは、わたしがそんな気分になっているなんてまるで知ったことじゃないらしく、平然と立ちつくしている。一体どういうつもりで彼はこんな話をしたのだろう、と思った。

 それからユウくんは、奥の手術室をちらりと見ると、手術は十時間ぐらい掛かるから、お父さんお母さんのそばにいてあげた方がいいよ、とすごくクールに言って、そしてまたちょっとだけ、翼を動かしてみせた。


10.
 ユウくんの言ったとおり、弟の手術は大した問題もなく無事に終わった。そして二週間後には、何事もなかったかのように退院することになった。

 手術後の弟は、これまで取り憑いていたものが落ちたかのようにこざっぱりしていた。数日は背中の痛みが残っていたみたいだけど、それがなくなったら途端に食欲が旺盛になって、あれを食べたいこれを食べたいと母さんを困らせていた。困るといっても、母さんだって苦笑半分、喜び半分といったところだったけれど。弟の話に、ハイハイと機嫌良く応対していた。

 娘がどうしようもない分、父さんも母さんも昔から、弟のことばかりを心から可愛がり、愛しているのだ。だから二人とも、弟の病気が分かった時には、もう目も当てられないくらいに落ちこんでいたものだった。

「わたしが病気に罹った方がよかった?」

 いつだったか、弟が入院した後に、家で母さんに訊いてみたことがある。母さんは服にアイロンを当てながら、こちらを振り返りもせずに応えた。

「別に」

 ここ半年ぐらいで唯一の、まともな会話だと思う。でも、わたしじゃなくてよかったと思う。わたしだったら治療するのも億劫だし、何かと手間がかかるし、お金を出す気にもならないし、かといって、放っておく訳にもいかない。一番面倒くさいだろう。

 手術の後三日ぐらい経って、わたしもまた父さんたちについて、弟のお見舞いに行った。その日は天気もよく、心地よい風が吹いて、施設周りの森からは鳥の朗らかな鳴き声が聞こえてくるぐらいの、のどかな休日だった。

「あれ、姉ちゃん?」

 ベッドで身体を起こした弟がずいぶん気さくに話しかけてくるので、わたしは何だか拍子抜けしてしてしまった。父さんと母さんは弟に近寄ると、何かごちゃごちゃと事務的なことを話しかけている。弟の身体の向こうには窓が開いていて、真っ白なカーテンが靡いて揺れていた。その外には、大きく枝葉を広げた樹木があった。

 包帯が厚く巻かれた弟の背中には、翼の跡すら見あたらなかった。

 わたしが病室の戸口の辺りで立ち止まって、弟と父さんと母さんの姿を眺めていると、背後から弟の担当医師が入ってきた。すると、それに気づくなり父さんと母さんは、まるで教祖様でもいらっしゃったみたいにして、泣き出さんばかりに頭をぺこぺこ下げだした。

 やがて、父さんと母さんは医師に連れられて、どこかへ出て行ってしまった。そうして病室には、弟とわたしだけが残された。

「どしたの姉ちゃん。こっち来なよ」

 少しはにかんだような笑みも浮かべながら、弟はそう言ってわたしを呼び寄せた。若干違和感を覚えつつも、わたしは弟のそばまで行った。

「……どう? 大丈夫?」
 あやふやな笑顔でそんな気の利かない質問をすると、弟はすぐに応えた。
「何とかね。ずっとベッドの上だから、身体がなまってきそうだけど。でも背中は全然平気だよ。初めから翼なんか無かったみたい」
「へぇ……」

「生活もすぐに普通に出来るようになるし、処置も上手くいったから、運動も問題ないってさ。すごいよなあ。あんだけデカいもんがくっついてたのに、手術で簡単になかったことに出来るんだから」

 弟はそうやって語り続けた。
 わたしはそんな弟に、妙な違和感を覚え続けていた。
 弟は、わたしの目をまっすぐに捉えて言う。

「とにかく、今は病気になる前よりすっきりしてる」
「ふぅん……よかったね。じゃあ、またバスケ出来るかもね」

 わたしは少しでも感じの良さそうなことを言ってみようと思って、試しにそう話しかけた。弟にとっては重要なことだろう。弟は小学校低学年の頃から、ずっとバスケに打ち込んでいたのだ。高学年ぐらいまでは、夢はプロバスケ選手だった。さすがに中学に入ってからは言わなくなったけれど、でも今でもこだわりはあるに違いない。わたしにはそういう深く興味を向ける対象が何もないから、いいな、と以前から思っていた。

