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僕のオケツとあなたのオケツで「ニケツ」は生まれる。

自転車の荷台に何を乗せて、ペダルを漕ぐだろう。

文字通り「荷物」を運ぶ人もいれば、全く違ったものを運ぶ人もいるかもしれない。少なくとも私の記憶にあるあの小さなスペースは、荷物「以外」のものを運んでいたように思う。

自転車の荷台は、あの町の空気を運んでいた。

一番古い記憶は、東大阪に住む祖母の赤い自転車の荷台だ。背の小さい祖母が扱う自転車は20インチ程度だった。愛車の荷台には子供用の椅子が備え付けられている。黄色いプラスチックのハンドルと白い格子状の座席は経年劣化で乗るたびにパリパリと塗装が剥げていき、錆びた骨組みが露わになる。そんな椅子だった。

幼少期の私は、両親がついてこなくとも一人で東京から大阪に行った。結構な頻度で長期間いるものだから、もはや「帰った」と言ってもいい。そのたびに楽しみにしていたことは祖母の自転車の後ろに乗り、河内小阪の町を颯爽と駆け抜けることだった。ソースをつけない近所のたこ焼き屋。八百屋のおじさんの威勢の良い声。毎日通う銭湯で可愛がってくれるおばさんたちの昼の顔。アーケードの中にある駄菓子屋に鎮座する店のおばあちゃん。毎日のようにジャスコへ行ってはやる、1回10円のジャンケンポンのコインゲーム。

出典:1977(78)年・昭和52(53年)生まれの「懐かし」ホイホイ~記憶のおもちゃ箱~

まだ昭和の匂いが残る下町を、祖母の赤い自転車の荷台に乗りながら駆け抜ける。劣化した塗装をパリパリと剥がしながら駆け抜ける。

東京にはない景色と空気がそこにはあった。

自転車の荷台は、小さな反逆を運んでいた。

中学生になると、「ニケツ」という概念が我々には芽生える。道路交通法上、違反のニケツである。私の自転車には残念ながら荷台がなかったが、ニケツへの憧れを捨てきれないキッズウォー世代だ。後ろで立ち乗りができるようにハブステップを100円ショップで取り付けて改造をし、男友達を乗せた。(※ハブステップ本来の使い方ではない)
紺色のブレザーを多摩川の風でなびかせながら両肩にずしりと中二の重みを感じる。

出典:https://www.news-postseven.com/archives/20190131_857614.html/2

東京でも田舎の方の公立中学だったので、隣の中学に殴り込みに行くとか、不良になった先輩がナイフをチラつかせながら校門で下校途中の生徒にカツアゲをするみたいなプチアウトレイジが横行していた。それに比べたらハブステップに足をかけて川沿いを駆け抜けるなんてかわいいものだった。黒のハイカットコンバースのソールが薄くて途中で足が痛くなるなんてことも男友達と二人乗りをしてみて初めて気づいた。たまに交番のおっちゃんに叱られたけれど。

私たちは、少しだけ大人になった気がした。

自転車の荷台は、小さな夢を運んでいた。

高校生になった頃、私の表向きの夢は「ラグビーで全国大会へ行く」である。表があるということは、もちろん裏もあった。それは「初めての彼女を作って自転車でニケツをする。そして、学校帰りにプリクラを撮る」だった。夢の実現にはまず形から入るべく、高校入学と同時に荷台のついている自転車を購入したものである。

中学生の時に野郎としかニケツをしたことがなかった私は、異性とのニケツに対しての憧れがマグマの如くふつふつと煮えたぎっていた。頭の中は「世界の中心で、愛を叫ぶ」そのものである。長澤まさみを後ろに乗せた森山未来になりたかった。愛とは何かを知らないものの、とりあえず愛を叫びたくて、「青春のバカヤローっ!!!」と自転車に乗りながら大声で叫び、下校するということを数えきれないほどやった。ラグビー部の仲間がそばにいてくれなかったら、誰も突っ込んでくれる人はおらず、本格的に厨二をこじらせた痛いヤツだったに違いない。(今思えばツッコミがあっても痛かったかもしれない)

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出典:TBSチャンネル(https://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/m1007/)

そんな僕にも17歳の冬に、春がきた。高校に入学してから約1年半、イメトレをし尽くしてきたニケツには自信があったものの、そんなものは華麗に裏切られることになる。初めての異性とのニケツにはイメトレにはなかった「軽さ」と「柔らかさ」、そして「硬さ」があったことをここで告白したい。大変な誤算である。すごくペダルを漕ぎにくい。

へっぴり腰で撮った夢のプリクラは、今はもう誰も持っていないだろう。

『花鳥風月』©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

自転車の荷台は、未来を運んでいく。

せわしく働く社会人になって、誰かを自転車の荷台に乗せることは無くなった。私の中で「ニケツ」は懐かしいものになりつつある。後輪が潰れて、ヌルリと滑るあの感覚や、後ろから声をかけられても聞こえなくて聞き返すということをもう味わえないのかと思うと少し寂しくなる。

そんなことを世田谷代田で考えながら歩いていると、コンクリートが打ちっぱなしのお洒落な保育園があった。せわしく子どもを運ぶママさんたち。その姿を横目で見ながら、秋空の下でコーヒーをすすってみる。

どうやら次はあの町の空気でも、反逆でも、夢でもなく、「新たな未来」を運ぶために私はペダルを漕ぐのだろう。

来年の3月。私は父になる。

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