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連載小説 |Suite 1101 -Chapter 4-

Life isn’t how to survive the storm; it’s about how to dance in the rain.
人生っていうのは嵐をどう生き残るかではないの。
人生っていうのは、雨の中でどう踊るかっていうこと。

Taylor Swift

「由美子さん、今日、ランチなに食べました?」
椿はのんびりした調子で由美子に尋ねた。
「今日は昨日の残りの筑前煮とベーグルです。」
「わぁ、いいなぁ。筑前煮には何を入れてるんですか?」
「適当にあるものを。にんじん、ごぼう、いんげん、こんにゃく、じゃがいも、竹輪、鶏肉がなかったので。」
「そういうの毎日作ってるってことですよね?」
「今は1人なので、毎日ではないですけど。他に作ってくれる人もいないので。」
「由美子さんて、本当に偉いと思う。」
2人は書斎と呼ばれる部屋のクローゼットから夏用のクッションカバーを取り出しているところだった。由美子がこの書斎倶楽部の手伝いをするように2週間が過ぎていた。その間に、倶楽部に来たのは、アートの管理をしている山下と、火曜日の花のデリバリーだけだ。山下は気にしないように言ってくれたが、由美子は役にたてていないことに、申し訳なさを感じている。
「お腹がへったから、デリバリーしようかなー。私はランチ頼むので、由美子さん、ケーキとか食べませんか?それとも、時間もあるし、お天気も良いから、気分転換に食べに行ってもいいですけど。今日、何曜日でしたっけ?」
「今日は水曜日ですよ。」
と由美子が答えると
「水曜日かぁ。多分、今日も誰も来ないんじゃないかなぁ。もし、来たら、ロビーで待っててもらって、帰ってくれば大丈夫。」
「えー!それはダメです。私が留守番しますから。」
「真面目ですねー!牡丹さんだって楽しんでるんですから。付き合ってくださいよー。」
と言うと、椿は勢いよくクローゼットの扉を閉めた。由美子は書斎の本棚に置かれた置き時計、で時間を確かめると
「近所なんですよね?私は会員さんがいらっしゃる時間までには戻ります。」
と由美子は宣言した。椿は大げさに
「わーい!やったー!」
と言うとばんざいのポーズをした。