 すると、弟は眼を可愛らしく真ん丸に開いて、小首を傾げた。
「バスケ? ああ、まあ、そうだね」
「え?」
「まあ……あれは遊びだからね」

 弟はさらっとそう言ってのける。
 わたしは言われたことの意味が分からず、怪訝な顔で問い返した。

「遊びって?」
「バスケは遊びだろ?」
「……それは、そうだけど」

 困惑するわたしをよそに、弟は肩をすくめた。

「いつまでもあんなこと、やってらんないじゃん」
「……」
「こうやってさ、入院して思ったんだよ、俺。普段俺ってだらだら時間過ごしてるけど、そういう自由な時間って、いつまでも続くものじゃないんだな、って。バスケとか、そういうどうでもいいことやって遊んでられるのも、限りのあることなんだよ。そう思うと、身体が治ったからって前みたいに何にも考えずに遊ぶ気にはなれなくって」
「……」

「もちろん、バスケを辞めるつもりはないよ。でも、今までほどは力を入れるつもりはないんだ。あくまで運動、友だちとの付き合いのためというか。もっと他に、今しかできないやるべきことがあると思うんだよ。そっちの方に時間と気持ちを使いたいなって、そう思うようになって……翼ってさ、生えてみると分かるんだけど、すごい重いんだよな。だから、取れるとその分すごく気持ちが楽になる。必要ない、余計なものまで翼と一緒に持ってかれたような感覚があるんだよ」

 弟は優しげな目つきで正面を見据えながら、自分の気持ちを語った。とても落ち着いた、真摯な態度に思えた。

 なのに――話を聞けば聞くほど、わたしは所在なく不安定な感覚に襲われていった。どうしてなのだろう。ものすごく違和感がある。弟の言っていることは筋が通っているし、正しいと思うのだけど、でも何か、強い違和感、もっと言えば――不快感、いや、一種の嫌悪感があった。

 弟は微笑んでいる。ふわふわと軽く、浮き上がったような雰囲気を醸し出している。根もなく、内面もなく、ただただ善良な匂いを漂わせている。

「胸の辺りに澱んでた毒素みたいなものも、全部翼が取っていったのかも知れない。姉ちゃんも、一度生やしてみたら楽になるんじゃない?……どしたの、そんな変な顔して」

「コータ。あんた、そんな性格だったっけ?」

「はぁ? 何それ。俺は前からこんなんだって。でもまあ……翼がなくなって、少しは考え方が変わったかも知れないな。とにかく、スッキリした感じなんだよ。腹の中のどろどろしたものが、みんななくなったみたいな。それっていいことだろ? とにかくこれからは、もうちょっとちゃんとした人間になろうと思うよ」

 弟が前からこんな人間だったか、正直わたしには断言することが出来ない。ここ数年は週に一、二回、用があるときだけしか話していなかったし。以前はもっと、静かで少し冷たいところのある子だった気がする。

 でも――ひょっとしたら本当に前からこういう性格で、今度の手術をきっかけに、わたしに対しても普通に接してくれるようになっただけなのかも知れない。本人が言っているように。わたしには分からない。

 けれど、こうも思う。

 たとえ病気がきっかけで生えた翼だったとしても、身体の一部であることに違いはない。大きさからすれば、腕や脚にも匹敵するぐらいの割合を占めているだろう。それなら――そんなものを取り去ってしまったら、性格や心にも影響を及ぼすんじゃないか?

 ちょうど、腕や脚を失ったときのように。

「姉ちゃん、ホントどうしたの? 深刻そうな顔して」

 弟は再び、愛らしい表情で微笑んだ。

 そのとき、わたしの背後から医者と父さん、母さんが戻ってきた。まるで、わたしがいないみたいに弟のそばへ近寄った父さんと母さんは、弟に心から晴れやかな顔で話しかけている。何を言ったかは分からないが、それを聞いて弟は頷くと、ベッドから身軽に降りてみせた。薄いカーディガンを羽織り、立ち上がると、父さん母さんと一緒に部屋から出て行く。弟は終始、にこやかに振る舞っている。

 もちろん、今のわたしの妄想は、確かめようのないことだろう。人の心なんて、伸ばし過ぎた髪を切ったって変わる程度のものなのだから。だから、わたしが心配しすぎているのかも知れない。

 でも、少なくとも弟は確実に翼と共に、何かを失ったと思う。

「姉ちゃん、先行ってるよ」

 弟の声に、わたしは振り返りもせず頷いた。そうしてみんなは、わたしを置いてどこかへ行ってしまった。窓から射し込む陽を浴びながら、わたしは弟のいなくなったベッドを眺めている。そして、ここへ入院する前、待合室で見た弟の背中の膨らみを、わたしは思い出す。撫でたくなる、なだらかで柔らかな形。

