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『百田尚樹をぜんぶ読む』を右派の立場から読んでみた(後編)

「右派はこういう風に考えている」わけだが…

さて、前半で杉田俊介・藤田直哉両氏による『百田尚樹をぜんぶ読む』で、非右派(左派・リベラル?)の批評家のお二人が、右派である(とみなされている)百田尚樹氏の作品を通じて、その心理に分け入っていく作業を読みつつ、右派である私の立場から、「どうして右派がそういう言動を取るようになったのか」を書いてみました。

もちろん「勝手なことを言いやがって」とか「(ヘイトなどで)人を傷つけているくせになんだ」みたいな感想もあるかもしれませんし、人によってはもっと打算的に「右派っぽい言動」をしている可能性もあります。実際、ポジション取りで言論を展開しているとしか思えない文筆家もいますので、その分析が右派論者全員に当てはまるわけではありません。

あくまでも右派である私が、00年前後から右派言論に触れ、右派的な人たちと生身の交流もある中で感じていることなので、そこはご了解をいただきたいところ。左派からだけでなく「違うだろ」という右派からのツッコミもあると思いますので、ご意見はぜひお寄せいただければと思います。

罵り合いから、「手打ちの陣地」まで

じゃあ、右派がそういう思考から時にヘイトや歴史修正と見られるような言動に及ぶのは分かったけど、で、どうするの? という話ですが、筆者のお一人、藤田氏は企画意図についてこう書いています。

闇雲に批判し糾弾するだけでは「分断」は激しくなる、であるならば、相手を一人の人間・作家として敬意を持ち、その作品に真剣に対峙する、そして、良いも悪いも正直に言う、そのことで「分断」や「友敵」の二項対立の構造を超えることができるのではないか。そんなことを、企画を始めるときに考えていたと思う。

これですよ! 二項対立で分断して、陣営同士で相手を厳しく批判し合っていても、言葉だけが過激になっていくばかりで実態が何も進んでいないんじゃないか……という状況について、どうすりゃいいかと考えたら、「相手を理解できそうな部分」を拾って話をしていくしかないんじゃないか…というふうに、私も思ったわけです。

保守の側も、「自分の抱えている(例えば歴史に対する)無念を理解してくれさえすれば、その先に反省もあり得る」とは思っている(うっすらかもしれないけれど)。また、自分たちのナショナリズムが肯定されれば、韓国や中国のナショナリズムについても理解できるんじゃないかとか、これはまあちょっと飛躍していますが、そんな風にも思う。しかし頭から全否定されたら反発するしかないわけで。それはたぶん、左派の方とて同じ部分はあるんじゃないでしょうか。「じゃあどっちが先に一歩譲るんだ」「譲ったら我慢できないところまで蹂躙されるんじゃないか」という恐怖感があって、お互い拮抗している部分もあるかもしれません。

その点で、本文中の以下の杉田氏の部分には、これだけでも救われるものがありました。

エスタブリッシュメントやリベラル左派の悪いところなんだけれど、保守的な人々や高齢者の人々が抱く不安や恐怖を、ちょっとバカにするじゃないですか。ちゃんと正しい情報をもってすれば不安や恐怖は解除されるはずだと。高い意識を持たなきゃいけないと。でもやっぱり、不安や恐怖もわかるわけですよ。海外から今まで以上に人が流れ込んできたら、これまでの伝統や秩序が破壊されるんじゃないかと。実際にそういう面がないではないからね。

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ここもまた孔明にならざるを得ません。

ありましたよね、反知性主義認定とか。

しかもこれ、実は右側も裏返しになっていて、例えば国家に権力を預けるという点などに置き換えると、「左派が抱く不安や恐怖をちょっとバカにしている」んですよね。例えば憲法改正や安保法制について「理想主義を捨てろ」とか「現実が見えてないのか、お花畑が!」という物言いになるわけです。

でも相手が何を大事にしているのか、「変える」際にどこが引っかかっているのかが分かれば、少なくとも罵り合いから話し合いくらいまではグレードを上げることができるのではないか。叩き潰すだけの言論から、少なくとも説得を試みようという姿勢へ転換し、なおかつそれがそれなりに応援してもらえるものだとなおいいですよね。

だからこそ、今後もきっと長く続くヘイト社会の中で、リベラルな人たちと保守的な人たちがそこそこ共有できる、「そこまでは認められるよね」という手打ちの陣地をどんどん作っていくこと、そういうプラットフォームを底上げしていくことが大事ではないか。

そうですね……。全くそうなんです。

右派の方がここだけでも読んでくれたら、「リベラルさんがそう言ってくれるなら、こっちもちょっとは譲ってもいいですよ…」という心理にもなりませんかね。私はなりましたが。

「相手陣営を殲滅せよ」という絶滅戦争からの脱却

そうして話ができるようになれば、「相手陣営を殲滅しなければこの国の未来はない」みたいな絶滅戦争を展開する必要性は低下するんじゃないかと。そうすると皆さんうんざりの「分断」が、少なくとももう少しましな「討論」レベルにはなってくるかもしれません。

これは私がこのnoteで縷々書き溜めている「あべ本レビュー」というシリーズの中で読んだ本から学んだことでもあるのですが、「みんなおんなじ考えじゃなくていいんじゃあないの」という話にもつながります。国家権力に懐疑的な人と、そうでない人が存在することはお互いに認めたうえで、お互いを「いい感じ」にチェックし合えばいいんじゃないか、という。

