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《世界史》赤い皇帝 スターリン

こんにちは。
Ayaです。
今回はレーニンの死後、実権を握ったスターリンについてまとめます。

ヨセフ・スターリン(1878〜1953)


ヨセフ・スターリンは1878年グルジア(現ジョージア)の靴職人の家に生まれました。父親は靴職人として成功していましたが経営が悪化し、妻子に暴力を振るうようになります。母はスターリンを連れて家出、ある司祭の家に居候するようになります。この司祭のおかげでスターリンは神学校に進学、優秀な成績をおさめますが、次第に信仰心がなくなり無神論者となります。カール・マルクスの『資本論』で傾倒し、社会主義活動に関わり始め、神学校を退学します。
神学校退学後、社会主義活動に熱中するようになり、政府から指名手配され、地下に潜ります。ついに逮捕されますが、脱獄に成功します。このころ、党中央では『ボリシェヴィキ』と『メンシェヴィキ』に分裂していましたが、地元グルジアの多くの党員がメンシェヴィキに属しており、彼らを嫌ったスターリンはボリシェヴィキに属します。
1905年にレーニンと出会い、銀行強盗をはじめとする『赤色テロ』を行います。2年後には後に対立するトロツキーと面識を持ちますが、最初からスターリンの彼に対する評価は『美男子だか役に立たない』でした。

銀行強盗犯として指名手配されたスターリン

最初の妻カテリーナをチフスで亡くし嘆き悲しみますが、ムスリム人の多いアゼルバイジャンでのボリシェヴィキ組織設立に尽力します。
再び逮捕され流刑に処されていたスターリンですが、党中央がスパイによって摘発され壊滅状態となったので、党中央委員に選出されます。スターリンは再び脱獄し、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの融和を説く論文を発表しますが、レーニンに批判されてしまいます。民族問題についての論文は絶賛され、彼の党内での地位の確立に影響を与えました。
再び逮捕され、脱獄を警戒した政府により、シベリアに流刑されます。ここのツングース族やオスチャーク族と親しくなり、13歳の現地妻に子どもを出産させています。
1917年に第一次世界大戦が勃発すると、スターリンも徴兵検査を受けますが、腕の障害のため不合格となります。刑期を終えてレーニンと合流して、党内序列3位となります。レーニンが官警に追われ逃亡すると、スターリンはレーニンの代理としてボリシェヴィキの指導をします。たびたび弾圧を受けてきたボリシェヴィキですが、十月革命によって政権を確立します。
レーニンが人民委員会委員長になると、スターリンは民族問題人民委員となります。ロシア内戦が始まると、司令官として赴任しますが、白軍相手に苦戦します。レーニンにも懸念されるほどでしたが、スターリンは中産階級を粛清するなどで手柄を上げていきます。モスクワに戻ると、ナジェーダと再婚します。内戦前線では、赤軍兵士の逃亡を許さず、『裏切り者』として処刑していきます。
ポーランド・ソヴィエト戦争では司令官を任せられますが、トロツキーに批判されます。トロツキーへの感情は完全に悪化した出来事でした。
1922年にはレーニンの指名を受けて、党書記長になります。
ところで、スターリンの故郷グルジアは各民族が入り組むカフーカス半島にあります。レーニンらはそれぞれの民族で自治共和国をつくらせるつもりでしたが、スターリンは各地域の少数派が迫害されるおそれがあるとしてカフーカス半島全体で連邦国をつくることを主張していました。この意見の相違は次第に顕著になり、スターリンとレーニンの仲は悪化していきます。レーニンが病に倒れると、スターリンは連絡役を務めていましたが、レーニンの妻を恫喝したり、自分の主張をレーニンの意志としてつたえるなど横暴な態度があらわれていきます。すっかりスターリンに失望したレーニンは『スターリンは粗暴すぎる。この欠点は我々共産主義者の仲間うちでは我慢できるが、書記局長の職務にはふさわしくない』という遺言を残し、1923年亡くなります。

独裁政権樹立(1934~1936)


レーニンの葬儀はスターリンが取り仕切り、ペトログラードを『レニングラード』と改名させます。レーニンの死後、トロツキーと主導権争いを開始します。トロツキーが革命当初ボリシェヴィキに参加していなかったことなどをあげづらい、1927年トロツキーはソ連から追放されます。トロツキーは1940年亡命先のメキシコで暗殺されました。
宿敵トロツキーを追いやり、『貧困階級』や『少数民族』の味方として権威を確立したスターリン。ボリシェヴィキが従来提唱していた『世界同時革命』を否定し、ソ連国内の共産主義を確立するという『一国社会主義』を提唱します。国民はすでに内戦で疲れ果てており、この主張は歓迎されました。
スターリンはレーニンのNEP(新経済政策)をさらに改良したとする第一次5か年計画を発表します。しかし、この計画は工業化を極端に支持したため、農民たちは農作物の安価に悩まされ、出し惜しみをしだします。この動きに怒ったスターリンは農家の集団化を図りますが、うまく行きませんでした。この不満をスターリンはわずかな富農たちにぶつけ、彼らは強制収容所に入れられたり、処刑されました。結局農民たちの処遇は改善することなく、ウクライナでは『ホロドローム』と呼ばれる大飢饉となりました。
1932年スターリンの妻ナジェージダが亡くなります。病死と公表されましたが、実は自殺でした。理由は夫の傍若無人な統治に反発し抗議の自殺、浮気への当てつけの自殺のどちらかはっきりしません。スターリンは激しく動揺したと言われています。
1934年スターリンの側近キーロフが暗殺されました。キーロフの人気は侮れないものとなっており、スターリンが暗殺に関わっていたともいわれますが、真偽は不明です。スターリンは更なる利用を思いつきます。キーロフ暗殺の捜査として、自らに対立する者たちを弾圧しようというのです。1934年の党大会では党の幹部1956名のうち、1108名が「人民の敵」として告発され、逮捕されました。彼らには厳しい拷問が行われ、多くが処刑されました。いわゆる『大粛清』です。『大粛清』は共産党外の学者や作家などの文化人、市民まで適用され、その犠牲者は計り知れません。相互監視・密告が推奨され、NKVD(チェーカーの後身・KGBの前身)が猛威を振るう世界でした。処刑された者たちの記録は抹消され、その存在自体がなかったことにされました。この状況下で、スターリンは権力を盤石のものとするのです。