 結局、弟の翼が何色になるかは、分からないままだった。


11.
 その日、ユウくんに会っていこうと思っていたのだけれど、なぜかどこを探しても彼は見あたらなかった。仕方がなく、受付の看護師さんに、どうやったら連絡を取れるか、と尋ねると、手紙なら取り次ぐことが出来る、と言われた。電話もメールもダメらしい。わたしは宛先を教えてもらって、そのまま大人しく親と一緒に家へ帰った。

 帰ってから、わたしは数日をかけて、ユウくんに長い長い手紙を書いた。直接は言えなかったこと、訊きたかったことは数え切れないほどあって、いくら書いても、手が止まることはなかった。

 わたしは納得いくまで何度も何度も書き直し、その度に自分の優柔不断さや、ぼんやりした性格にうんざりした。けれど諦めることなく、最後には書き上げて、それの入った封筒をポストに入れた。郵便を出すなんて、幼稚園の頃、友だちだと思っていた子に年賀状を出したとき以来の気がした。

 それからまた、二週間ほどが過ぎた。弟も退院し、家は弟中心に回り出す。時間が経つにつれ、わたしはますます隅へと追いやられていき、居場所はなくなっていく。そして、それでも何となく平気な顔をして過ごせるようになった頃になって、ようやくユウくんから、長い返事が届いた。まさか返ってくるなんて期待していなかったので、正直驚いた。

 丁寧な彼の文字と文章を、わたしはゆっくりと眺めた。

「早河ゆか様
 寒い日が続きますが、いかがお過ごしですか。矢本悠です。先日はお手紙、ありがとうございました。返事を考えているうち、すっかり時間が経ってしまいました。遅くなってすいません。

 孝太の性格のこと、気になったことと思います。結論から言えば、確かにそういうことはあるらしい、と聞きます。翼がなくなることで、確実にその子の「何か」が変わってしまいます。性格、行動、考え方、呼び名は様々ですが、手術の前後で、その子の目に見えない「何か」が変化するのは、間違いないです。

 ただそれは、医学的には何も証明されていません。今後もされることはないし、むしろ不可能でしょう。あんな大手術を受ければ物事の捉え方が変わるのは当然だ、と言えばそれまでですし、誰もその変化が、翼の喪失に原因があると断定することは出来ません。

 施設の連中にも、そうやって変わり果てていった奴が何人もいます。もっとも本人は、何も変わっていない、とはっきり言います。彼らの親や担当の医師も、そんなことはあり得ない、と口をそろえます。でも端から見て、明らかに違っているのです。人間として薄っぺらになっているというか、何か大切な、心のパーツが抜け落ちてしまっているというか。そういう印象を受けます。そして、何より嫌なのが、そういう性格の方が、世間的には『好ましい人間』であるかのように受け入れられることが多い、ということなのです。

 これは長期治療の患者であっても、実は変わりありません。長期治療でも最終的には翼が脱落するのですが、その結果、患者はひどく虚無的な性格になることが多いです。その落差は、手術で取ったときとは比較になりません。中には、廃人のようになることすらあります。あまりに変化が露骨な場合は、また改めて別の治療が施される場合もあるらしいです。しかし、何しろ長期治療で家族の元からも長らく離されているので、少々変化があったところで家に戻る頃には誰も気づかない、というのが実情です。

 それから、僕のことを気遣ってくれてありがとうございました。今はまだ最終段階には至っていませんが、恐らく僕も、近いうちにそうなるでしょう。そしてなったら最後、こうして手紙を書くことも出来ません。数ヶ月に渡って専用の病棟に入れられて、外へ出ることもままならなくなります。

 最終段階が近付くと、患者は次第に空への憧れの気持ちが胸に湧き上がってきます。前も話しましたが、僕もたまにそんなことを考えるときがあります。翼というのは腕や足のようなもので、動かしていないと筋肉が強張ってくるように感じられて、そわそわするのです。なまった身体を伸ばして、力一杯使いたくなります。でも、もしそんなことをしたら看護師や医師たちが僕の元に押し寄せてきて、取り押さえられるに決まっているので、いつも少し震わせる程度で我慢しているのです。これが本当に最終段階になったら、我慢が出来なくなって思い切り翼を大きく開いてしまいます。そうしたら最後です。


 さて、お手紙にもあった誠のことですが、あの日はまだ迷いがあって話せなかったことについて、ここで書いておこうと思います。僕自身もあの日以来、色々なことを考えてきましたが、それはおおむね、お手紙の中でゆかさんが想像していたとおりのことです。恐らく誠の件は、故意の事故、もっと正直に言えば、殺人に近いことだったのだろうと思っています。

