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長野・塵表閣~画家が集った宿~

先日、長野・安代渋温泉、塵表閣(じんぴょうかく)のご主人がお亡くなりになったとの報せを受けました。
ご夫婦が高齢で、数年前から旅館業は辞められていたのですが…寂しい限りです。

塵表閣は、日本画家・中島清之先生とのご縁も深かったようです。
中島清之先生は、主人が高校生の頃から、ご自宅に定期的にお邪魔していました。
主人が画家になるきっかけとなったのも中島清之先生です。
そのご縁で、主人も塵表閣を常宿にしていました。

記憶の奥に埋もれないうちに、塵表閣に関わる事柄を書いておこうと思います。

※(注)近くに「塵表閣本店」がありますが、そことは別ものです。

塵表閣とは

塵表閣(じんぴょうかく)は、昔からある安代渋温泉(長野)の温泉宿です。
現在、旅館は閉館、建物は住居として使われていると聞きました。

下記サイトに旅館時代の情報が残ってました。

浴室は源泉かけ流し。源泉から近いため湯の温度が52度近くありました。
温度を下げながら入るのですが、主人は、どこまで高温に耐えられるか仲間と競い合った事もあるそうです。

また、浴室に下る階段から背伸びすると男湯・女湯も見え、ある意味大らかな雰囲気でした。

塵表閣のご主人が、画家との付き合いを好み、多くの作家がこの宿を常宿として使用していました。

塵表閣と中島清之先生

主人が聞いた話ですが。

中島清之先生は、疎開で長野の小布施に滞在された時期がありました。
その際、一時的に小布施で宿泊場所が見つからなかった時があったそうです。
その折に塵表閣のご主人と知り合い、宿に招かれ、しばらく滞在していたそうです。

それがきっかけで、塵表閣とのご縁が始まったとのことです。

塵表閣には、中島清之先生の絵も数点ありました。
先生の「雪山の子供の絵シリーズ」も、塵表閣から通って取材されたと伺いました。


塵表閣と画家たち

塵表閣には、様々な画家が訪れました。

日本画家の奥村土牛先生をはじめ、院展の先生方も、よく利用されていたそうです。

宿泊した先生方が御礼として寄贈された絵、また、昔、お金のない画家が、宿泊代の代わり(御礼)に絵を贈ったものなども含め、多くの絵がありました。
それらが客室にさりげなく飾られていて、とても贅沢な空間となっていました。
主人の記憶によると、池田 満寿夫の版画もあったとのことです。

様々な作家の作品
主人も絵を寄贈してます(一番右)

ちょっと面白いのが、次の部屋のふすま絵です。

これは、ある作家が酔っ払って襖に一筆入れたところ、次に宿泊した作家が描き足し、またその次に宿泊した作家がさらに描き足し…と、いわゆるリレー方式で絵が出来上がっていったそうです。

私たちの思い出

主人が最初に塵表閣に訪れたのは、今から約30年前、おぶせミュージアム・中島千波館オープニングの時でした。

当時は、横浜から、作家・教室の生徒・中島清之先生研究会の方々など、40~50人がお祝いに駆けつけたそうです。
皆で塵表閣に宿泊、大広間で一同に集まり、大宴会となったそうです。

主人はそれから長野取材の折には、塵表閣に宿泊するようになりました。

ほぼ毎年訪れていたのもあり、主人が仲間など連れて行く時は、他の予約を受けず、貸し切り状態で「客室全室、好きに使って~」という状態にして下さっていたそうです。

主人と知り合ってからは、私も何度か宿泊させて頂きました。
とても素敵なご主人と女将さんで、毎回、楽しく過ごせました。

ある時、夕食の白菜と豚肉の鍋が大変美味しかったので、私と主人で、あっと言う間に食べてしまった事がありました。
女将さんはニコニコ笑い、サービスで、お代わりを2回(大鍋ごと)頂いたのが印象に残っています。
 
私と主人と仲間数人と泊まった時、カラオケもこっそりサービスで使わせて頂いた事もあります。
夜中まで騒ぎすぎて怒られた事も、今ではいい思い出ですw

さいごに

本当に素敵な宿でした。良い思い出が沢山あります。

もっと写真を撮ってた気がするんですが、奥にしまい込んでしまったようで…。
見つかったら追加するかもしれません。

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