 椿は携帯電話を無造作にデニムのポケットに入れて、由美子は上着の入ったキャンバス地のトートバックを肩からかけて通りに出た。初夏の風が頬に心地よかった。あと数日で7月になる。戸外の日差しは強く
「I need my shades. サングラスを持ってきたら良かった。」
と椿はひとりごとを言って、セントラルパークに沿って、5番街を北に向かって歩き始めた。身長は高くないのだが、歩幅が広いのか、由美子は少し小走り気味に後を追い横に並んだ。
「由美子さんのルームメイトは、どんな方なんですか?」
突然の質問に由美子は
「アメリカ人のお婆さんです。」
と答えた。今まですでに何日も一緒に過ごしているのに、由美子の住まいについて2人が話すのは、ほとんど初めてのことだった。
「アメリカ人のお婆さん?知り合いなんですか?」
と由美子の答えを繰り返しながら質問を続けた。
「いいえ、Craigslist[1]で探したんです。ニューヨークって家賃、高いので。」
「Craigslist?」
由美子のあっさりとしたカタカナ英語とは全く違う立体的な発音で椿が聞き返した。
「Are you sure? 本当に?」
と椿は目を見開いて確認した
「本当ですけど。」
由美子は何がそんなに驚きなのかわからないという調子で答えた。
「アンティーク超えて化石です。由美子さん、何歳なんですか、本当に凄い!」
「51歳ですけど。」
と由美子は答えた。
「じゃあ、そのお婆さんは何歳なんですか?」
「82歳です。今日はブリッジ[2]のクラブに行くと言ってました。」
「へー。」
「クイーンズの出身の元看護婦さんで、2度結婚して、2度離婚したんだそうです。」
「身の上話なんかもするんですね。」
「とてもお話好きな方で、あなたの英語の勉強にもなるからと、話しかけてくれるんです。」
「お金はもちろんですけど、由美子さんみたいに優しくて、お部屋をきれいに使ってくれて、話まで聞いてくれる人が来てくれて、おばあちゃんもラッキーですよね。」
と椿が言うと
「そう言ってもらってます。私も1人で住むより、心細くなくてありがたいんです。ガスとか、電気とかそういった契約もしないですみましたし。飲みものはなんでも好きに飲んで良いし、時々、クッキーやフルーツも分けてもらっています。」
「それなら良かった。」
と椿は言うと次の角を指差して、曲がることを目で告げた。86丁目の角を曲ると、角の建物の入り口にロープが張ってあり、10人ほどの人が並んでいる。椿はちらりと列を見ると止まらずに通り過ぎ、
「すぐ入れそうだったら、ここにしようかと思ったのですがまたにしましょう。」
と言った。
「レストランなんですか?」
と由美子が尋ねると椿は
「美術館の中にあるカフェ[3]なんです。オーストリアの美術館なので、ザッハトルテとかアップルシュトゥルーデルとかあるウィーン風のカフェで、ソーセージとかも美味しいんです。」
と答えた。マディソン街を北に向かって歩いた。時間までには部屋に戻りたい由美子は、落ち着かない気持ちで歩いているが、椿はのんびりと気分良さそうに通りにある店のウィンドウを覗いたりしている。数ブロック歩くと角に可愛らしいカフェがあり、由美子が店内を気にしているようだったので、この店に入るのかと由美子は安堵するが
「ここはグルテンフリーのお店[4]なんですけど、最初はこの先の小さい場所で若いお姉さんたちがやっていて、2階の席が可愛くて良かったんですけど、コロナ中にビジネスが上手くいったみたいで、広いところに移って値段がすごく上がっちゃったんです。客層もマダムぽくなっちゃって。」
と残念そうに言った。由美子も倶楽部から離れてしまうことに不安を感じて
「そうなんですねー。」
残念そうに返事をした。
「10年くらい前かなぁ。やっぱりグルテンフリーのケーキ屋さんが出来て、可愛いお店で、ミッドタウンに2号店も出来たから、順調なのかと思ったら2年くらいでなくなってしまったんですよ。早過ぎたんでしょうねぇ。」
椿は年配の女のような落ち着いた調子でグルテンフリー専門店の栄枯盛衰を語りながら歩いていく。由美子は
「そうなんですね。」
と答えながらも、椿はどこまで行くつもりなのかと、そればかりが気になった。


 マディソン街の華やかなお店が途切れたあたりで
「ここだ、ここだ。」
クリーニング店の隣の外から見るとカフェのように見える店[5]の扉を椿は押した。良かったと思いながら、由美子もそれに続いた。中は小綺麗なダイナーという感じのテーブルとソファが設置されていたが、デリバリーの準備に使われていた。
「ここもデリバリーがメインで、中では食べられなくなってしまったのか。おしゃれファミレスって感じで好きだったんだけどなー。うーん、コロナの影響も色々ですよねぇ。」
と椿は少しがっかりしたようだったが、お気に入りのサンドイッチを見つけると
「ちょっと落ち着かないけど、外のテーブルで食べていきましょう。」
と嬉しそうに言った。椿はサンドイッチと2人分のアイスカフェオレの会計をすませると、通りにあるテーブルにつき、大胆にテープを剥がしてサンドイッチの包みを開けた。
「見た目は地味なんですけど、ここのチキンサンドしっとりしていて味もきちんとついてるから好きなんですよー。パサパサのもあるじゃないですか。」
というとサンドイッチを食べ始めた。ただ通りに面しているだけなので、全く眺望の良い場所ではなかったが、気持ちの良いお天気だったので、2人とも外に出てきて良かったと言い合った。

