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モーニングページ第1週vol.1

4月の終わり頃に書いたものです。アーティスト・ウェイやろうかなと時々思い出したようにモーニングページやりだすんだけど、結局続かなくて。
なのでvol.1ってしてあるけどその続きはない。っていうか3ページって長くない? いつも書くことがなくてこんな感じの描写をえんえんと始めてしまったり、昨日うれしかったことをひたすら思い出すとかそんなかんじのことばっかりやってる気がする。そもそもひとに見せる目的で書くものじゃないし書いてないけど、ノートに書き散らかしたまま捨てちゃうので、忘備録としてここに残しておく。

エントランスからピアノを弾く音が聞こえている。窓際でまどろんでいた。心地のいい眠り気に紛れ込んで空気のようにそのビアノはわたしの吸気とともに体内に染み込んでいた。安らかで静謐。

誰が弾いているのだろう。そのうち意識を失った。目が覚めると、太陽の位置が変わり、座っている机の前にあるサッシ窓から陽光が差しその温かさに包まれていたのに気づく。

目に映る景色は隣家の柵とその向こうの壁で少々つまらないものだが、もっと手前に視線を移せば、家の小さなスペースに咲くつつじの群生がこちらに差し向ける生命力。この席に座るたびわたしのセンサーが微細に震える。

風に揺れる葉のしなやかな弾力とか、日光の照り返しを受けて発光する緑のまばゆさとか、あるいは窓をもし開けていたなら、鼻腔をくすぐるであろう、甘い蜜を内に持つ桃色の花々が開き薫る様相などが。

つつじなど、最もありふれた取るに足らぬ花だった。

生まれ育った地域では市の花に指定されていたので、街の至るところにその存在を見ることができた。そのせいか空気のようなものだった。幼い頃に蜜をすすっては楽しんだものだけれど、美しさに心を奪われた記憶はない。

あまりにも当たり前にそこにあるものはしばしば注意を払ってまで味わう対象にならぬのかもしれない。たとえそれが実質的にどれほどか素晴らしくその命を全うしていたにせよだ。

昼になり外に出た。長いこと後回しにしていた郵便物を今日こそは投函しようと出かけたのだが、あまりの晴れやかな空に固唾を飲んだ。それにしても昨日は曇天だったのだ。川沿いの好きな歩道をサクサク歩く。

前を歩いていた男がおもむろに足を止めて川を覗き込んだ。わたしは追い越して花の道にズンズン進む。花の道。誰が植えて手をかけているのか、とりどりの小花が道の両脇に敷き詰められたエリアがある。ビニールホースやらジョウロやらスコップやらが無造作に置かれていて、その間を縫うように、パンジーをはじめとしたなにやらがカラフルに咲いている。

完璧に整っているでない、どちらかといえばぞんざいさも感じるがしかし、人工的に設えられたこの花道に、人間味を感じてほほえましくなる。この花道を構成する何もかもに今とても肯定的だけれど、

一方で浮かんできた人物イメージはこうだ。花をこよなく愛しているが、スーパーで買い占めも平気でできるおばちゃんだ。

この花を育てる喜びを知っている人が、他の何もかも素晴らしいとかいうのは錯覚である。わたしとは決して相容れることのない、なにかしらを持っているはずだと思う。

この道を作っているとも知らずに、スーパーで彼女とレジで隣り合わせて、え? こんなにチキンラーメン買っちゃうの…? とドン引きしている自分を尊像してみる。そういうことって日常で往々にしてあるのではないのかな。

人は多面体なのだ。

新緑の、ランダムに伸びる勢いに心を奪われる。川の向こう側で木々がそよそよとさざめいているのを好ましく思う。そうなんだよ。不揃いに、赴くままに、エネルギーを止めずに生えたいだけ生えたい方向に伸びているにも関わらず、それはひとつの調和である。

一方で、剪定してあるひとつの秩序を持たせるのもひとつの美として心惹かれる自分だっている。ヘアカットの最中に、サロンの庭に咲く椿の木を指して「風が通り抜ける場所を少し作ってあげるように切ると、そこからぐんぐんとダイナミックに葉っぱが伸びるんですよ。髪の毛も同じように切ってあげるの」と、土筆さんが教えてくれたのを思い出した。

しかしながら今この瞬間は、この野生を感じさせるセンシュアルな美に、否応なしに共鳴している。

母に伸びやかな私をせき止められてきた。

好きな歌をうたうとき、「喉が締まるような声で下手だからやめなさい。」笑顔で写真に写るとき、「自意識過剰だね、気持ち悪いからやめなさい。」ダンスのステップ踏めば、「腰を振るのはみっともないからやめなさい。」

そう言われるたび、私のエネルギーはしゅるしゅるとしぼんでいった。

あれは剪定だったのかな。切り口に風は心地よく入ってくることはなかったけれども。彼女の美意識にただ私が当てはまらぬだけだったのだろう。でもあの頃の私にはいくつもの傷を残した。

しかしわたしはそこで自分の生命力をひっこめたりはしなかった。彼女のいないところで私は自由だったのだから。

本当は、あるがままの私を愛でてほしかった。ほめられたいというのではない。感じてほしかったのだ。私の輝き、伸びやかさのエネルギーを。

本当はこうしてほしかった。私が母に伝えると、彼女はいつでも言い訳をする。そして受け止めてもらえることはなかった。おそらく、いちばんの痛みは「伝えてもなお届かない」という絶望だ。

この痛みは今でも時々かたちを変えながら顔を覗かせる。誰かに自分の表現を差し出すとき、まるで誰にも受け取ってもらえないような心許なさを覚える。あらかじめ諦めているような気分もある。世界に向かってひとり言をつぶやいているような孤独感。

そしてその気持ちを叶えるかのように、心から聴いてほしい、見てほしいと願う嬉しさに満ちた表現に限ってSNSのタイムラインを残酷に流れていく事象が現れる。わたしは嬉しさをただ分かち合いたいだけなのに。

しかしながら今日もまたnoteの公開ボタンを押す。どんな気持ちであっても、淡々と続けることで変わっていくことがある。現実が変わるのか心境が変わるのかは分からない。それがいつ起きるかもとんと見当がつかない。

だが信頼しているのだ。分からないまま信頼している。何をかって? 自分の傷が癒えることを。わたしにそうせざるを得なかったママの傷が癒えることを。そしてそれが創造的に生き続ける過程で叶えられていくことを。

草花の生命に触れて震える。その伸びやかに葉を茂らせ花を咲かせる姿を、わたしは自分の姿にいつでも重ねている。



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