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未完成のシンフォニー〜私の叶えたい夢(統合失調症と診断された私が、結婚・出産し、公務員になった話その32)

令和6年能登半島地震で、被災された方、影響があった方に心よりお見舞い申し上げます。

元旦に地震というニュースに日本全国が震撼した直後に、何をのんびり自分の夢というテーマでnoteを書こうとしてるのかと、自分に呆れる私もいるのだが、今だからこそもう一度、夢や希望に思いを馳せたテーマで、今年の書き初めをしたいと思い立った。そしてその思いが、私の記事を読んだ誰かに派生していってくれたらと願う。

今年もこのnoteをよろしくお願いします


私は、今年40歳になる。私のこれまでの人生を端的に話すと、幼少期や学生時代は、親の愛に飢え、友だち関係やコンプレックスにもがき悩んでいた。18歳の大学浪人中に統合失調症になり、20代は彷徨いながらも未来を模索してきた。30代で結婚、出産を経験し、自分のことばかりでなく、子どもや夫のことも踏まえて、道を選択することが必要となった。その選択の一つが、地元の公務員採用試験を受けることであり、現在子どもをこども園に通わせながら勤務し、今年の春で4年目を迎えようとしている。

40になる私にも、いまだに夢はある。しかし、この記事を書くにあたり、夢を今一度再確認してみると、何だか不思議な感覚になる。若い頃のように、どうしても叶えてやる‼️とか、絶対それになってやる‼️といったような、野心的な感覚にならないのだ。20代の頃は、公務員といっても臨時職員や会計年度任用職員で、「絶対正規の公務員になってやる‼️精神疾患持ちだけど、いつか絶対なってやる‼️」という強い野心があった。野心の元に、36歳でとうとう公務員採用試験に臨んだ。しかし、私が今抱いている夢にそんなガツガツした野心は芽生えていない。だからと言って、生半可に見ている夢なわけではない。叶えたい。良いタイミングで叶えたい。だけどそれは、きっと今の日常の延長線上にあり、今の日常をおろそかにしたり、投げ打ったり、犠牲にして臨むことではけしてない。公務員として働いたり、母親として子育てをしたり、今の日常を大切に生きていくその延長線上に、私の夢は成り立つのではないか。そんな感覚のする、私にとっては静かに、落ち着き払って見ている、偉大な夢である。

私の夢。それは、執筆をして、一冊に止まらず、何冊か自分の本を出版することである。本屋さんや図書館やAmazonなどに、自分の本が並べられること。ついでにおすすめ本だと可愛いポップも付けてもらえたら嬉しいwそして、本を出版するにあたり、全国や海外で、講演会をしたい。自分の本に感化してくださった人の前でリアルに話をしたい。メディアでも自分のことや自分の本が取り上げられたらすごく嬉しい。映像化や、他のアーティストとのコラボなど、多岐にわたる楽しいこともできたらすごく嬉しい。そういう活動を、短い期間で終わらず、長いスパンで続けたい。それに伴って、様々な素敵なご縁で繋がれたらいい。たくさん感動したい。冒険したい。奇跡を呼び起こしたい。

どんな本を書きたいのか。私が統合失調症と診断されるまでの精神疾患となり、そこから考え方や捉え方を変えてきて、自分改革をしてきて、回復し、立ち上がり、生活を再建させてきたことは、今までの私の人生で一番ダイナミックな出来事だった。それをベースに書いていきたいのは、昔から変わらない。自身の経験に根付く、人を勇気づけ、奮い立たせ、立ち上がらせるような、力強い言葉を書きたい。書き続けたい。それはけして精神疾患の人々だけに止まらず、挫折経験のある全ての人々に届けるメッセージである。noteで書いてるような、エッセイ風のスタイルで書いていきたいと考えている。


今をときめく大谷翔平選手は、二刀流であるが、私も、公務員と執筆家の二刀流でいきたい、と考えている。しかし、公務員は副業が禁止されている。私がもし執筆活動を本格化すれば、それが副業とみなされて、どちらかを選ばなくてはならない事態にもなるかもしれない。しかし、私の執筆は、今の日常があってこそ書けるものだと考えているので、できれば、二刀流でやることを職場にも認めてもらいたいのだ。無理なら、公務員を続け、執筆活動はこれまでと変わらず、無償でやっていこうと思う。息を吸って吐くように、私には執筆活動が欠かせない。生きる上で欠かせない。無償であっても、誰も評価してくれなくても、例え本として出版できなくても、つまり夢が叶わなくても、執筆を続けていくことは決めている。そうか、だから、野心的な感覚にはならないわけだ。形にならなくても、出版するという夢が叶わなくても、それでもいい、と思っているのだから。それでも、書くことは続けていく。幸い、noteのようなツールもある。これからもずっと、書き続けていくことは決めている。

