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『百田尚樹をぜんぶ読む』を右派の立場から読んでみた(前編)

右派でない人は右派をどう見ているのか

右派(保守・ネトウヨ・安倍支持者など)を批判・批評する本はなるべく読むようにしています。私は安倍支持者ではないけれども右寄りの自覚はあり、(「オンライン排外主義者」などともいわれる現ネトウヨより以前の)ネット右翼的なところもあると思っているため、「右派以外の人が右派をどう見ているのか」が気になるからです。「わかってくれてるな」と思うものもあれば「そうじゃないんですよー」というものもあるわけですが。

というわけで読んでみましたこちらの本、杉田俊介・藤田直哉『百田尚樹をぜんぶ読む』(集英社新書)。

私は百田尚樹作の小説は一冊も読んだことがありません(「保守論客」としての対談やエッセイは雑誌で読んだ)。そもそも小説をほとんど読まないため、作家論や作品批評の作法なりなんなりも分からず「フィクションであるところの小説や登場人物の言動を分析することで、書き手本人の思想がどこまで分かるものなのか?」というのも判断がつきません。

なのであまりいい読者ではないかもしれませんが、「保守論壇」そのものに興味がある私の立場からは、やっぱり読んでおく必要があろう、そのうえで感じたことは書いておきたいと思う次第です。

この本が出ること自体、保守論壇での百田尚樹の存在が大きい、と非右派(左派・リベラル)からは見られていることの証左でしょうから。約1年前には『NewsWeek』で石戸諭氏が「百田尚樹特集」記事を書いて話題になりましたが、「やっぱりいまの保守論壇のエース(最も目立っている人)=百田尚樹」と見られているんだなぁと。これは保守出版界やネット(番組・本人のツイッターなど)、総理との近さなどを合わせての「存在感」なのでしょう。本も売れてますしね。

そういうわけなので「百田尚樹」そのものからは外れてしまうのですが、「右派・保守派の思考」について本書を通じて感じたことを書いてみようと思います。また、筆者の一人・藤田氏が〈(相手を)「悪魔化」してイデオロギー的に糾弾するのをやめよう〉という意図をお持ちということもあり、何らかの左右の議論の材料になればという気持ちもあり。

韓流だった母がケントの「嫌韓本」を!

さて、実は最も印象的だったのは、杉田氏の母についての記述でした。韓流にハマって韓国語を習い、韓国へ旅行に行き、韓国人の友人もできたにもかかわらず、「友達からいい本を教えてもらった」といって、ケント・ギルバートの嫌韓本を取り出したというエピソード。

すごいショックでした。なんで韓国文化にこれだけ触れてきた人間がそうなってしまうのか。話を聞いてみると、一つの原因として、実際に韓国の人々との付き合いができると、ほとんどは良好な関係なんですが、たまにはやっぱり日本を批判する人もいるし、韓国の文化こそが日本文化の起源だとマウンティングされたりもする。そうすると、知識がないから反論や論駁もできないし、何年も経つうちにいろいろ傷ついていたみたいなんですね。

その時に「たまたま」友人から渡されたのがケント本だったというわけ。この後、杉田氏は母親にどんな言葉をかけたのかものすごく気になる。「だったらこっちを読みなよ」と別の本を渡したりしたのでしょうか?

これは以前にnoteで書いたことともつながるのですが、「なんか韓国に言われっぱなしなんだけど……実際どうなの?」と思った時に手軽に手に取れる本(雑誌)が嫌韓寄りのものばかり目立っている、というのは結構大きいのではないかと思います。

もちろん、『ぜんぶ読む』でも指摘があるように、百田氏に限らず右派本の中に「事実のチェックが甘い」(言論戦で闘うためには厳密な事実にかかずり合っている暇はない、相手もフェイクを使ってくるのだから、的な論法も含む)点があることはその通りなのですが。

でも、杉田氏の母の「傷ついた」経験というのは、いわゆる「右寄り言論」を理解するための重要キーワードでもあるんですよね。

もし歴史問題で個人としての日本人が韓国人から咎められるようなことがあったとき、どうすればいいのか。個人に対して「自分たちの先祖が悪いことをしたんだから我慢しろ」というのは酷ではないかという気がします。「日本人が『傷ついた』といったって、慰安婦のおばあさんに比べたらその程度の傷なんて……」と言われかねないけれど、どうしてもわだかまりは残る。

ここは結構難しいところで、国民(民族)としての歴史や記憶、恨みなどと、個人としての自分が背負うべき範囲というのはものすごく大きなテーマなんですよね。「歴史を知る」という作業と、それを自分個人の中でどう整理するかという二段階が必要になる。

山崎雅弘氏は『歴史戦と思想戦――歴史問題の読み解き方』(集英社新書)で「なんで『大日本帝国』がやったことを責められているのに『日本国』民の右派が自分が責められたような気になって怒るんだ」みたいなことを書いていましたが、じゃあだからといって「昔の日本がやったことはおかしいと思うけど、私に言わないで」と言って済むかというとそういうもんじゃないわけですよね。「歴史を知らないやつはこれだから…」「加害者としての自覚がない」的なさらなるマウンティングを、同じ日本人からさえ、されかねないわけです。少なくとも、杉田氏の母上が傷ついたことに対する手当ては、リベラル文脈からは出てこなかったのが戦後の言論空間だったのかもしれません。

右派が持っている「被害者意識」

その「傷」については藤田氏も本書でちょいちょい触れていて、例えば反中・嫌韓本がある種の読者にとって「メンタルヘルスケア」になっていること(を、その手の本を出している人が吐露している点を引いて)に触れたり、右派が「脅かされている」「押し込まれている」という恐怖心から差別的だったり攻撃的な言動に至っているのではと指摘していました。

