人は何故断捨離に手を出すのか
風の時代とともに、断捨離がブームのようです。
家の中の不用品をせっせと処分する。
世の中には、断捨離のハウツー本がたくさん発売されている。
でも、じゃあ何故人は断捨離に魅力を感じて、やろうとするのだろう。
もし、ただ不用品を捨てるためにやるとするなら、多分後で後悔する。
あれ、あったのに。
もう手に入らないのに。
捨てなければよかった。
断捨離本には、一旦捨ててみて、必要になったら買えばいいと書いてあることが多いけれど、家の中にはもう二度と同じものは買えないようなものもある。
例えば、松下電器の電化製品。
二度と同じものは手に入らないし、いま店頭にある電化製品は申し訳ないけれど、軒並み松下電器の製品よりも劣るものばかり。
もしも動いて使えるのなら、大切に使うのが最善手だと思う。
けど、断捨離しなければという強迫観念に似た気持ちになっていると、本に書かれていることをそのまま鵜呑みにして、そういうものまで処分してしまう。
こんまりさんの、ときめきのお片付けシリーズが好きで、本は何冊も手に入れたけれど、こんまりさんもその、捨てる強迫観念に囚われたことがあると自身のエピソードを書いていた。
断捨離をしようと思うとき、一番気をつけなければならないのは、そこだと思う。
断捨離とは、モノを捨てる、減らすためにやるとしんどくなる。
極論を言えば、モノは捨てなくても減らさなくてもいい。
ただひたすら、「本当に自分のお気に入りに囲まれて暮らしていますか?」を自分自身に問いかけるための確認作業としてやるのがいい。
そうしていくと、自然にモノが減っていく。
あれこれ持っていた掃除用品がどんどん減って、最後には掃除機と古くなったタオルだけが残る。
家の汚れなどは、大概水拭きだけで綺麗になる。
食器も、昔ながらの木や布のたわしを使って、お湯や水だけで油汚れまで落ちてしまう。
水というものの万能さに驚く瞬間がある。
多分、断捨離の本質はモノを減らすことではなく、自分が知らずにまとってしまった鎧を落とす作業なのだと思う。
その結果、自然にモノが減る。
CMで見て良さそうだと思って買った柔軟剤。
入れると衣類が柔らかくなって良い匂いがする気がする。
そんな人も多いと思うけど、そんな人の横で、香料の臭さに鼻を覆って顔をしかめている人も多いと思う。
それよりも、天日に干しておひさまの匂いがするふわふわの衣類のほうが私は好きだ。
断捨離とは、
その柔軟剤、本当に必要ですか?
と自らに問いかける行為なのではないかとおもう。
もちろん好きなら存分に使えばいいと思うけど、
柔軟剤を使わない私の洗濯物は、いつもおひさまの良い香りがしてふわふわで、とても着心地がいい。
断捨離は、モノを減らそうとすると途端に苦しくなる。
ひとつひとつのモノに向き合って、
これは私が心から大切に思うモノだろうか。
周囲から植え込まれたナニカに反応して買っただけではないだろうか。
と、自らの心に問いかけていく、地味な作業こそが、断捨離なのだと思う。