Roast chicken sandwich with chive mayonnaise

   椿が3角形に切られたサンドイッチの2切れ目を食べ始めたところで、テーブルの上に置いた携帯電話が震えて画面には英語の名前が表示された。椿はチラリとそれを見て、カフェオレで口の中をおちつかせてからゆっくりとそれを耳にあてた。個人的な電話かもしれないので、由美子はなるべく聞かないようにと思い、視線を通りに向けた。幸い、由美子には相手側の声は全く聞こえなかった。手持ち無沙汰の由美子はテーブルの上に置かれた食べかけのサンドイッチを見ると、そこにはくり抜かれたように綺麗なU字がたの空白が出来ており、椿の歯並びの良さに感心した。椿は、多くの部分を聞くことに徹していて、ところどころ短く返事を返していた。聞かないようにしているし、由美子の英語力では全ては理解できないものの、椿の知り合いの誰かが転倒して病院にいるようだった。電話は5分もかからなかった。電話が終わると、椿はカフェオレを一口飲んで、携帯で時間を確認した。1時半を過ぎたところだった。由美子は黙って、椿が話しだすのを待った。

「牡丹さんのお友達で、倶楽部の会員でもあるスーさんという方がいるんですけど、ブラウンストーンのウォークアップのアパート[6]に住んでいて、通りにおりる階段あるじゃないですか?」
「ああ、あのセサミストリートみたいな?」
「由美子さん、セサミストリートって、ウケるんですけど。ゆみこさんの世代なら、SATCのキャリーが住んでるの方がメジャーじゃないですか?で、スーさんはその階段おりる時に転んでしまって。ブレストキャンサーのサバイバーなので放射線治療の後遺症で、骨が弱くて、2年に1回くらいどこかの骨が折っちゃうんですけど。」
と言うと、椿はまたカフェオレを飲んだ。
「美味しい。本人も慣れてるから、外の階段に座って、スーパー[7]を呼んで、キャブに乗せてもらって、行きつけの病院で診察を待ってるところなんだそうです。2時からのABT[8]のチケットがあるから、もし良かったら、どうぞ、って電話なんです。すごくないですか?骨折してるかもなのに、そこ?って思いません?これも伝説になるなぁ。」
「その方、病院にいらっしゃるんですよね?」
由美子の質問に
「そう言ってました。常連なので、本人も主治医も慣れているので大丈夫とは言ってましたが、私はこれから病院に行きます。牡丹さんにも連絡しなくちゃ。」
「そうですね、それが良いですね。」
うんうんと由美子はうなずいた。
「ABTは由美子さんが行ってください。」
「まさか、椿さんが病院の後にいらっしゃたら?」
「それがマチネのチケットで。」
「マチネの?何時からなんですか?」
「2時からです。」
「間に合うんですか?」
「無理っぽいですね。2幕には間に合いますよ。」
「え?でも、倶楽部は?私は戻ります。」
と由美子が言うと
「スーさんがチケットのことすごく気にしてるので、由美子さんはABTの方をよろしくお願いします。牡丹さんもその方が絶対に喜ぶので。そもそも、今日、会員さんが来るかもわからないじゃないですか。来ない可能性の方は高くないですか?」
と椿は軽く笑いながら言うと、由美子は黙り込んだ。
「由美子さん、ABTご覧になったことありますか?」
由美子は椿が説得モードに入ったなと思いながら、勢いに負けないように
「ないです。バレエは見たことないです。」
と冷静に答えた。
「だったら、ぜひ行ってください。オケも生だし、美しいですよ。スーさんのことだから、ジリアンの日[9]だと思いますけど、彼女もいつまで踊ってるかわからないないし、私たちだって、次のシーズンに生きている補償はないですからね。生きていたとしもニューヨークにいないかもしれないし。」
という椿の軽口に、由美子は
「本当にそうですよね。」
と言うと、目を伏せた。
「あ、ごめんなさい。」
由美子の夫が昨年、突然亡くなったことを思い出して、椿は慌てた。
「いえいえ、全然良いんです。本当にそうですよ。」
と由美子は言うと、きっぱりとした調子で、
「わかりました。私行きます。2幕は、何時からですか?」
と尋ねた。椿はひと口だけ食べたサンドイッチを包みなおしながら、
「ダメもとですけど、今からUberで行ってください。チケットはメールで転送しますね。」
と言うとテキパキと2台のUberの手配をがじめた。
「ありがとうございます。」
と由美子は言った。