何のために書くのか。人を立ち上がらせたいといいながら、結局は自分を立ち上がらせたいのだ。自分がこういう文章を読みたいというものを自分で形作っているのだ。それをたまたま他の人も読んで、その人も勇気づけられたらなお嬉しいけれど、それは副産物のようなものなのだ。私は自分の文章の一番のファンであり、一番のフォロワーなのだ。次はどんな文章を書くのか?私は自分で自分を追いかけているのだ。自分で自分に期待しているのだ。自分が自分に心から1スキを与えられる文章を書く。自分が自分に心から素晴らしい文章だと言える文章を書く。私の本当の望みは必ずそこに行き着く。

私の夢を言い直そう。出版や講演が叶わなかったとしても、これからも文章や言葉を書き続けること。公務員としてたくさんの人と繋がって、人間関係の様々な学びを得ながら、本当に人の輪の一員として自分がいる実感を得ること。ママとして子どもにたくさんのことを教わりながら、地域の人々とも交流して、子育てを楽しみながら子どもと共に成長すること。日常の中に散らばる「小さなキラキラ」を、ささやかな、取るに足らないものだと捉えずに、充分に感じて拾い集めていくこと。そしてそれを題材に、これからも呼吸をするように、文章を書いていくのだ。ああ、もう私の夢はほとんど叶っている。人は自分の設定したようになると言うけれど、今の生活は私の設定どおりだとわかる。

だけど、私の生活はけして幸福100%なわけではない。全ての条件が整っているわけではない。家庭では夫とのパートナーシップを模索し、親子関係では母親とのやり取りに悶々とする。仕事では、当たりの強い上司や仕事を回してくる上司に悩み、人間関係では、器用に立ち回れない自分に苛立つ。正月早々、旦那との考え方の違いにイライラし、母親とのLINEのやり取りで諍いめいたことになり、もやもや悶々としながら、夫の実家から帰る電車に乗っていた。(夫はまだ実家にいる予定で、私と娘だけ帰ってきたのだ。夫の実家に長々といるつもりはないw)傍らに座っている娘のぬくもりを感じながら、外の景色を見ていた。薄灰色の厚い曇り空の隙間に、黄金のまばゆい日光が差し、私は龍にも蛇にも見える、長い白い雲を発見した。空や雲や日光は、ひっきりなしにこう伝えているように感じていた。「それでも、そうであっても、希望はある。ここかしこに、広がっている。」。新年の幕開けに相応しい景色を電車の窓からぼんやりと眺めながら、私は感じていた。人生は、未完成のシンフォニーだ。あてはまらないパズルのピースを探し回る、あてどない放浪の電車に乗って、揺られている。未完成、未成熟だからこそ、私は文章を書ける。完成され、満たされ切ったら、私はきっと文章を書けない。そのために私は未完成の状態で、この地球に生きることを選んできた。そう思うと、夫や母に苛立つ自分すらも愛おしく思えた。新しい年だって、嫌なことやアンラッキーなことも多々あるだろう。それですら受けて立つ、と思えた。全部、文章にしてやる。ネタにしてやる。私には書くという行為ができる、脳と神経と手とスマホがある。ネタにできるひらめきと、動ける身体がある。娘の手を引いて、電車を降りた時には、私はもう、すっかりスッキリとしていた。「駅でも見ていこう!」娘に伝え、初売りや待ち合わせで賑わう駅前の雑踏に、私と娘は手を繋ぎ、入っていった。

この龍雲は他から画像拝借しました

2024年。noteで、「統合失調症と診断された私が、結婚・出産し、公務員になった話」の、その50まで書くのが目標だ。8月6日にはnote1周年記念を勝手に祝うつもりだ。まだ私の執筆ライフは、始まったばかりだ。これからも自分が一番読みたい文章を書いていく。電車の中で見た黄金の日光や龍🐉雲を思い返す。希望は、そこかしこに広がっている。




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