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連載小説|Suite 1101 -Chapter 1-

<あらすじ>

  高校卒業後、実家近所の図書館の事務員として働いていた由美子は30代半ばで英語教師をしていた親日家のアメリカ人と結婚し、地元で幸せに暮らしていた。静かな暮らしが続くと信じていた結婚から10数年後、夫の出身地ニューヨークのアップステートの街に移住することなる。英語も車の運転もできない由美子にとっては不自由な生活が続く中、夫が外出先で急死してしまう。夫のいないその街に住み続けることができず、一人暮らしを始めたニューヨークで旅行中の祖母の運営する私設図書室、書斎倶楽部を任されている椿と知り合い、その手伝いをすることになる。椿や書斎倶楽部に関わる人たちとの関わりの中で由美子は成長していく。

Chapter 1 

Thank God I found the good in goodbye! 
グッバイの中にグッドを見つけられたことは神様に感謝。

Beyoncé Knowles-Carter

 公園[1]のベンチに座り由美子は自分のスニーカーのつま先を見ていた。つま先のほっそりとした形が好きで、高校時代から何足も買い継いでいるコンバースのハイカットを重く感じる。キャンバス地の色のグレイが今の自分の気分にぴったりだと由美子は思った。時間が気になり上着のポケットに入れたスマートフォンを取り出す。午後3時4分、それは前回時間を確認してから2分しか経っていなかった。大きく息をはくと、たくさんの鳥の鳴き声が聞こえ始めた。このベンチに座ってから、すでに2時間が経過している。きっと鳥たちは2時間前から、ずっとさえずっていたのだろう。背の高い木々は緑の枝を気持ちよさそうに風に揺らしながら、由美子の座った緑色の折りたたみ椅子にあっさりとした初夏の木陰を投げかけ続けている。公園には、よく手入れされた芝生と色とりどりの可愛らしい花たちが美しく植えられている。長袖1枚で過ごすことのできる快適な天気だ。由美子が日本にいたころ、映像で見ていた色鮮やかなネオンサインのあるタイムスクエアから1ブロックしか離れていない所に緑あふれる公園があることを知ったのは最近だ。

 昼食にはすでに遅い平日の午後だというのに、公園には多くの人がランチを食べたり、お茶を飲んだりしている。Reading roomと書かれた黄色いパラソルの下に低い書架が置かれたエリアがある。由美子はこの公園に来るとすい寄せられるように書架の近くの椅子に座ってしまう。ここに来るようになって何日がすぎただろうかと由美子は考えた。初めてここに来た日はどんよりと曇った日だった。あの日からまだ10日も経っていなかった。この公園はすでに彼女の日常の一部になっている。

 バサリと本が落ちる音がして由美子はハッとする。今の彼女はそうする必要はないのだが、ゆっくりと立ち上がると書架に歩み寄り、落ちた本を手に取り、ゆっくりと埃を払った。黄色いその絵本は、由美子が子供時代に読んでもらったことのある、「ひとまねこざる」だった。しばらく、じっと表紙に見入ってから、本を開くことはなく、背表紙に貼ってある整理番号の書かれたシールをそっと撫でた。それから、丁寧にそれを書架へと戻した。それが終わると、座っていた椅子を振り向き、背もたれにかけた荷物があることを確認した。書架に歩み寄った時よりさらにゆっくりと時間をかけて椅子に戻る。したいことも、するべきこともないので、少しでも何かをしている時間を長くするために、由美子が最近身につけた技術だ。椅子に座ると、またスニーカーの爪先に目をやった。

 人の背中にも整理番号の書かれたシールが貼られていて、誰かがその人のいるべき場所に優しくそっと戻してくれたら、どんなに良いだろうかと由美子は思う。仲間の本たちと書棚に並べられ、中には頻繁に引き出される本があるけれど、そのほとんどは、滅多に引き出されることはない。滅多に引き出されることのない本、それが自分だ。時間は本たちの上をすべるようななめらかさで通り過ぎていく。本たちは音もなくふりつもった埃を時々はらってもらう。昨日と同じように、じっとそこにいて、意見を求められることも、責められることもない。変化のない平安こそが今の彼女の求める祝福なのだ。選ぶこと、決めることに由美子は疲れ切っていた。

