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《世界史》ニューディール政策と原爆

こんにちは。
アメリカ史第3回はニューディール政策と原爆についてとりあげます。

ニューディール政策(1930s)


1929年に始まった大恐慌ですが、当時の大統領フーヴァーはなんにもできませんでした。1932年の選挙では対立候補のフランクリン・ルーズベルト(1882〜1945)が勝利し、第32代大統領に就任しました。
彼の公約《3つのR》のうち、もっとも有名なのは、『ニューディール政策』でしょう。

フランクリン・ルーズベルト

テネシー渓谷開発公社などを設立し、大規模公共事業を起こすことで失業者率を激減させました。団体交渉権を保障して労働者の権利を保護したり、公共福祉事業の普及に尽力しました。
1939年第二次世界大戦が始まると、当初アメリカは中立を宣言していました。しかし、イギリスの戦時公債を購入しており、イギリスが負けることは避けたいとの思惑がありました。イギリスのチャーチル首相や中華民国蒋介石の妻・宋美齢の呼びかけもあり、無関心だったアメリカ国民の雰囲気が変化していきました。
日本側がフランス領インドシナへの駐軍を仄めかすようになると、アメリカ側が日本の在アメリカ資産を凍結し、石油の禁輸を決定しました。石油の採れない日本への強硬手段でした。1941年発足したばかりの東條英機内閣とも交渉をしますが、11月27日いわゆる『ハル・ノート』を手渡します。
『ハル・ノート』はアメリカ側にとっては最後通告ではなくあくまで交渉の継続を求めたものでしたが、日本側は最後通告ととらえました。
12月7日(日本時間12月8日)、ハワイに駐留していた太平洋艦隊が日本軍に攻撃されます。いわゆる『真珠湾攻撃』(パール・ハーヴァー)です。
ルーズベルトら首脳陣は日本側の行動をある程度予測していましたが、宣戦布告文が時差の関係で攻撃より遅くなったことを根拠に、日本の攻撃を卑劣な騙し討ちと批判し、日本への宣戦布告をしました。国民としても自国の基地が攻撃されたわけですから、厭戦の雰囲気は吹き飛び、対日戦線一色となります。
日本軍は開始直後は善戦していましたが、やはり圧倒的な国力の差があり、すぐに苦しむこととなります。ルーズベルトは圧勝できるつもりだったでしょうが、日本軍の士気は高く、降伏することはありませんでした。アメリカ政府は軍事開発を手掛けるようになっていきます。

真珠湾攻撃

マンハッタン計画(1942〜1945)


ナチス・ドイツの迫害から逃れてアルベルト・アインシュタイン(1879〜1955)をはじめ多くのユダヤ系科学者たちが亡命してきました。彼らはナチス・ドイツが原子爆弾開発に乗り出すことを危惧し、ルーズベルトにアメリカでの原子爆弾開発を始めるよう請願しました。請願を受けたルーズベルトは原子爆弾開発に乗り出すことを決定し、責任者にグローヴス准将を任じます。グローヴス准将は政府から与えられたニューメキシコ州ロスアラモスに秘密軍事基地をつくります。この科学部門の責任者に選ばれたのが、J・ロバート・オッペンハイマーでした。
J・ロバート・オッペンハイマーは1905年生まれのユダヤ系アメリカ人。弟も物理学者で、兄弟で新進気鋭の学者として知られていました。多くの科学者たちと計算担当の高校生らが集められ、原子爆弾の開発に携わることとなります。多額の研究資金を提供された一方で軍事秘密のため彼ら開発チームは隔離されましたが、科学者同士の才能を刺激し合うこともあったようです。
1945年7月、ニューメキシコ州の砂漠にて行われた『トリニティ』核実験に成功しました。この実験に使用された原子爆弾と同時進行で、原子爆弾『リトルボーイ』と『ファットマン』を開発していたのです。

グローヴス准将とオッペンハイマー

念願の原子爆弾を開発させた軍は、攻撃都市を検討します。原子爆弾の効果を観測しやすいようにまだあまり空爆されていない都市で、日本軍の施設のある広島と小倉など候補地を決定していきました。
1945年7月25日グローヴス准将が作成した投下命令書が下されます。

原爆投下(1945.8.6〜8.9)