 翼人症候群の患者は、差別は実際少なくなりましたが、それでも疎まれる存在であることに変わりはありません。ある意味そういう『鬱陶しさ』は、僕らが美しい存在だと見られるようになってからの方が、大きくなったかも知れないです。本来なら翼が生えている『異常な』人間なのに、今では逆に、翼が生えているというただそれだけの理由で、善い者扱いされ、疎んじてはいけないことになったのですから。患者の存在を不愉快に思っている人たちにとっては、余計接しづらく、面倒に感じられるでしょう。

 そしてそれは、僕らのような長期治療の患者の家族にしてみると、更に深刻なのです。孝太の入院の時に聞いたと思いますが、長期治療には多大な金額が必要になります。誠も、もちろん僕の家族も、その額を日々施設に支払っているわけです。先日ははっきり言いませんでしたが、僕ら長期治療の患者たちは、基本的に金持ちの家の子どもです。あえて手術を避けるのは、大体どの家も手術に伴う危険を考慮したり、西洋式の医学に不信感を持っていたりするためです。また、患者本人が怖がるということもあります。

 ですが一方で、そうした家では体面や体裁というものが、非常に重要になってきます。親戚づきあいなり取引先との関係なりの事情で、家の中で面倒事が少しあるだけでも疎まれるのが普通なのです。子どもを放り出したり勘当したりするわけにもいかず、長男の人生設計について、親戚一同で集まって相談するような家は実際にあります。うちもそうでした。僕の処遇をどうするかでずいぶん話し合った結果、ここに放り込むことになったらしいです。理由は知らないし、興味もありません。

 ただ、そうして話し合い、対立の結果決まったということは、当然僕らがこの施設に入っているのに反対の人がどこかにいる、ということでもあります。本当に冗談みたいな話ですが、長期治療の患者で集まったところ、誰も彼もが自分の入院を喜んでいない親族の名前を挙げることが出来たのです。それは、誠もでした。従って、僕ら全員が何らかの事情で、誰かに処分される可能性があることになります。僕は、そうした連中の誰かが手を廻して、誠を飛び立たせたのではないか、と疑っています。

 例の『天使の家』事件のせいで、ある世代の人たちには「翼人症候群の患者は外へ放つと空へ飛び立って死ぬ」という印象が色濃く残っていると思います。彼らが、施設の関係者の誰かに話を付けたのでしょう。扉を開けておけば後は勝手に出ていくのですから、大した手間ではありません。

 前にも言ったとおり、これは証明することなど出来ません。犯人が誰なのか、なぜこんなことをしたのか、そんなことを突き止めようという気も、僕にはありません。詰まるところ、全て自己満足でしかないのです。

 それでもこうして手紙にしておこうと思ったのは、このことを誰かに知っておいてもらいたかったからでした。誰も知らないままでなく、誰かが憶えていてさえくれれば、誠も少しは救われるのではないかと思います。


 僕はもうすぐ、最終段階に入ります。最終段階に入った後は、コミュニケーションを取ることもままなりません。そればかりでなく、翼が取れて退院することになっても、今のままの僕でいられるかどうか分からないのです。もしかするとまるきり違った、何の中味もない人間になってしまうかも知れません。

 こんな機会はもうないと思うので正直に書いてしまいますが、僕はいつも、翼人症候群の患者としての自分を考える度、恐ろしくて仕方ありませんでした。普通に最終段階をくぐり抜けても、それまでの期間に何か異常を来してしまっても、あるいは万が一、誠と同じように飛び立つことになってしまったとしても、幸福や安心を得られる可能性というのは、長期治療にはほぼないのです。孝太のような変化がよいことなのかどうかはともかくとしても、手術による短期治療には、まだその先に望みがあります。けれど、僕らのようにひとたび長期治療へ足を踏み入れてしまえば、先には泥沼か、崖ぐらいしか残っていません。

 ゆかさんにこんな愚痴を送ってしまうのは、おかしなことだと自分でも思います。ごめんなさい。でも、書かずにはいられませんでした。


 最後になりますが、二週間あまりの孝太との付き合い、楽しかったです。よい弟さんだと思います。僕には兄弟がいないので、少しの間でも彼と話すことが出来て、幸せでした。彼は言うなと言っていましたが、翼を失う前にも、彼はゆかさんのことを真剣に心配し、僕に相談していました。僕などよりよほどちゃんとした、信頼のおける子だと思います。大切にしてやってください。彼を信じてあげてください。そしてよければ、翼を失う前に、彼自身がどんな人間だったかを、思い出させてやってください。