 座っている椅子の背にかけたバックからボトルを取り出して、今朝、自分で淹れた紅茶を飲む。紅茶は先週、ソーホーの専門店[2]で購入した茶葉をつかい、ティーポットで丁寧に淹れたものだ。期待した通りの味と香りに由美子の眉のあたりに安堵の表情がひろがった。生まれ育った長崎を離れ、この先ずっと住むことになると思っていたアップステイトと呼ばれるニューヨーク北部から、マンハッタンに来たのは2週間前のことだ。この街に知り合いはひとりもいない。以前住んでいた街にも最初は知り合いがいなかった。でも、あの時は由美子の隣には夫がいた。夫と一緒にそこに移り住んだのだ。由美子は紅茶を飲んだボトルをバックにしまうこともせず、近くのサンドイッチを食べている人たちの足元でパンくずをついばんでいるスズメたちに目を向けた。生粋のニューヨーカーであるスズメたちは誰がいちばんパン屑をこぼすのか熟知していることに感心する。

「あの、すみません、日本の方ですよね?」
背後から澄んだ若い女性の声が聞こえた。アクセントのない綺麗な日本語だ。由美子は、肩から下は全く向きを変えず、最近身につけた技術を活かし、ゆっくりとふり返った。
「昨日はブックオフ[3]に、先ほどは紀伊國屋[4]にいらっしゃいましたよね?」
声の主は由美子が答えるより先に次の問いを続けた。確かに、由美子は前日の午後は古書店のブックオフに、今日の午前中はこの公園の向かいにある紀伊國屋書店で短くない時間を過ごしていた。そして、今日、この後、またブックオフに行こうとしていた。これがアメリカ人の男性であれば、すぐさま警戒をしたところだが、視線の先にいたのは声の印象よりも、もっと幼い10代後半と思われる女の子だった。彼女の瞳は明るめの栗色で全くアクセントのない綺麗な日本語を話したけれど、そのキュッと上がった口角と健康的な肌色から、アメリカ育ちであるであろうことが由美子にはすぐにわかった。英語と日本語では発音で使われる筋肉が違うせいだろう、日本人だったとしても、日本語しか話さない日本人とは口元が全く違うのだ。英語の苦手な由美子は何も答えず、まぶしそうに少女の口元を見つめていた。少女は歩み寄ることはなく、適度な距離を保ったままで
「びっくりさせてしまって、すみません。」
と深々とお辞儀をした。その古風な仕草を見て、日系人なのかもしれないと由美子は思った。バックグラウンドにもよるのだが、日系人の家庭は最初の世代が日本を出た頃の日本が綺麗に保存されていて、多くの今どきの日本の家庭よりも伝統的な家族観やしきたりが残っていたりするのだ。
「いいえ。」
由美子は久々に日本語を話せる嬉しさにはしゃぎすぎないようにと慎重に答えた。

少女は頭を上げると、殊更に笑顔をつくることもなく、自然な調子で話はじめた。
「Tsubaki Harrisonと申します。私もブックオフと紀伊國屋にいたんです。日本語は祖母に習いました。大学では日本文学の勉強をしました。」
由美子は黙ったまま、うなずいた。
「お隣で少しお話をさせてもらってもよろしいですか?」
椿の礼儀正しい様子と、人の多い昼間の公園という安全な環境に、由美子の警戒心はゆるんだ。椿は近くから折り畳み椅子を持ってくると、由美子の前ではなく、右側に置いた。2人は先ほど由美子が本を戻した書架を背に中央の芝生に向かって並んで座った。由美子は紅茶の入ったボトルをバックに戻し、バックのファスナーをきっちりと閉めてから、それを椅子の背にはかけず、膝の上に置いた。