この投下命令書にはルーズベルトのサインはありませんでした。彼はカイロ会談やヤルタ会談に臨み、ソ連の対日参戦を引き出しましたが、すでに病に苦しんでおり、1945年4月25日急死したのです。その後を引き継ぎ大統領に就任したハリー・S・トルーマン(1884〜1972)に知らされていたのかは不明です。
しかし、トルーマンはソ連への態度を強硬なものにしているので、すでに原子爆弾開発に成功しており、ソ連の助けがなくとも日本に勝てる見込みがあったと思われます。

ルーズベルト大統領の後任となったトルーマン

1945年8月6日、戦闘機が午前8時15分広島市に原子爆弾『リトルボーイ』を投下しました。人類初の原子爆弾による攻撃でした。

広島への原子爆弾投下


1945年8月9日には原子爆弾『ファットマン』を積んだ戦闘機は小倉に向かいました。しかし、小倉には雲がかかっており投下を断念、攻撃都市を長崎に変更します。午前11時02分、長崎に『ファットマン』が投下されました。

長崎への原子爆弾投下

2都市への原子爆弾投下とソ連の対日参戦をうけ、日本側はポツダム宣言の受諾、無条件降伏を決めました。1945年9月2日、戦艦ミズーリ号の艦上で重光外務大臣が降伏文書に署名し、太平洋戦争は終わりました。
オッペンハイマーは戦争を終わらせた英雄として人々から賞賛を受けました。しかし、あまりにも凄惨な広島や長崎の被害を知ると、彼はインドの古代詩から『われは死なり、すべてを破壊する者なり』と引用し、原子爆弾開発への後悔を口にするようになります。そんな彼を苦々しく思っていたのが、エドワード・テラー(1908~2003)でした。

エドワード・テラー
『水爆の父』と呼ばれる。オッペンハイマー追放後、水爆実験の責任者となるが、あまりに人望がなさすぎて解任される。

テラーはオッペンハイマーと同じくユダヤ系の科学者で、マンハッタン計画にも従事していました。彼は原子爆弾よりさらに強力な水素爆弾の開発を熱望していました。オッペンハイマーは「水素爆弾の開発には原子爆弾の開発が前提となる」と彼を説得してマンハッタン計画に従事させていたのです。原子爆弾の開発が成功した以上水素爆弾の開発に乗り出すだろうとテラーは思っていましたが、オッペンハイマーは水素爆弾計画に反対します。自らの期待を裏切られたテラーはオッペンハイマーを恨み、オッペンハイマーを共産主義者として告発します。これは冤罪でしたが、オッペンハイマーは科学界から追放され、1967年亡くなりました。
オッペンハイマーを追放したテラーはその後科学界の重鎮となりましたが、水素爆弾は原子爆弾の原子力発電のように平和利用はできず、膨大な国家予算が無駄に使われました。またオッペンハイマーを冤罪で追放したことは親交のあった科学者たちから裏切り者とみなされ、絶縁されました。後にレーガン大統領からアメリカ国家科学賞を贈られましたが、科学者仲間からは冷たい目で見られていました。その後も政治家や軍幹部との交流を続け、2003年亡くなりました。

よく『原爆投下があったから日本は降伏し、平和になった』と言われます。たしかに日本側のやりとりを見ていると、原子爆弾の投下がなければ1945年8月15日の終戦は困難だったでしょう。しかし、そのために投下当日広島では9万人・長崎では5万人の人々が亡くなり、戦後も後遺症で苦しんで亡くなった方々、そして現在も後遺症に苦しめられている方々がいることを忘れてはなりません。

被爆後の広島
長崎の『焼き場に立つ少年』
亡くなった弟を荼毘に伏せようと順番を待つ少年。ローマ法王が紹介し有名になるが、その身元は現在も不明である。

『ニューディール政策と原爆』、まとめ終わりました。唯一の被爆国でありながらアメリカの核の傘に守られているため、核兵器禁止条約に加盟していない日本。また戦後80年を迎えた現在、被爆者や戦争を知る世代の高齢化が叫ばれています。私にできることは戦争の事実を忘れずに毎年思い出すことぐらいですが、なにもしないよりはいいと考えて過ごしていきたいです。
次回は『ケネディ大統領』についてまとめる予定です!!

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