 長文失礼しました。末筆になりますが、ご多幸をお祈りします。
 ありがとうございました。さようなら。
                         矢本悠」


 男の子とは思えないくらい、整った綺麗な文字と言葉が並んでいた。少し右に傾いたその字の群は、自然と彼のことを思い起こさせた。

 わたしは厚い便せんの束を丁寧に畳むと、封筒へ大切に戻す。そしてそれを封筒を引き出しに収めると、席を立ち、ベッドに寝そべった。施設に電話しようかとも思ったけれど、そういえばそもそも、電話は受け付けていないと言われている。

 こうなったら、仕方ないだろう。


12.
 翌日、八時過ぎに家を出たのに、電車に長時間揺られて向こうに着いたのは、昼の一時頃だった。適当に駅前の定食屋で昼ご飯を食べてから、わたしは歩いて施設へと向かった。お金は母さんの財布からくすねてきた。後でまた面倒なことになるだろう。

 施設は郊外の寂れた町を抜けて、奥の山道へ入り、木々の茂った坂を延々上った先にある。いつも通りのジーパン姿で歩きやすいとはいえ、二十分も経つと少し疲れてきた。立ち止まり、息を吐く。

 もちろんわたしが行ったところで、出来ることなど大してないだろう。けれど、いいのだ。わたしの行動なんか、所詮どれも自己満足でしかないのだから。意味など、ないのだから。

 休憩ついでに、道の脇のガードレールの向こうを覗き込んだ。すると、木の枝の影になった深い緑色の草葉と苔が生えていて、そのさらに奥には、澄んだ川が細々と流れていた。車でここまで来たときには外の光景なんか見もしなかったので、少し面白かった。頭上では、風に揺れる葉の音がずっと鳴っている。辺りには何もない。

 わたしは再び、先へ進み始めた。そんな暗い道を一人黙々と歩いていると、中学生の頃クラスにいた、いじめられっ子のことをわたしは不思議と思い出した。

 本当にかわいげのない子だった。クラス中ばかりか先生までも、あの娘をいじめることだけは許されるのだと思いこんでいた様子だった。何が最初のきっかけだったのかはもう憶えていないけれど、とにかく彼女は、女子全員から無視、というより嫌悪されていたのだ。そして、男子から声をかけられるようなタイプではなかったので、結局誰からも無視されていた。その結果なのか、それとも元々なのか、彼女は性格もひどくねじ曲がっていた。

 とにかく中学校の三年間、何をやっても嘲笑され、そしてそれに彼女が腹を立てれば、みんなから詰られていたのだ。要するに彼女が何をやろうと、非難の的になる。そしてそれを先生に相談すると、先生はうんざりした表情で溜息を吐き、「集団生活ではみんなに合わせることが大切なのよ。自分勝手ではいけないの」と話していた。まさしく八方ふさがりだった。そしてその状況に、誰一人として同情していなかった。

 わたしも平然と、そんないじめに参加していた。思い返すとずいぶんひどいこともしていた(ガムテープで全身をいもむしのように縛り上げたり、ガラスに頭を打ち付けたり)けれど、どうしてか当時、クラスは毎日明るい雰囲気で充たされていたような気がする。笑顔が絶えなかった。まるで校内の暗い空気の全てを、彼女一人が一身に吸い取って、その代わりにみんなが脳天気に過ごせていたかのようだった。そしてわたしも、その一員だったのだ。

 あの子は最後には、学校に来なくなった。その後、しばらくはクラスの空気が悪くなり、一連のいじめが問題視され、担任が替わったりもしたけれど、でも結果的にはそれほど深刻な事態にはならなかったように思う。少なくとも罪悪感は、大して残らなかった。

 今の今まで、わたしはあの子がいたということすら忘れていたのだ。彼女は一体、あのときどんな気持ちだっただろうか。そして今となっては、わたしの方が学校へ行かなくなっている。彼女はそんなわたしを見たら、どう思うだろうか。何と言うだろうか。

 やっぱり、嘲笑するだろうか。

 わたしは施設にたどり着いた。相変わらず、威圧的な門だった。


13.
 門をくぐり抜けて建物に入ると待合室へ行き、受付の看護師さんに、ヤモト・ユウくんに面会に来たのですが、と話しかけた。

 すると、真っ白な顔をした彼女は、ああ、と遠い目をして応じた。
「ユウくんは先日、最終段階に入りました。彼が翼人症候群なのは知ってますね。最終段階というのは……」
「知っています。あの、彼自身に聞きました。もう面会することは出来ないんですか?」

「無理ですね。あの段階に入ってしまったら、後は完治するまで外部とは一切接触できません。というより……したところで何もコミュニケーションは取れないんです。本当に完全に、空へ飛び立つことしか考えられない状態になっていますから。思考も身体も全て、翼に乗っ取られているような感じとでもいうのかな。他の物事が頭にない。ですから、諦めてもらうしかないです」