「お話しできて嬉しいです。さっき、『ひとまねこざる』の絵本を棚に戻していらっしゃいましたよね?」
由美子はさっと隣の椿の方に顔を向けると、怪しいものを見るかのように目を細めた。この椿という娘は自分のことを監視しているのか、そんなことあるだろうかと思いながら、由美子は抑揚のない声で答えた。
「落ちたようだったので。」
「見張っていたわけではないんです。たまたまお見かけして。祖母に小さい頃から本を大切にするように言われていたのが、癖になっていて、あの本を戻そうと思ったら、先に戻して下さったので。ありがとうございました。」
と言うと、椿は恥ずかしそうな笑顔を浮かべた。由美子はあいまいな表情のまま、小さくうなずいた。椿はさらに話を続けた。
「その祖母によく連れて行かれていたので、紀伊國屋には今でもよく行くんです。祖母はブックオフには行かないんですけど。それで、昨日とさっきお見かけした人だってわかったんです。」
由美子は大学生が本屋で見かけただけの中年の女に公園で声をかける理由を考えながら膝の上のバックに目を落とした。由美子の固い様子に椿は少し戸惑いながら「えっと、あの、私のことは椿と呼んでください。私はなんとお呼びしたらよろしいでしょうか???」
由美子はまじまじと椿の顔を見てから、少し考えて
「佐藤由美子です。」
と答えた。

「由美子さんとお呼びしますね。」
椿はほほえみながら、うなずいた。
「この公園、お好きですか?私は大好きなんです。図書館[5]も好きだし。」
公園の東側のレストラン[6]の背後にある大きな建物に視線を送った。
「あれ、図書館なんですか?」
思わず、由美子の声が高くなった。
「由美子さんは、あそこも行きつけかと思ってました。そうですよー。映画の撮影とかにも使われる綺麗な建物です。向かい側にもあって、そちらはモダンな建物ですけど。」
由美子はじっと図書館を見つめて、何かを考える様子で黙り込んだ。
「平日だから、まだやっていますよね?」
椿はそれまでにない由美子の強い様子に驚きながら
「はい、5時か6時まではやっていると思いますよ。」
と答えた。すると由美子は全身で椿に向き直りきっぱりした様子で
「私、これからあの図書館に行きます。」
と言うと、膝に乗せていたバックを肩にかけながら、勢いよく立ち上がった。
「私もしばらく行ってないので、ご一緒しても良いですか?」
と言う椿の問いに、由美子は無言でうなずいた。椿はまじめな表情で足速に進んでいく由美子の後ろについて行きながら
「こちら側だと通りに降りずに表にまわれるので。」
と声をかけた。由美子は律儀に振り向いて
「ありがとうございます。」
とお礼を言った。2人は公園から図書館の敷地に入り建物の北側を通って、5番街に面した正面入り口に回った。

 図書館の正面入り口は階段を登った先にある。階段下には図書館を守るかのように入り口をはさんでFortitude (不屈の精神)とPatience(忍耐)の名をもつ2頭のライオンが台座の上から通りを見下ろしている。由美子はライオンたちには目もくれず、真っ直ぐに入り口へと向かった。椿もそれに続いた。平日の午後だったので、入館を待つ人は数人しかおらず、2人はバックチェックを通り、すぐに館内に入ることができた。由美子はひんやりとした館内に足を踏み入れたとたん、戸外との明るさの違いに思わず目に手をやった。入口のホールは吹き抜けになっており、右手にはインフォメーションデスク、その奥にはギフトショップ、左右には石造りの立派な階段があった。由美子はインフォメーションデスクに館内のガイドがあることに気づくと、デスクの係員に日本語版はあるかと尋ねた。上品な白髪の女性は申し訳なさそうに肩をすくめると、英語版のそれを渡してくれた。入口ホールの片隅まで行くと、由美子は肩にかけたバックからメガネを取り出し、フロアマップを真剣な顔で見始めた。

「私は1階のマップの部屋が好きで、そこに行くことが多いんですけど、メインの3階のローズリーディングルームも綺麗ですよ。」
と椿は遠慮がちに声をかけた。2人の周りには、地方から来たと思われる観光客のグループが携帯で吹き抜けの天井の写真を撮ったり、自撮りをしたりしていた。「ありがとうございます。3階に行きます。」
と由美子は答えると階段へ向かった。椿はまた由美子の後ろをついて行った。