 椿が呼んでくれたUberは期待以上の速さセントラルパークを横切り、由美子がリンカーン・センターの[10]の前に着いたのは2時10分にもなっていなかった。涼しげに水を噴き上げている噴水のある広場に人影はほとんどなかった。噴水とオペラハウスの間には臨時のステージのようなものが設けられて、作業員たちの姿が見えた。リンカーンセンターに来るのも、オペラハウスに入るのも初めての由美子に、椿がUberを待っている間に位置関係を説明してくれていたので、由美子は小走りに正面奥のオペラハウスの入り口に向かった。入り口も閑散としている。中央のガラスのドアはすでに閉じられており、中にいる劇場の係員が指差す端にある開いているドアから中に入った。IDを下げた親切そうな女性が近寄ってきて、パンフレットを手渡し、入場口まで付き添ってくれる。係員にチケットのQRコードをスキャンしてもらうと、オーケストラと呼ばれる1階席の脇の通路に行くように示される。これも、椿の説明通りだ。開演に遅れた観客はオーケスラ奥の小部屋、と椿は言っていたが、実際には小劇場のような部屋で、数メートルしか離れていない大劇場で行われてるパフォーマンスをライブ放送で見ることになるのだ。ライブビューイングの一種だ。スクリーンには中世の広場のようなところで踊っているダンサーたちが映し出されている。小劇場に観客は誰もいなかった。開演に間に合わなかったのは自分だけなはずはないと不安になった由美子はその部屋から出て、入り口に戻ろうとするが、近くにいた劇場職員と思われる男に、首をふりながら部屋に戻るように促され、仕方なくその部屋に戻った。誰もいないので、逆にどこに座って良いのかわからず、端の方に座りそうになる。由美子は少し考え、自分を奮い立たせるように、中段の中央の画面が一番よく見える席に座り、足を組んだ。それから携帯を取り出すと

[劇場につきました。間に合わなかったので、小部屋に案内されました。]

と椿にテキストを送った。

劇場の中から広場への眺め
遅れてきた観客のための小部屋


 画面の中では街の広場で年頃の王子に皆が結婚を薦めているようだったが、王子は気乗りでない様子だ。華やかな衣装を身につけたダンサーは脇役まで全員が美しく、由美子はその動きに見入りながら、美しすぎると現実感はなくなるのだと思った。舞台は一転、夜の湖のほとりに変わった辺りで、劇場係員に連れられた団体がゾロゾロと小部屋に入ってきた。開演からはすでに小一時間が過ぎている。子供を連れている者、手に飲み物を持っている者もいる。これが、劇場に来ることが、特別でない人たちなのかと、由美子はそっと様子を伺った。子供たちは最前列に座り、静かに画面を見始めた。白鳥たちのシーンが続き、最後は誰もが知っている旋律と共に1幕が終わった。

 部屋にパッと明かりがつくと、遅れてきた観客たちはのんびりした様子で立ち上がり始めた。由美子トートバックを持つと急ぎ足でロビーに向かかった。携帯を確認すると先ほど椿に送ったテキストが送られていなかった。劇場の中は電波が弱いらしい。ロビーから送り直してみると今度は送る事ができた。由美子がさらにテキストをタイプしていると

[👍👍👍
スーさんはやっぱり、骨折していました。しばらく入院することになったので、家に荷物を取りに行って、病院に届けます。]

と椿から返事がきた。由美子はテキストを送った。

[スーさんは大丈夫ですか?]