 看護師はそう淡々と語った。

 素直に彼女に感謝してから、それならお昼ご飯だけでも食べて帰りたいんですけど食堂へ行ってもいいですか、と尋ねた。すると彼女はどこかほっとした様子で、いいですよ、と簡単に頷いた。頭を下げて感謝し、彼女を残したまま、廊下の先へと向かった。

 こうして平然と施設の中へ入り込むと、しばらく食堂の方へまっすぐ歩き、頃合いを見計らって、あっさりと違う角を曲がった。そのまま、施設の奥へと進んでいく。周りにはお見舞いに来たよその家族がちらほらといるので、患者ではない人間がいてもそれほど妙な目で見られることはなかった。以前と変わらず、施設の中はどこか天国的で、でも何となく、沈鬱な空気で充ちていた。

 ユウくんに案内してもらった道筋を歩いて、久しぶりに病室棟へ入る。以前彼が使っていた部屋のドアは、すでに開け放たれていた。通りすがりにちらりと中を覗くと、綺麗に片付けられて空っぽになっている。入り口のネームプレートももうない。そんな様子を横目で見てから、何事もなかったかのように歩き続ける。

 そんな病室棟の二階をあてもなく進んでいると、途中に渡り廊下へ通じているらしい、大きな扉があった。扉には、「医師の許可なく入棟することを禁じます」とわざわざプレートが付けられていた。

 そばの窓から、その渡り廊下を渡った先を覗いてみる。向こうには嵌め殺しらしい厚い窓が並んだ、二階建てのこぢんまりとした箱のような建物があった。たぶん、ここがユウくんの言っていた、最終段階の患者を放り込むための棟なのだろう。ユウくんは今、あそこにいるのだ。重く動きそうもない金属の扉のそばで、しばらく立ちつくしていた。

 時折廊下を通り過ぎていく看護師たちが、こちらを不審そうな目つきで見てくる。でもあまり気にせず、扉の具合をあちらこちらから探っていた。といっても、カードキーのリーダーが取り付けられていて、厳重に施錠されている。素人が少々何かしたところで、突破できそうな余地はなかった。

 無理に通るとすれば、誰か医者か看護師がここを抜けるときに一緒になって通過するぐらいしかないだろう。けれどおそらく、そうして無理に通ったところで、この先にも同じような扉がいくつかあるに違いない。そのどこかで捕まえられれば、こっぴどく叱られるか、下手をすれば警察沙汰になるのが落ちだ。

 おまけに、少しの間待ってみても、向こうの棟へ向かおうとする人が誰もいなかった。そうなるともう、一人では手出しのしようがない。

 何も出来ないまま、十五分ほどが過ぎた。

「……あれ、ひょっとして、コータくんのお姉さんじゃないですか?」

 不意に聞き覚えのある声に話しかけられたので、振り向いた。

 そこにいたのは、確かコータの担当だった何とかというお医者さんだった。四十代半ばぐらいの人の良さそうな顔をしていて、弟の執刀も彼だったらしい。痩せ型で、割とひ弱そうだった。

「どうかしたんですか? コータくんに何か? 親御さん方は、今日は来られてないんですか?」

 そう愛想よく親切そうに話しかけてくる彼の首からは、ペンや鍵と一緒に数枚のカードが下がっていた。あまり真面目に管理する気がないらしい。顔がやや疲れてやつれているところからすると、ひょっとしたら手術後とかなのかも知れない。

 そこで少し考えて、いくつかの手段を頭の中で検討してから、一か八かに賭けてみることにした。

「はい、先生。ちょっと言いにくい話というか、実はコータに、最近問題が出始めていて……」

 そんなことを話しながら、それとなく彼を、手近で空いている病室へと連れ込んだ。コータに問題と聞いて急に心配そうになった彼は、特に疑う様子もなく、後に続いて病室へ入ってきた。たぶん、彼も他人に聞かれないようにしたかったのだろう。

 病室のドアを閉めた。


14.
 上がった息を整えながらドアを開けると、廊下の左右に誰もいないことを確認して、そっと病室から出た。右手には、あの医師のカードキーの束が握られている。髪を引っ張られてごっそり抜かれたとき、かなり痛くて涙が出たけれど、やってみると案外すんなり手に入れることが出来た。病室のドアを静かに閉めてから、まっすぐ渡り廊下の扉へ向かった。