 大きなランプのような照明の下がった瀟洒な石造りの階段を登った3階の天井にはドラマチックなギリシア神話のワンシーンが描かれている。そこでも、観光客たちが写真を撮っている。目的のローズリーディングルームの入口の前はロープで区切られており、椅子に座った係員がいる。ガイドに連れられた10名ほどのツアーのグループが2人を追い越して、ローズルームの入り口に向かった。ガイドが入口の係員に首から下げたパスを見せると、入口の係員は私語と撮影をしないようにと注意を与えてから手前のコンピューターのある部屋へとグループを案内した。近くにいた本を借りそうにもない人々が羨ましそうにグループの後ろ姿を見送り、外から中の様子を伺っていた。そのうちの2人が係員に何か話しかけたが、係員は首を横に振り、2人は残念そうに何度か振りかえりながら、その場を立ち去った。立ち去る2人の後に由美子が続こうとしたとき、椿は背負っていたリュックから取り出したノートを手渡した。由美子は不意のことで思わずノートを受け取った。椿は
「それ持っていたら入れるんで。」
というと自分は手ぶらのまま平気な顔で係員の前を通り過ぎた。由美子も慌てて、それに続いた。ガイドに連れられて部屋を出ていくツアー客たちとすれ違いながら、椿は慣れた様子でコンピュターの置かれた部屋を通り抜け、さらに奥に進み、小さな仕切りで区切られた空間で立ち止まった。その空間には左右に出口があった。

Rose Reading Room

「ここから先がローズルームです。どちらも大体同じ作りなんですけど、私はいつも左側の部屋に行っちゃうんですよ。由美子さん、どちらが良いですか?」
と尋ねた。由美子は控えめに
「図書室だったらどちらでも。」
と答えた。椿は背負ったリュックを下ろしながらいつも行っているという左側の部屋に入っていった。係員の座ったカウンターの前を通り、左右に並んだ大きなテーブルの間の通路をどんどん歩いていく。部屋の真ん中をまっすぐ伸びる通路はまるでランウェイのようだ。平日の午後だというのに多くの人がテーブルに向かっている。2人に注意を向ける人はいない。明るい色のレンガ造りの壁から続く、高い天井には空と雲が描かれており、円を囲むように温かい色の明かりをたたえた電球が配されたモダンなシャンデリアが下がっている。左右に対称に置かれたどっしりとしたオーク材のテーブルは長年磨きこまれた豊かな艶やかさをたたえている。テーブルの上にはクラシックな傘のついたランプが置かれ、備え付けの優美な曲線を描く椅子にも彫刻が施されている。天井が高いので壁に備え付けられた書架がかわいらしく見える。由美子はクラシックな美しさに圧倒されながらノートを胸の前にもち、椿の後ろをついて行った。

「Lucky me! That’s my favorite spot! 由美子さん、あそこにしましょう。」
と椿が目線で示した先は右側の最後尾のテーブルの右端の席の男性がノートパソコンのコンセントを抜いているところだった。2人はゆっくりとその席に近づき、男性と入れ替わりに席についた。
「あ、これを。」
と由美子は椿に渡されていたノートを返した。厚手の黒い表紙に縦にシルバーのゴムが渡されている。自分のものを返してもらっただけなのに、椿は
「ありがとうございます。」
と丁寧にお礼を言いそれをリュックにしまい、シルバーのノートパソコンを取り出した。
「ここはStudy かResearch をする人のためってことになってるので、ノートとかパソコンとかそれらしいもの見せたら、入りやすいんです。なくても、さらっと入ったら、別に何もなくても大丈夫なんですけど、さっきにみたいに質問しちゃうと、ツーリストだってバレちゃうんで、断わられちゃいます。」
椿は肩をすくめながら説明した。そして、一つ席をあけて座っている由美子の方に身を乗り出し口元に手を当てた内緒話のポーズで天井に視線をおくりながら
「素敵ですよね?由美子さんが好きなだけここに居て、そのあとお茶に行きませんか?私はすることがあるから大丈夫。Wi-Fiも使えますよ。」
と言うと嬉しそうににっこりした。由美子は無言でうなずき、椅子から立ち上がると近くの書架に行き、深緑に金で書名が書かれた本を丁寧にひきぬき、公園の時と同じく、静かに席に戻り、テーブルの上にそれを置いて、ゆっくりと椅子に座った。