[初めてバレエを観る人に行ってもらえてよかった、ありがとうと言っています。]

という返事がすぐに帰ってきた。骨折で入院している人からとは思えぬ言葉に

[1幕はとても美しかったです。2幕も楽しみです。ありがとうございます。]

と由美子がテキストを送信すると

[Have fun! いつかジリアンを一緒に見ましょうね]

というスーさん言葉に笑顔の絵文字を返し、由美子は2階席に向かった。


 これも椿から説明されていたが、パルテアと呼ばれる2階席は席数が少なく、正面の席はスペースが広く専属の案内もいる。携帯でチケットを示すと、係員が正面の席の後ろを通り、重厚なカーテンを支えて、劇場の側面の壁に沿ったボックスへ席へと案内してくれた。小部屋のように仕切られたその部分には8つの席があったが、休憩中なためか誰もいなかった。由美子は椅子の番号を確認しながら、席につくと劇場の写真を撮った。オーケストラと言われる1階席はほとんどの人が外に出ているようだった。背後通り抜けたパルテアの中央の席を前側から見てみた。美しく髪をまとめた上品な身なりの高齢の女性グループや、自分と同じくらいのアジア人のカップルの姿も見えた。そう思って見るからかもしれないが、グランドティアと呼ばれる3階席とも、1階のオーケストラとも違う客層に、
「ファンシー、プラス違いがわかるって感じの人たちの席です。」
という椿に解説を思い出し、由美子は
「なるほどです。」
と言葉がでた。自分の席で入口で渡されたパンフレットを開けてみると、折り畳まれた小さな紙片が挟まれていた。眼鏡をかけないと読めない字の大きさに、シニアの観客のことをもっと考えてあげたらという思いが頭をかすめ、自分もシニアみたいなものだと苦笑する。紙片にはスーさんの推しのジリアンは体調不良のため降板して、イザベラが代役をつとめると書かれていた。由美子は1幕でジリアンだと信じて観ていたのはイザベラであったことに、ちょっと拍子抜けしたが、ジリアンの舞台も観てみたいと思った。


 開幕を知らせるチャイムが鳴ると、観客たちは驚くほどのスムーズさで自分の席についた。劇場の明かりが消える前に見渡すと休憩時間に空いていた席はほとんど埋まっていた。由美子の座っているボックスシートも自分の隣以外は全て埋まっている。地方から来たらしい年配のカップルが2組と、大人しそうな女性の2人連れだ。地方から来たカップルは女性同士が友達らしく一緒にはしゃいでいるが、男性たちはバレエには興味がなさそうだった。女性の二人連れは、詳しい内容はわからないが、裁判の話をしていたようだった。由美子のパルテアの中央席のような人たちと一緒になったらと言う不安は杞憂に終わった。由美子は平日の午後にバレエを観ている人がこんなに沢山いることに驚き、自分とは関係のない世界に入り込んでいる不思議な高揚感につつまれた。
 2幕はお城でのパーティーからはじまった。劇場内で見るダンサー、オーケストラの音の響きは小劇場のスクリーンのそれとは全く違っていた。由美子は身を乗り出して、舞台に見入った。1幕で白鳥のオデットにあんなに愛を誓ったにも関わらず、簡単に黒鳥オディールの手玉に取られる王子に怒りと失望を感じるほど物語の世界に入り込んでいた。おとぎ話のように最後はハッピーエンドになるのだろうと思っていた由美子は、失望したオデットが湖に身を投げ、それを追って王子までもが身を投げた時は思わずため息がもれた。チケットを譲ってくれたスーさんのご贔屓のジリアンの代役をつとめたイザベルの素晴らしいパフォーマンスに観客の拍手は鳴り止まず、何度もアンコールで舞台に出てきて観客に応えた。お目当てのダンサーでなくても、パフォーマンスが素晴らしければ、惜しみない賞賛を送る観客たちを由美子は好もしく思い、立ち上がって拍手をした。


