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存在意義

私の存在意義は、誰かの「困りごと」を解決すること。

つい最近まで、それが良いことだと信じて疑わなかった。

感情表現に乏しく、快活に笑い飛ばしたり、面白い話をするのはどうも苦手。

関西人なのに方言は出ないし、出身地を言うと「意外だね」と言われることもしばしば。

自分の気持ちを上手く伝えられずに、いつももどかしい。

コミュ力の低さをずっとコンプレックスに思って来た。

誰かといる時の余白や沈黙はとても怖い。

でも自然に話そうと思えば思うほど言葉が出てこない。

そして思った。話せないのなら、相手に話させればよいのだと。

そうした人との交流を繰り返す中で、私はしだいに誰かの痛みを引き出し
「傾聴する」「寄り添う」という役割を自分に与えた。


転んでけがをしてしまった人には、手を貸して絆創膏を。

悲しみに暮れ涙を流す人には、肩を抱いてハンカチを。

それは一見慈愛に満ち溢れたとても素敵なことのように思える。



ところが、途中から何かがおかしくなった。

「誰かが困っているから、自分が存在する意味がある」

と解釈してしまった。

誰かの「困りごと」を必死で探し、創り出そうとさえしていた。

「困りごと」は、わざわざ探す類のものではない。
ないのが一番、幸せなのに。


その間、ボロボロの自分の姿は目に入らない。

解決すべき❝他者❞の課題がなければ、私は何のために生きているのか?


皆が穏やかで、何にも困っていない状況をいつも恐れていた。心の底では。

泣き言ばかりこぼす情けない人を愛していた。

いつまでも情けない人でいてくれと願っていた。

課題や心配事は大きければ大きいほど良い。自分が活躍できる場所は、喉から手が出る程欲しい。

ヘンだよね、幸せでいることが落ち着かないなんて。


「自己犠牲は成立しない」

率先して自己犠牲をしていた自分が、したり顔で放っていた言葉。

歪んだ思考が、現実を歪ませてきたのか。。

誰かのために、はいつか 誰かのせいで、になる。


自立の芽を削ぐのはもうやめよう。

幸せにならない工夫を手放して、ちゃんと幸せになろう。

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