「絶対ダメなもの」のラインは引くとしても「俺はそう思わないけど、お前がそう思うのはまあ分からんではない」とか「その視点大事だけど時に行き過ぎるから、危なくなったら私がブレーキ踏みますね」的な「手打ちの陣地」を設けておくことで、少なくとも話ができる状況を作り、さらに「社会の同じ問題について、お互いに違う観点から点検し合い、状況を好転させられる提案であれば『論敵』の案でも参考にする」みたいなことができるのではないでしょうか(というか、政治的な問題もツイッター論争ではこれができないわけですが、現実の政治ではおそらくそこそこやっているんじゃないかという気もします)。

カウンターの打ち合いから建設的な論争へ

その時に大事なのは、「自陣営のヤバいヤツは自浄作用で何とかしようね」という話。例えば文書改竄問題に関して左派の人が安倍政権を批判しても「左派だからな」「反日だからな」で片づけられてしまう。右派は無理にでも擁護しようとおかしな論理をひねり出す。しかし「さすがに改竄はナシ」ということで「さすがの右派もこれは許さないんだな」と左派と政府に伝えられれば、右派に対する見方が変わる……もしかしたら政府自身も変わるかも、というようなことです。

いまは安倍晋三(安倍政権)を批判しただけで左派扱いされる状況になっており、私もプレジデントオンラインで書いた下記の記事に対して、ツイッターで「これだから左翼は」みたいなことを書かれて呆然としたんですが…(笑)。

現在のような言論の「分断」状況では、カウンター的に「あいつは左翼だから」「こいつは安倍応援団だから」と言っていれば応戦しているかのような感じになってしまっていますが、これを変えたいところ。そのためにも、大きく二つに分かれた陣営でいえば、互いに自陣営の中でもそれなりに相互批判ができる状態をまず作ることが大事ではないか。そして、相手陣営でもいいものはいいといえるようになれば……。

割といい兆しもあって、例えば左派でも、某有名アカウントによる安倍夫妻に子供がいないことを揶揄るツイートに対しては「ヘイト通報」が行われていました。また、右派の中でも結構熱心なファンの多い虎ノ門ニュースの視聴者でも、「誰それさんの担当の日は見ない」「ファクトチェックが甘いネットの情報を流している」「某氏は情報元が不確かな話を事実のように流布している」という批判的な声が出てきている状況があったりします。

それが人格否定になり、論客がファンをファンネルのように使い、フォロワー同士の抗争に駆り立てたりするのは本当に下品だなと思うわけですが、そうではなくて「同じ目的を持っているからこそ、今はそういうのやめようよ」ということが言えるようになっていくととてもいいのにな…と。

そしてさらに、全く逆側の、これまで「潰すべき論敵」と思っていた相手から学んだり相手に影響を及ぼせるようになれば、単にストレスにしかならない相手の存在が、自分の考えを深めて実際の社会をもいいものにしていく味方になるとしたら、こんないい話はないわけで。もっと言うと、敵を叩くことで言論を成り立たせているフルボッコ論者は、こうした左右の意義ある交流が増えてくることで立つ瀬がなくなります。私も朝日新聞さえ叩いていれば記事が書けるという面がなくはないんですが……それじゃ先はない、ってこと。

朝日新聞記者の一言にホッとした経験

朝日新聞についての一つの経験を挙げると、朝日新聞の峯村記者が『潜入中国』(朝日新書)のあとがきで、「過去の朝日新聞の中国報道には間違いもあった」というようなことをお書きになっていました。これを読んで私は本当に心からほっとしたんですね。あんまり右派がこのことを拾っていないのが残念なので声を大にして言いたいのですが、記者の良心を感じたし、これを書いてもパージされない朝日新聞という会社への評価も少し変わりました。また、実際に昨今の朝日新聞の中国報道は中国をきちんと客観視して分析されていて、こうした変化はこれまでの反朝日的人たちこそ、大々的に評価したいところ

右派からすると「朝日を叩けば盛り上がる」みたいな絶対的カードを失う代わりに、もっと大きなものを手にできるはず。「朝日だから叩く」というのではなく、是々非々で評価する、という自分の評価軸をきちんと持たなければならなくなるので大変ですが、そうでなければメディアリテラシーなど持ちようがないわけです。そして現実の社会も、単なるシバキ合いではなく建設的な話ができるようになっていく……かもしれない。

もちろんそんな簡単にはいきませんし、「改憲か、護憲か、どっちだ!」という踏み絵を迫られる部分は今後も全くなくなりはしないでしょうが、「なぜ改憲なのか」「なぜ護憲なのか」を話し合うことくらいはしてもいいはず。何か今はもうそれすらまともな話し合いができない状況がありますよね……。

そういう希望的展望を本書からは感じることができましたし、だったら右派からも「そうそう、こっち(右派)にもそう思っている人はいるんですよ!」と応答したい。

というわけでかなり長くなりましたが(そして百田尚樹氏は全く出てきませんでしたが)、お付き合いいただきありがとうございました。『百田尚樹をぜんぶ読む』は、アンチやファンだけでなく、百田尚樹氏に関する情報はないけれど、政治や世論の「分断」については何かモヤっている、という人にも得るものが多い一冊です!

また、本書を経て書いたこの記事と、以下の記事もかなりつながるところがあると思うので、お時間あります方はぜひ。今回の前後編はかなり自分のこれまでの記事を引いてしまいましたが、よろしければ。


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