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私の大恩師。

私の人生においての大恩師。

その先生について書きたいと思う。

私には、大事な恩師がいる。
その人と出逢ってなかったら
間違いなく今の私はいなかったし、
きっと明るくも前向きでもなかっただろうし、
いじめられてたかもしれない。
というか、小中学校、高校も養護学校に行っていたと思う。

その恩師は、
小1〜2の時の担任の先生で、
ちょっと変わっていて、常にパワフルで、明るくて、歌が大好きで、絵もうまくて、本当に生徒のことが大好きで(卒業しても○○ちゃん(同じクラスメイトだった人の名前が次々でてくる)は元気?別な学校でね、○○って子がいてね、・・・ととにかく生徒のことばかり)、熱血で、理解もしてくれる先生。

ーーー遡って25年以上の入学前。

小学校に入る前は、幼稚園に通っていた。
健常な子もいたし、私の他に知的障害やいろんな障害もってるような子も何人かいた幼稚園だった。
クラスは私以外全員、健常の子。
その中で私は普通に楽しく幼稚園生活を送れていたと思う。

そして卒園する頃。

やっぱり、家では
小学校どうしようか?地域の学校に通わせてもらうか、養護学校に行くか。
その二つの選択肢があって、私にどうする?と聞いてきた。

当時の私は、
「クラスのみんなと同じ学校がいい!一緒じゃないとやだ!」

要は、地域の学校がいいと強く言ったのを覚えている。勿論、今となっては養護学校を選んだ方が皆に迷惑がかかることもなく、整った環境で生活出来るのは十分すぎるほど理解出来るし、その選択をするべきだったのかもしれない。
でも当時の私はなんせ、皆と一緒がいい!と、こだわっていた。私も健常な子と学校生活を送りたい、皆みたいに近くの小学校がいい、皆とは違うと思われるのが嫌、仲間はずれは嫌だと思ったのが正直な本音だったと思う。

父は、凄く反対をしていたのを覚えている。
今思うと、父の姉が、重度な知的障害を患っていて養護学校を通っていたからっていうのも大いにあったんだろう。

当時は、このわからず屋!と思って
こういう系の話になると、必ず喧嘩してたけど
父的には、周りに迷惑かけられないと思っていただろうし
何よりもすごく心配してくれてたのかなとは、今となっては思う。

とにかく凄く反対されたけど、
私は泣きながら、いやだ!みんなと一緒がいい!!と必死に訴えた。

それを見た母は、私の意思に尊重してくれた。
母のおかげで、父にもその時は理解してもらえて
地域の学校の校長にお願いしにいった。

その時の校長は、私が入学したときの校長とは違ってその前の校長だった。
私の入学と同時に新しい校長に変わる節目だったらしい。
その前の校長にお願いしに行った時は、入学を断られた。
別な地域の学校で、車椅子で通っている生徒さんがいるのでそちらの学校どうですか?と、前校長は言っていたらしい。

でも私の母は、それでもお願いしてくれたそう。
そうしてるうちに、その前校長はその年で定年退職?だかでいなくなるのでその次に来る校長に聞いてみましょう。

的な流れになり、新校長にお願いをする。
すると、その新校長は、理解してくれて受け入れてくれた。
きっとそこが全ての始まりだったと思う。
その校長にも本当に感謝だ。

そしてその校長が
「私の知り合いの教師に、任せられる信頼出来る方がいるのでその方を呼びますね」
と、呼んでくれたのがその恩師だった。

それが恩師との出会い。

その流れは、大人になって
母から聞いて初めて知った話。まさか最初、しっかりと断られてたなんて知らなかった。
そうか、それで私の入学と一緒に転勤してきて担任受け持ってくれたんだ、、と思うと、胸がいっぱいになった。

入学して、その恩師と出逢って、
クラスの皆からもその恩師のおかげで、
変な目で見られる事も指をさされる事もなく、
いじめられる事も笑われる事もなく、自然に仲良くなれるような空気感にしてくれた。
当の本人は、低学年のお子ちゃまなもので、
そんな事も知らずにのほほんとしていたけど(笑)
普通にクラスメイトの一員として居れた気分で、学校生活は楽しかった。

下級生からはやっぱり、変と指さされたり、バカにされて笑われた事も全然あった。
その時は本当にくそー!って思って悔しくて泣いた記憶がある。 

それ以外は本当に楽しかった。
その感じを中学年、高学年と続いた。

高学年は、それはまたその時の担任が
まじ変わり者で、
また有り得ない事が沢山あってその担任に関してはあまりいい思いはないけど(笑)
クラスほぼ全員その担任の事を嫌っていて、
それが謎な団結力を生んだような。

そして今までの担任の先生とクラスメイトのおかげで
楽しく何事もなく生活できたという実績の元、
高学年の時の担任と、恩師が
次の中学の校長に話をつけてくれて理解を頂いて、中学も地域の学校に入学でき、
小学校の頃のメンバーも大半同じ中学だったので
そこでもそれなりに楽しく過ごせた。

と、思うと、
高学年の頃の担任にも、感謝はしなきゃいけないな(笑)

中学に入学した初めの頃に一瞬、別な小学校からやってきた男子たちにバカにされたりはあったな。
手動車椅子でそいつら目がけて全力で押して離して、ガツンと轢いてやろうかと思ったけど堪えて、
睨み散らかしてガン無視したし、腹立って消しゴムのカスをいっぱい作ってこっそり飛ばしまくってやった。曲がっている画鋲をそいつらの席の床にポイって置いたこともあったか。気づかないレベルのささやかな復讐(こら)
小学校からのメンバー達のおかげも大いにあって、(小学校の頃の空気感と変わらず接してくれた)バカにされる事はすぐに無くなった。

あのチンチクリンと狐目野郎とデブ野郎。忘れねーからな!(根に持ちすぎ)
チビとか言われたけど、お前もチンチクリンだろうが!!と言いたい。もう本人絶対覚えてないだろうけど。Facebookも普通に申請きたときはびっくりよ。そんなもんよね。

話を戻そう。

なんだかんだ今も付き合える友達もできて、同級生、先生のおかげで、それなりに中学も人並みの学校生活を送れて、卒業できる。
その実績がまた高校へ。

高校は友達作りも一からだったし、
色々苦労したし揉めたりもあったし、あまりいい思い出はないが、無事卒業できる。

高校の頃からかな。
恩師の偉大さ、有り難さに痛いほど気づき始めた。あぁ、あの先生がいなかったら、
小学校も中学校も高校みたいな感じだったか、もっと酷かっただろうな。
今も続くような友達もいなかっただろうし、
というか、地域の中学に通えなかったかもしれない。となると、今も仲続いている友達にも会う事さえなかった。

そして卒業してからも
ずっと恩師は気にかけてくれていた。
それが嬉しかった。
もう少し頑張ってみようと何度元気出たものか。

小学校の頃は、
おばあから「あやは本当に人に恵まれている。感謝しないとだめだよ」とよく言われていた。
まだお子ちゃまでのほほんとしていた当時の私は、その意味をよくわかっていなかったけど、
高校を出て社会に出た後も
それなりに色々あった私は、今なら本当にそうだなと思える。

本当に人に恵まれていたなと。

もしあの時、母が私の意思を尊重してくれなかったら。
もし、校長が変わっていなくて前の校長のままだったら。恩師に出会っていなかったら。

今まで出会った人達に出逢ってなかったし、
今の私はいなかったと思うと、恐ろしくなる。

今後も、感謝を忘れずに日々を生きていきたいと思う。

恩師としばらく連絡してないなぁ。

連絡してみようかしら。


終わり!


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