 四枚のキーを適当にカードリーダーに合わせていると、やがて電子音と共に、ロックの外れる小さな音がした。物音を立てないように気を付けながら、大きな金属の扉を開いた。

 扉の向こうの渡り廊下は、静寂が保たれていた。空気清浄機でも働いているのか、あまりに何の匂いもしなくて、逆に鼻がむずむずする。窓からは、柔らかな冬の日光が射し込んでいた。想像通り、廊下の突き当たりにはさっきとほぼ同じ二枚目の扉があった。

 ふと気づいて見上げてみると、廊下の天井の隅には監視カメラらしい黒い球が取り付けられていた。中で微かに、レンズが動いているのが分かる。どうだろう、今までの出来事も見られていたのだろうか。だとするともう、あまり時間はないのかも知れない。少しだけ足を速めて廊下を渡ると、またさっきのカードをリーダーに押しつけた、LEDが赤から緑に変わって、ロックの外れる軽い音が聞こえた。

 二枚目の扉を開くと、その先は薄暗い最終段階用の病棟だった。中に人の気配はない。どことなく、放課後の校舎のように感じた。天井の蛍光灯は、一つも点けられていなかった。

 薄暗いのは、窓の一つ一つに鉄格子が取り付けられているせいでもある。陽の光が入ってこない。おまけにそれらの窓ガラスも全部強化ガラスらしく、中に黒い針金が通されていた。

 異様なのは窓だけではない。並んでいる病室もだった。普通なら病院は、各病室に窓が出来るよう部屋を配置するはずだ。それこそちょうど、学校の教室のように。でもここは、廊下が建物を一周するように作ってあって、その内側に、いくつも狭い病室が並んでいた。その様子は何となく、ペットショップを思い起こさせた。

 一つ一つの病室には、錠前がいくつも付けられた、さっき以上に厚い金属扉がある。それぞれにちっぽけな窓が付いていて、中をのぞき込めるようになっていた。
 足早に廊下を歩きながら、扉の中を見て回る。最初の三部屋には誰もいなかった。最近は、長期療養の患者も減っているのかも知れない。しかし、部屋の様子、扉の具合を見れば見るほど、こんなところに入れられた人が事故で外に出てしまうことなんて絶対にあり得ない、と確信した。確実に誰かが、この扉を意図して開けたのだ。

 そしてマコトくんは逃げだし、屋上から飛び立っていった。

 まといついてくるような暗がりの中で、一部屋一部屋を、目をこらして調べていった。


15.
 七部屋目でとうとう、拘束されている患者を見てしまった。狭い部屋の中には、真っ白な拘束着で全身動けなくされた、女の子がいた。

 彼女の翼は、ユウくんのように綺麗に広がってはいなかった。かなりの部分羽が抜け落ちてしまい、部屋中に飛び散っていた。羽毛のクッションでも引き裂いた後のようだった。翼はあまりに痛々しく、見ていられなかった。

 すると、ベッドの上で芋虫のように転がされ、痩せて暴れる元気も失いつつある彼女は、覗き込んでいるわたしに気づいたのか、じっとこちらを見つめてきた。彼女とわたしは、まっすぐに眼が合う。舌を噛まないようにか口にも何かマスクのようなものを付けているので、彼女は何も言わなかった。

 長い黒髪の彼女は、しかし、信じられないほど美しい眼をしていた。澄み切って、見ているこちらが囚われてしまいそうなほど、澱みのない瞳がそこにあった。どれだけ身体や翼がぼろぼろになっても、彼女の眼は気高く、自信に満ちたままだった。わたしはしばらくの間そんな彼女を見つめ続け、それから耐えられなくなって、そこから急いで立ち去った。

 並ぶ病室を廻るうち、何人もの最終段階の患者をわたしは眼にした。彼ら、彼女らは、一人一人違う状態にあった。

 ある子は必死に拘束から逃れ、空に飛び立とうと半狂乱になって暴れていた。

 ある子はもう全てを諦めた様子で、床に倒れ、涙を流してうずくまっていた。

 頭から血を流している子もいた。何の事情でか、片腕のない子もいた。

 でもたぶん、みんなそれぞれに必死で、だからわたしは見ているのが辛くて、仕方なかった。

 そうして見ているうち――次第になぜ、この子たちを拘束しなければいけないのか、わたしは分からなくなってきた。いや、もちろん、空に飛び立てば死んでしまうから、こうしているのだ。そんなことは分かっているのだけれど。でも、なぜこんなひどいことをしなければいけないのか。見れば見るほどに、分からなくなってくるのだった。

 部屋の奥に縛り付けられ、中程から真っ二つに折れた大きな翼を晒したまま、強い瞳でこちらを見据えている小学生くらいの男の子を見たとき、わたしは目の前が霞む気がした。

 いくつの部屋を廻ったのか、もうはっきりしなくなってきた。ようやくわたしは、ユウくんのいる部屋を見つけた。わたしは扉の窓にとびつくようにしてその中を覗き込むと、眼を大きく見開いた。