 由美子は時おり、椿の様子を伺ったが、椿は全く由美子を気にすることなくパソコンに向かい続けた。図書館の係員があと15分で閉館だと通路から左右のテーブルに声をかけながら近寄って来るまで、2人は全く言葉を交わさなかった。係員の言葉に室内にいた人々は荷物をまとめ始めた。由美子も深緑の本を書架に戻し、椿はノートパソコンをリュックサックにしまった。椿は由美子の方を振り向くと
「お時間大丈夫ですか?1階のカフェも閉まってしまうので、外でお茶しましょう。」
とまた由美子の返事を待たずに話をすすめ、立ち上がった。

 図書館を出て、2人は公園の南側40丁目を東から西に向かって歩いた。
「いかがでしたか?あそこは綺麗だし、テーブルも広々していて良いんですけど、寒いんですよねー。」
と椿が言うと由美子は頷きながら
「本当にそうですね。」
と答えた。
「だったら、お店に入らず、何か買ってまた公園に行く方が良いですか?」
と椿が問うと、由美子はほっとしたように頷いた。椿がさらに
「ミルクレープとシナモンロールどちらがお好きですか?」
と尋ねると、由美子は全く考える様子もなく
「どちらでも良いです。」
と答えた。椿は立ちどまって、少し考えてから
「今日はシナモンロールにしましょうか。」
と言って、そのまま少し歩き6番街の角にあるベーカリーカフェ[7]に入って行った。椿はシナモンロールとコーヒー、由美子はまだボトルに紅茶があったのでシナモンロールだけ買い、今度は図書館にいる前にいたのは反対側、回転木馬の近くの折りたたみ椅子に並んで腰かけた。

 椿は紙袋から半分出したシナモンロールを一口食べると目を細めて
「うー、甘い。美味しい。」
と言って、コーヒーを飲もうとして熱さにむせた。由美子は
「大丈夫ですか?」
と言いながらナプキンを差し出した。椿は
「ありがとうございます。由美子さんって気がききますねー。」
と言いながらそれを受け取り口の周りをおさえて息を整えた。それから、由美子の方に向き直ると
「由美子さん、最近ニューヨークにいらしたばかりですか?」
と尋ねた。由美子は眉を寄せながら
「そうですけど。」
と答えた。椿は少し考えてから、身を乗り出して
「ひょっとしてライターさんですか?」
とさらに問いを重ねた。
「まさか!」
由美子はびっくりして、隣に座る椿の方に振り向いた。
「じゃあ、出版関係のお仕事とか?」
由美子は膝の上にのせたままになっているシナモンロールの紙袋に視線をおとし、しばらく考えたのちに
「House wife・・・だったんです。去年まで。」
と答えた。椿は紙コップの蓋をはずし、コーヒーの温度を確かめながら視線を上げて
「そうだったんですね。本のあるところにいらしたので、その方面のお仕事なのかと思ってしまいました。私はプー太郎なんですよ。」
と言って自虐的に笑った。
「プー太郎って。久々に聞きましたよ。若いのによく知ってますね。」
由美子は話しながら、シナモンロールの袋を開けた。
「よかった、甘いけど美味しいですよ。」
と椿は笑顔を見せた。由美子は袋から取り出したシナモンロールを手でちぎっては口に運んだ。
「本当だ、美味しいですね。」
由美子の言葉に椿は大きくうなずいて見せた。椿の足元には小さなスズメが上を見上げながら歩き回っている。初夏のニューヨークは日が長く、公園はまだ十分に明るい。