 膜に包まれたような心地のまま他の観客たちの波に乗って、劇場の外に出た。外の熱気が一気に由美子を現実に引き戻した。由美子は携帯を取り出すと
[今から倶楽部に戻ります。]
と椿にテキストを送った。椿からはすぐに返信がきた。
[今、スーさんの部屋に来ています。広川さんが6時ごろ倶楽部にくるかもしれません。]
「え!今日?」
由美子は自分がそれを口に出して言っていることに気づいていなかった。早足で広場の片隅に行くと、トートバックからノートを取り出した。椿から聞いた話で、倶楽部に関係あることをかきとめたものだ。会員と書かれたページを開いてから、眼鏡をかけ、広川の名前を探したが、見当たらなかった。椿に広川のことを尋ねようか迷ったが、相手の落ち度を指摘するようで気が進まず
[了解です。椿さんはお戻りになりますか?]
とテキストを送った。
[手ぶらで出てるので、病院に荷物を届けたら戻ります。ひょっとしたら広川さんの方が先に着くかもです。よろしくお願いします。]
という返事に由美子はこめかみを抑えながら笑顔の絵文字を送り返した。携帯の時計をみると、4時半すぎだった。椿がスーさんから電話を受けてからちょうど3時間が過ぎていた。ABTも私たちも盛りだくさんな1日だと由美子は思った。



[1] Craigslist
1995年サンフランシスコで始まり、全米と世界各地に広まった、老舗クラシファイドコミュニティ。物品の交換や、各種人員の募集情報などが多数掲載されている。

[2] ブリッジ
コントラクトブリッジのこと。トランプカードを使って2人ずつのチームに別れて4人で行うゲーム。

[3] 美術館の中にあるカフェ Map11
CAFÉ SABARSKY ノイエギャラリー(Neue Galerie New York)1階にあるオーストラリア料理のレストラン。BGMは1890年から1930年のクラシック音楽
1048 5th Ave, New York, NY 10028

[4] グルテンフリーのお店 Map12
Noglu パリとニューヨークにあるおしゃれグルテンフリーベーカリー。2023年7月には並びにアイスクリーム専門店もオープン
1260 Madison Ave,New York, NY 10128

[5] クリーニング店の隣の外から見るとカフェのように見える店 Map13
Yura On Madison 小綺麗なベーカリー。サンドイッチやお惣菜も美味しい。
1350 Madison Ave, New York, NY 1012

[6] ブラウンストーンのウォークアップのアパート
Brownstone Houses は、19世紀に建てられたレンガ造りの4、5階建てのエレベーターのない建物。

[7] スーパー
superintendent
アパートの管理人

[8] ABT
American Ballet Theater 1937年創立、ニューヨークに本拠をおく北米最高峰のバレエ団。母体劇場は、リンカーン・センター内にあり、毎年8週間の春季公演をメトロポリタン・オペラ・ハウスで、それより短い秋季公演をディヴィッド・H・コーク劇場 (David H. Koch Theater) で行う。

[9] ジリアン
Gillian Murphy 2002年からABTのプリンシパルをつとめる。確かなテクニックと愛らしいヴィジュアルで人気が高く、人気テレビシリーズGossip Girlsに本人として登場した。若手ダンサーの育成にも熱心で、日本でも指導も行った。

[10] リンカーン・センター Map14
オぺラハウス、コンサートホール、アート専門のニューヨーク市立図書館、野外劇場、ジュリアード音楽院などのあるアッパーウエストサイドにある文化総合施設。夏季は屋外でのイベントも開催される。
150 W 65th St, New York, NY 10023

小説 Suite 1101 | New York Map■


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