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《世界史》ドイツ帝国

こんにちは。
Ayaです。
昨日までくだらない投稿ばかりですみませんでした。今日から世界史に戻ろうと思います。今までの投稿で取り上げられなかったことについてまとめます。今回はプロイセン王国、後のドイツ帝国についてです。
プロイセン王国はもともと神聖ローマ帝国の一諸侯に過ぎませんでした。しかし、神聖ローマ帝国がスペイン継承戦争で苦戦を強いられると、王の称号が与えられて王国に昇格します。この王位はホーエンツォレルン家で世襲され、ドイツ帝国まで繋がります。その繁栄の基礎を築いたフリードリヒ大王から取り上げます。


フリードリヒ大王(1712〜1786)

フリードリヒ大王は1712年第2代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とゾフィーの間に生まれました。母ゾフィーはハノーヴァー選帝侯ゲオルグ(後の英国王ジョージ1世)とゾフィア・ドロテアの娘で、フリードリヒ大王は『アールデンの公女』ゾフィア・ドロテアの孫に当たります。(同名ばかりで混乱しますが)

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
プロイセン王2代目として強兵政策を断行する。息子は彼に言わせれば、『おんなのようなやつ』だった。


父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は『兵隊王』とあだなされる軍人気質の人物でしたが、母ゾフィーの影響でフリードリヒ大王は文化人に育ちます。次第に父からは軟弱者扱いされ、虐待を受けるようになります。
虐待に耐えかねたフリードリヒ大王は、友人とともに亡命を図ります。しかし、計画は発覚し、友人は処刑されてしまいます。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世としては息子を廃嫡にしたい思いでしたが、神聖ローマ帝国皇帝カール6世(マリア・テレジアの父)の仲裁でなんとか思いとどまります。
このバカ息子をなんとかせねばとの思いで、息子の妃選びを開始したフリードリヒ・ヴィルヘルム1世。最初はカール6世の娘マリア・テレジアを狙いましたが叶わず、オーストリア元帥の娘エリーザベト・クリスティーネと結婚させます。

フリードリヒ大王の妃
エリザベート・クリスティーネ
夫には見向きもされなかったが、生涯彼を尊敬していたと言われている。

エリザベートは美貌で知られていましたが、フリードリヒ大王は全く関心を示しませんでした。これは彼の同性愛的嗜好によるもので、父が彼を毛嫌いしていた真の原因でしょう。
1740年父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が崩御すると、フリードリヒ大王が即位します。啓蒙主義を導入し、拷問や検閲の廃止に取り組み、首都ベルリンの繁栄の基礎を作り上げます。
当初は内政に取り組んだフリードリヒ大王でしたが、神聖ローマ帝国領シュレージエンに攻め込み、オーストリア継承戦争を勃発させます。これにマリア・テレジアは激怒(自分自身や父との因縁もあり)、生涯彼を敵視しました。数年後の七年戦争で、マリア・テレジアの『ペティコート外交』に苦しめられますが、からくも生き残ります。(くわしくはこちら→《世界史》女帝マリア・テレジア|Aya|note)
晩年には宿敵マリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世も傾倒するほど、啓蒙君主の先駆けとして尊敬されます。市民からも『老フリッツ』と親しまれ、1786年崩御します。享年74歳。妃エリザベートはほとんど顧みられなかったにもかかわらず、嘆いたといわれています。二人の間に子どもがいなかったため、甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が後継者となります。

フルートを演奏するフリードリヒ大王
政務で忙しい傍ら、音楽を愛好し、フルートを得意としていたフリードリヒ大王。妹や側近らを招いて音楽会を催すのが楽しみだった。


フリードリヒ大王の後、甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世、その子のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が即位します。フランス革命、ナポレオンの台頭に苦しめられます。この状況を一変させたのが、鉄血宰相ビスマルクでした。

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世
フリードリヒ大王の弟の子で、母はエリザベートの妹。フリードリヒ大王には期待されていなかったが、ベルリンのシンボル・ブランデンブルク門を建設する。
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
主語を使わない独特な話し方を好み、『不定冠詞王』とのあだ名がある。妃ルイーゼはマリー・テレーズ(アントワネットの娘)と文通していた。


鉄血宰相ビスマルク(1815〜1893)

ビスマルクは1815年プロイセン東部のユンカーの家庭に生まれます。ユンカーとはドイツの地主貴族のことで、プロイセン王国を支えていた階級です。1847年代議士デビューし、兄の跡を継いだばかりのヴィルヘルム1世に見込まれて、1862年宰相となります。小ドイツ主義を掲げ、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世と対立、かの有名な鉄血演説を行います。普墺戦争に勝利し、プロイセン優位を勝ち取ります。

ビスマルクの君主・ヴィルヘルム1世
常にビスマルクのいいなりというわけではなかった。ビスマルクは彼の電報を偽造して、普仏戦争を起こしている。
鉄血宰相ビスマルク
ヒトラーも彼を評価していたが親ユダヤ主義と看做していた。

オーストリアに勝利すると、フランスのナポレオン3世をターゲットに、普仏戦争を起こします。すでに判断力が鈍っていたナポレオン3世をけしかけ、フランス側の準備不足で開戦させたのです。フランスは大敗し、ナポレオン3世は捕虜になって責任を追求され、イギリスに亡命します。
主のいなくなったヴェルサイユ宮殿で、ドイツ帝国の成立を宣言します。
彼の政治思想は日本の伊藤博文らによって、大日本帝国に取り入られることとなりました。

ヴィルヘルム2世(1859〜1941)

ドイツ帝国を成立させたビスマルクですが、主君ヴィルヘルム1世が崩御し、状況が変わります。ヴィルヘルム1世の息子フリードリヒ3世は父の生前から喉頭ガンを患っており、在位は3ヶ月ほどでした。その息子ヴィルヘルム2世が1888年即位します。
ヴィルヘルム2世は1859年フリードリヒ3世とその妃ヴィクトリアの間に生まれます。母ヴィクトリアはイギリスのヴィクトリア女王の長女で、ビスマルクと対立していました。母の影響かわかりませんが、ヴィルヘルム2世は即位すると、ビスマルクを引退させます。しかし、彼の取り巻きにはビスマルクの代わりになる人物はいませんでした。
ヴィルヘルム2世は一貫して帝国主義を推し進め、イギリスと対立します。同盟関係にあったオーストリアの皇太子のセルビア事件を受けて、第一次世界大戦を開始します。一時は優勢だったものの、アメリカの参戦で敗戦します。敗戦とロシア革命の影響によりドイツ革命を起こされ、退位しオランダに亡命。1941年崩御。享年82歳。

ヴィルヘルム2世

ヴィルヘルム2世の退位後、ヴァイマル共和国が成立しますが、莫大な賠償金で苦しむこととなります。その苦しみから、ヒトラーのナチスの台頭を招くこととなるのです。

今日はここまでです!久しぶりに真面目な文章書いたので、変なところもあるかも(おい)
ハプスブルグ家に比べて、ホーエンツォレルン家は逸話が少ないような‥??

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