 由美子は前を向いたまま、スッと背中を伸ばすと
「日本にいた時は図書館で働いていて。司書でなく、事務の仕事だったのですが。」
というと、バックからボトルを取り出して紅茶を飲んだ。
「やっぱり、本に関係するお仕事だったんですね。」椿は嬉しそうな声を上げた。由美子はシナモンロールを膝の上の紙袋の上に置くと、
「ビーコン[8]、ご存知ですか?」
と椿に訊いた。椿は袋に入ったままのシナモンロールを食べながら
「あの美術館[9]のあるところですよね?行ったことはないんですけど。」
と答えた。由美子は真面目な顔で
「そうです。こことは全然違います。」
というと大きく息をはいてから
「去年の12月に夫が亡くなって・・・」
由美子が次の言葉を発するまで、しばらくの時間があった。椿はシナモンロールの紙袋を膝に置いて、静かにそれを待った。
「車の運転ができないので、こちらに越して来ました。今日は彼の誕生日なんです。」
と一息に言うと、由美子は紅茶の入ったボトルのキャップに手をかけた。椿は背筋を伸して座り直し
「それは大変でしたね。」
とじっと由美子の瞳を見ながら言った。不意に由美子の目に湧き上がった涙は頬を伝って、胸に落ちると紺色のシャツに染み入ることはなく、丸い形を保ったまま、そのまま転がり落ちた。涙はいくつも、いくつも転がり落ちていったが、由美子のシャツにその跡を残すことはなかった。2人は図書館にいた時と同じように、言葉を交わさずに並んでそこに座っていた。



[1] 公園 Map 01
Bryant Park
タイムズスクエアとグランド・セントラル駅の中間、5番街と6番街の間、40丁目から42丁目に位置するオフィスビルに囲まれた緑豊かな公園。中央の芝生のエリアは夏は映画上映やコンサート、各所スポーツのイベントが行われ、冬はとスケートリンクになり、クリスマスマーケットも行われる。ニューヨーク公共図書館はこの敷地内5番街に面した場所にある。

[2] ソーホーの専門店
Harney & Sons  Map 02
世界の一流ホテルでも供されている1983年にコネチカットで創業された紅茶専門店。奥にカフェも併設されており試飲もできる。
433 Broome St, New York, NY 10013

[3] ブックオフ Map 03
日本語の本、漫画、アニメグッズ、D VD、電化製品などを扱っている。地下1階から中二階までの3つのフロアがあり、近年、日本語の商品よりも英語の商品が増えている。
49 W 45th St, New York, NY 10036

[4] 紀伊國屋  Map 04
6番街を挟んでブライアントパークの向かいにある、地下1階から地上2階までの店舗。書籍のほかに文具、日本製のギフトなども取り扱っている。エスカレーターで2階にあがったところにある「スラムダンク」「バカボンド」のマンガ家、井上雄彦氏の迫力あるモノクロの壁画は一見の価値あり。
1073 6th Ave, New York, NY 10018

[5] 図書館
ニューヨーク公共図書館本館  Map 05
地下1階から地上3階の優美なボザール建築でマンハッタン内の観光名所の一つ。ホリデーシーズンに1階入口ホールに飾られるクリスマスツリーも有名。1階のカフェが併設されたギフトショップには、オリジナルグッズの他にお土産に最適なおしゃれなニューヨークグッズも多くある。
476 5th Ave, New York, NY 10018

[6] レストラン
Bryant Park Grill Map 06
蔦に包まれたロマンチックなアメリカ料理のレストラン。店内の他に、テラス席、テント席もある。
25 W 40th St, New York, NY 10018

[7] 6番街の角にあるベーカリーカフェ
OLE & STEEN  Map 07
1991年にデンマークで創業されたお洒落なベーカリーカフェ。
80 West 40th StreetNew York, NY10018


[8] ビーコン
グランドセントラルステーションからメトロノース鉄道のハドソンラインで1時間半ほどの距離にある、アーティスが多く住むという地域。

[9] 美術館
Dia: Beacon 2003 年にニューヨーク州ハドソン川沿いに開館した現代アートに力を入れた美術館。広大な敷地の中に元包装紙の印刷工場だった建物を美術館に改装しており、スケールの大きなアートが数多く展示されている。
3 Beekman St, Beacon, NY 12508

小説 Suite 1101  | New York Map



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