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ここで私は孔明にならざるを得ない。

実際そういう面はあるんですよね。スレッドになっているのでご興味のある方は以下のツイートをお読みいただくとして…

この本ではあまり感じませんでしたが、中国・韓国批判を批判する物言いの背後には「弱者を差別している」という思いが透けて見えることも多いのですが、右側からすると(もう)この両国は「弱者」ではない。というのは中国はそのものズバリ大国になってしまってますし、韓国については「国内の大メディア(朝日)が寄り添って一緒になって日本攻撃をしてきた」と右派目線からは思えるからなんですね。

もちろんだからといって両国の国民や民族性を侮辱するのはおかしいと私も思います。しかし国に対する批判や「お国柄」分析とヘイトの線引きはあいまい。ヘイト本批判系の本も読んでいますが、「なぜ韓国民による日本国批判はOKで、日本国民による韓国批判はOUTなんだ」という疑問は残りますし、これも結局は韓国=弱者・被害者としているからでないの? と思うことも多々ありました。トランプを袋叩きにしてもヘイトとは言われないのに、文在寅だとヘイトになる、とか。その弱者扱いはもはや韓国に失礼じゃないか、ことさら「韓国をマメ扱い」していないか? と思うようなこともあります。

ここの認識の差は結構大きいと思います。右派からすると中韓は「弱者」ではなく、むしろ「朝日などの大メディアと一緒に、(少数派でメインストリームから追いやられている)自分たちを脅かす(強者)」的な見方をしている。例えば「行動する右派」系の人たちによる「在日特権」批判がありますが(「在日特権」そのものは存在しないのですが彼らの認識の中では)、これも「奴らは特権階級、優遇されている」「日本人は虐げられている」という強者と弱者の認識の逆転があるからこそ成り立っている。私は許容できませんが、こうした認識から「彼らの気持ちも分かる」「あそこまでさせるに至った状況を理解すべき」とかつて解説していた保守論客もいます。

本書でも「なぜあれだけ(中韓に)差別的な言動をする百田尚樹が(フィクションの中とはいえ)マイノリティにそれほど辛辣な視線を浴びせていないのか」という指摘があり、その一つの答えになり得るのではないかと思うのですが、右派(保守)は「被害者意識」を持っている。例えば百田氏なら、講演会潰しやテレビのベストセラーランキングで自分の本が外されるといったようなことから「ある種の被害者である」というスタンスを取ることがある。

「左派は人権とか言論の自由を言うくせに、俺たちの人権は保障してないじゃないか」というカウンターは、反メディア的スタンスを表すのに使われ、取り巻きは「百田さん可哀想」となる、左派の人とは違った意味での「判官びいき」みたいな意識があるわけです。ただしそれは、「反左派」的逆張りとの相殺があるので、左派が優しくしている弱者には向かない面もあるわけですが…(生活保護批判とかはその筋)。でもそれも、「その人たちには左派がいてくれるからいいじゃない、こっちは誰も味方してくれない!」という素朴な感情でもあったりする。

これも、私自身はある程度のところまでは保守派が少数派で、メディアのメインも張れないしカウンターパンチを繰り出すしかなかった時代はあったと思いますが、今は左派もしぼんできていて状況は変わっているんじゃないか…と思っています。虎ノ門ニュースだって視聴回数が30万回とかいくわけで、昔のように「左派メディアに口を封じられているわけではない」んですが、実態と自己認識がずれてきていることに右派は気づかない(ふりをしている?)。被害者で少数派でカウンターをかます側のままというフリをしていた方が楽だからなのか、それは分かりませんが。

その辺りの意識については下記の記事をぜひお読みいただければ。


「悲劇のヒーロー」を擁護したい気持ち

第二次安倍政権誕生を支持し寿いだ人たちの中にも、こういう「判官びいき」的イメージはあったと思います。メディア(特に朝日)に袋叩きにされて志半ばでその座を降ろされた安倍晋三という人を「かわいそうじゃないか」と思う気持ち。反安倍的な人たちの、病を引き合いに出すまでの執拗な批判が、安倍晋三を悲劇のヒーローにしてしまったわけです。

日本軍の所業にしても、間違ったことは山のようにありましたが、「だからといって、そこまで言わなくてもいいじゃないか」「ちょっと被害を盛りすぎじゃないか」「全否定はひどいだろ」という無念の思いがあり、それが慰安婦問題や南京問題で大きく出ている。相手の「日本悪しかれ」の勢いが強いと、跳ね返すためにはこちらも強く言わなければという感じになってきますよね。その先に「慰安婦はみんな金持ち」とか「南京は平和裏に陥落した」という話がある。「ましてや、あの時戦争を煽った朝日が言うなよ」という思いもある。詳しくは以下を……(今と比べると私の筆致もだいぶ「若い」ですが)。

私個人としては「保守」であろうとする人間が、「(特に自分たちを対象とする)かわいそう比べ」や「弱者ぶるそぶり」をするのはみっともないと思いますが、しかし歴史認識問題を通じて、(特に過去の人たちに対して)無念の思いを持つのは人間の心情としてとてもよくわかるし、だからこそ右寄り言論が「ケア」的な意味を持つ面がある。

少し前に、保守的な人と反保守的な人がツイッター上で「特攻隊を犬死というな」「それを言うなら作戦指揮者を日本人の手で総括・批判してからにしろ」みたいなやり取りをしていましたが、戦後の日本は延々とそういうやり取りをしてきたような気がします。どっちも大事なのに「こっちが先だ」みたいなことを言い合っているというか。お互いに「反戦前」「反左派」だったということになっちゃうんでしょうが…

長くなったので後半に続きます。







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