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アニマルコミュニケーションに対する、私のほんとうの想い

アニマルコミュニケーション=動物さんとおはなしをするスキル

私には、ともに暮らし溺愛していたちょびのすけというハムスターが居ました。
私が幼少期に握ってしまったトラウマから解放してくれた、恩ハムです。
 詳細は、以下のマガジンにまとめて書いていますので、トラウマから解放されたいきさつや握ったトラウマの内容にご興味ありましたら以下のマガジンをご覧ください。

実は、このマガジンをまとめたとき、練習をした後メニューを作って必要としている方に届けようとしていたことがありました。

でも、そのとき猛烈に思ったことがあって、提供を止めてしまいました。
その思ったこととは、「無理やり動物さんにお話しをさせるようなことはしたくない」という想いでした。

自分自身に対する自信のなさから、行う内容に責任が取れないんじゃないかという不安もそこそこあったと思います。ただ、それであれば初めはモニターとして先程のマガジンに載せたような、協力者に練習をさせて貰うことを続けていれば自信は自ずとついてくることも理解していました。
そうではない、言いようのないやりたくない気持ちがあり「もしもお話ししたくない動物さんがいたとしても、飼い主さんに求められて請け負う以上はそういう訳にいかないのでは」という想いになっていたのです。

でも、ふと気がつきました。
無理やりお話しすることに抵抗があったのは、動物さんではなく自分なんだということに。

だって、ペットさんの想いが知りたいと切実に感じているような飼い主さんからの依頼ですよ。それでもお話ししたくないと思うペットさんの方が稀だと思うのです。
(ちなみにうちのハムスター ちょびのすけは、ペットロスでヤバイ状態になっていた私を心配して、なんとか自分の気持ちを伝えようと、アニマルコミュニケーションをしてくれる方を天の采配で自ら手配してくれていました!)

そんな経緯すらあるのに、そもそも私が「話したくないペットさんに無理やり話してもらう場面」を想定していること自体がとってもとっても不自然でした。
つまり、私自身が「無理やり話したく無かった」ということ。


先日、地域のマルシェに初めてブースを出しました。
筆文字ちょびのすけアートのグリーティングカードを沢山展示して、その場で即興でハムスターのイラストが入った筆文字を描くという内容です。
そして、朝一番に来てくださった方とお話しをしているうちに、
”あ、これはその方のペットさんとお話しをする流れかもしれない”
と思いました。
その日のマルシェでアニマルコミュニケーションをやるつもりは無かったのですが、自然に私の口から”裏メニュー”が飛び出していました。


ちなみに、アニマルコミュニケーションのスキルは、実はなにも特別なことではありません。そして対象も動物だけではなく、人同士でも植物とでも鉱物とでも無機物とでも可能で、どんな存在でもできるもので、実際に人間以外はすべてこれを使って意思の疎通をしていると思います。
そう、人間だけがこのやり方を”忘れて”いるんだと思うのです。
そして、人として社会的に常識的且つ立派であろうとするほど、このやり方を思い出せない仕組みになっているように感じます。

はじめに、その仔にお話しをしても良いか伺おうと思いそこに繋がろうとしました。すると、胸のあたりがぶわっと温かく活性化するのがわかりました。
その時点で、先程書いたようなやりたくない思いなんてカケラもなく、”あ、もう大丈夫、これでお話しできるな”と確信したのです。

このとき私はこころから、目の前の方が大切に思っている仔との橋渡し(通訳)をやりたいと思っていました。
その仔もまるでお話しするのが当たり前のように会話をしてくれました。

会話と書いていますが、私の場合は言葉でやりとりをする訳ではありません。
相手からの感情や想いのエネルギーが、私の胸のあたりでさきほど活性化した場所から湧き上がってきて、それを脳で瞬時に翻訳するような感じです。
すごく感覚的な作業になるので、私の語彙が追いつかないと上手く伝わる言葉に翻訳できないため、言語化力をフル稼働します。
そして、その仔が飼い主さんに一番伝えたい想いを筆文字アートに落とし込みました。


この経験で、ハッキリしたことがありました。
私は、こういった心のやりとりをとっても大切なものだと思っていました。
決して土足で踏み込んではならない、とても神聖な行為だと。
だからこそ、私は軽々しく”やりたくない”と強く思っていたのでした。

私の実家は神社なのですが、生きとしいけるものの尊厳というものは、神という概念に対して多くの人々が抱いている神聖さと変わらないほどとても神聖なものだ、と私は強く感じているのです。だからこそ、日本人には「神羅万象神宿る」「八百万の神」という精神がある。人間も神として祀られるし、あなたもわたしもすべて等しく神であるということ。

私がアニマルコミュニケーションをするときは、例えていうなら神社の社殿で祈祷をするのとなんら遜色のない神聖さを以って臨んでいるのです。だからこそ、やすやすとするものではなく。ペットさんとお話をするということは、そのペットさんの魂の尊厳に触れること。
そんな風に感じているからこそ、インターネット上でメニュー化しようと思えなかったのかと、やっと自分の思いを言語化することができたのです。


このことは私にとって大きな気づきでした。
”やりたくない”の理由を正確に把握できたことで、
”やってもよい”を明確にすることができました。
つまり、本当に必要な人にだけ開かれる「裏メニュー」。
今の私にとってアニマルコミュニケーションは、その位置付けがとてもしっくりくるものでした。

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