 拘束着姿のユウくんは、部屋の中央に立てられた柱へ括り付けられて、翼を左右に広げた状態で佇んでいた。

 今は眠っているのか、彼は目を瞑り、俯いている。もちろん手足は固定されていて、見えている身体は口以外の顔と、喉と、それから翼だけだった。

 その翼が、わたしには驚きだった。他の患者たちと比べて、彼の翼は、不思議なほど、完璧なままに保たれていたのだ。ほとんど部屋一杯に広がったそれは、羽が落ちた様子もなく、汚れたところもなく、血も付いておらず、ただひたすら綺麗だった。

 外で連れだって歩いていたときにも感じたけれど、彼の姿はもはや、古代ギリシアの彫刻のようにしか見えなかった。何と言っただろう、サモトラケのニケ、だったか。教科書か何かで見たあの美しい姿をそのまま、ここへ移してきたかのようだった。

 わたしは数度、扉を叩いてユウくんを起こそうとした。彼が目覚めたところで、何が出来るわけでもないのだけれど。でも彼は、身動き一つしなかった。扉が厚すぎて、届かないのかも知れない。
 彼は、顔を上げてすらくれなかった。わたしは諦めて、彼のたとえようもなく美しい姿を、厚いガラス越しに眺めているしかなかった。

 そしてそのとき――。
 自分の手の中にあるカードキーのことを、思い出した。

 わたしは、奇妙な感覚に囚われだした。


 ――開けてしまえばいいんじゃないか?


 そんな、強い衝動を感じた。

 ここを開けて、ユウくんの拘束を解いてしまえばいいんじゃないか。

 わたしはそう、感じた。次第に、自分の背筋が冷えていくのに気づいた。そうだ。簡単なことなのだ。ここを開けて、彼を解放してしまえば、それで済む。単純なことじゃないか。なぜか、そう感じた。

 もちろん理屈の上では、そんなことはしてはならない、と分かっている。それは、殺人も同じだ。開けたが最後、彼はここから駆け出し、自分の意思とは関係なく飛び立ち、墜ちる。そして死ぬ。当たり前のことだ。

 だから彼らは、ここに閉じこめておかなければならない。時間が来れば、彼らの翼は自然に失われ、空への妄想はなくなり、まっとうな人間として生きることが出来る。そのために、この扉を開けてはならない。

 でも。

 さっきから何人も何人も患者を見ていくうち――わたしの中では抑えきれないほど強く、扉を開けたいという気持ちが高まりだしていた。

 ――なぜ彼らはこんな監獄のような場所で、涙を流し暴れ回りながら、時間が経つのを待たなければならないんだ?

 そうだ。きっとマコトくんの時も、同じことがあったのだ。わたしはここへ来て、そう直感した。きっとあれは、ユウくんが想像していたような陰謀なんかではないのだ。外の人たちが画策したとか、そんなことではない。やったのはたぶん、わたしと同じ気持ちになった、医師か、看護師の誰かだ。

 毎日こんな翼を持つ彼らを見て、そして彼らがこうして狭い部屋に閉じこめられているのを見て、自分はその扉を開けるための鍵を持っていることに気づいたとき――彼らの中の誰かが、マコトくんの部屋の扉を開けてしまったのだ。その背後には、たぶん何の悪意もない。

 この静かな病棟に立ち、自分の気持ちがシンプルになっていくうちに、そんな気持ちを押しとどめることが出来なくなってしまったのだろう。

 ――翼を持っているなら、飛び立てばいいじゃないか。

 そう思うのだ。

 扉に付いた小窓から、わたしは部屋の中で恐らく眠っているユウくんの姿を、食い入るように見つめている。もう、目を離すことは出来ない。彼をこのままにして、わたしは立ち去ることが出来ない。

 わたしの手の中には、彼をここから出すための鍵がある。扉を開けば、彼はここから逃げ出し、そして空へ飛び立つ。ほとんど間違いなく、彼は死ぬと思う。わたしは確信している。けれどわたしは同時に、今にも扉を開けてしまいそうになっている。そればかりか、もしかしたら彼は死なないんじゃないか。そう思い始めている。

 ――もしかしたら彼だけは、空へ飛び立ち、あの美しく大きな翼で羽ばたいて、そのまま帰ってこないんじゃないか。

 そう、心のどこかで期待しているのだ。そんなことはあり得ないと理解しているというのに。

 わたしは自分の手の内のカードキーを、じっと見つめた。


 そしてそれをリーダーに押しつけると、迷う間もなく扉を満身の力を込め、開いた。

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