『大粛清』の犠牲者の一人 ブハーリン
革命当初からの活動家だったが、右派として処刑された。スターリンの死後、机から彼の『ゴーバよ、なぜ私の死が必要なのか』という手紙が見つかった。『大粛清』の犠牲者は200万人を超えると推定されている。

1936年には新しい憲法(スターリン憲法)を制定し、プロレタリアートの独裁、もとい自らの独裁を確立します。秘密警察の組織拡大につとめ、アメリカ・イギリス・ドイツ・フランスなど世界各国にスパイ網を確立しました。少数民族の保護を謳っていた初期の言動を覆し、多くの少数民族を強制移住させ、従わないものは強制収容所に送っていました。

第二次世界大戦(1939)


1939年には敵対していたドイツと独ソ不可侵条約を結びます。その狙いは両国の間にあるポーランドで、両国は示し合わせてポーランドに侵攻します。第二次世界大戦の始まりで、ポーランドは滅亡しました。このとき囚われたポーランド軍の高級将校は『カチンの森』で処刑されました。その数は2万人を超えます。

連行されるポーランド将校
『カチンの森』は後にナチス・ドイツに発見され、ドイツとソ連両国のプロパガンダに利用された。

蜜月関係を過ごしていたナチス・ドイツとソ連ですが、根本的な思想が対立しているため、すぐ関係は破綻します。1941年にナチス側の攻撃で独ソ不可侵条約は破棄され、独ソ戦の死闘を繰り広げることとなります。1942年にはスターリングラード攻防戦が行われますが、「士気が下がる」という理由で一般人も疎開できず巻き込まれ、逃亡を図ろうとする者はソ連軍の人民法廷で処刑されてしまいました。
スターリンはドイツ占領下にあったポーランドのレジスタンスを唆し、反乱を起こさせます。いざとなれば、ソ連が助けに来てくれると信じて武装蜂起したポーランドのレジスタンスでしたが、ドイツの攻撃中全くソ連は助けに来てくれませんでした。ポーランドのレジスタンスは力尽き、ナチス・ドイツと和平を結ぼうとしたとき、ソ連は総攻撃します。ナチス・ドイツは撤退し、自らの影響下にあるルブリン政権を樹立させます。
その一方で、ナチス・ドイツに最も迫っていたのはソ連でした。1945にはルーズベルト米大統領・チャーチル英首相とポツダム会議に出席します。ルーズベルトは対日本の太平洋戦争に苦戦したいたことがあり、ソ連のスターリンの参戦を望んでいました。ソ連としては日ソ中立条約があり、日本に侵攻するメリットはありませんでした。そのため、スターリンは領土割譲を請求、病気で判断力が鈍っていたルーズベルトはこれを認めてしまいます。すでにチャーチルは共産主義のスターリンを警戒しており、ルーズベルトに何度も苦言を呈しましたが相手にされませんでした。
1945年5月ナチス・ドイツが無条件降伏すると、8月には対日戦に参加します。当時の満州帝国領や日本領とされていた南樺太や千島列島を襲ったのです。8月15日に日本は降伏しましたが、スターリンは無視、南樺太や千島列島など北方領土問題の原因となります。
第二次世界大戦後は東欧をはじめ世界各地の国々を衛生国化していき、アメリカとの対立を悪化させていきました。戦後初の全面対決は1950年の朝鮮戦争でしたが、その結末をスターリンは見ませんでした。
日頃からスターリンは暗殺を恐れ、寝室を複数個持ち、寝る直前にどの部屋で寝るか決めていました。1953年寝室で倒れましたが、周囲の者が気が付くのが遅れ、そのまま意識不明に陥ります。その4日後、スターリンは亡くなりました。享年74歳。

スターリンの国葬

死の直後すぐ国葬が行われ、人々は指導者の死に嘆き悲しみ、伝説化がさらに進みました。彼の評価が一変するのはフルキショフによる『スターリン批判』からでした。
スターリンの大粛清や戦争による犠牲者数の人数は計り知れません。現在もまた繰り返されているのでしょうか‥。スターリンと後妻ナジェージアの娘スヴェトラーナはスターリンの死後亡命し、2011年アメリカで亡くなりました。彼女が存命だったら、今の世界を見てどんな感想を述べるのでしょうか。

スターリンと娘スヴェトラーナ
スターリンは息子がドイツ軍に囚われても無視するなど冷酷な態度をとったが、娘のスヴェトラーナは溺愛していた。スヴェトラーナは結婚を何度も反対されたが、結局認めさせている。

『赤い皇帝 スターリン』、まとめ終わりました。スターリンの故郷グルジアはスラブ語由来のグルジアの国名を『ジョージア』に改名しています。ロシアからの脱却を目指しているとのことです。




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