龍になれなかった飛魚

子供の頃に読んだ本(名前は忘れてしまった)にこんな話があった。

中国の話で、父母共に龍の子が父が龍、母は人間の間に生まれた異母弟にこんなことを言っていた。

「私の紋章は龍の紋章だが、お前の紋章は飛魚だ。なぜだかわかるか?それはお前が龍になれなかった哀れな飛魚だからだ」

この背景にある話としては、飛魚は龍のように空を飛ぶことは出来ず、かといって完全な人にもなりきれない、中途半端な生き物であるという伝説の話だ。


私は今、一般枠で働いている。
手帳を持っていないからだ。
医師からは、手帳を申請して障害者枠で働いた方がよいのではないか?と言われてはいるがそれを受け入れることができないでいる。

無駄に高いプライドのせいと言えばそれまでなのだが、私は一般枠で働くことに異常なまでにこだわっている節がある。

これは障害者雇用を下に見ているという話ではない。

私には、仕事で成果を出して評価をもらい進んでいくことでしか自分の存在意義を見出せないと考えている部分がある。
私が唯一生きる許可を得られると感じる部分がそこにしかないのだ。

生きるのにだれかの許しがいるのか?と言う人もいるだろうが、そういう人はたいがいすでに生きることを当たり前に許されている気がする。
すでに許されているから、揺るぎない人生を手にしている気がする。

私はいつも誰かに必要とされたい。
その願いをいくつになっても捨て去る事が出来ないでいる。
私の弱さゆえに。

私はどこまでも昇っていける龍になれるチャンスを捨てられないだけだ。

実際、障害者雇用を受けている人の話を聞いたことがあるが、一般雇用に比べれば仕事は任されないと言っていた。
だから、昇進のチャンスもないのだと。

私はこの仕組み自体を否定するつもりは無い。
極端な言い方にはなるが、出勤も安定しない、なにをするかわからない症状を持った人間に大切な仕事は任せられないと思う人がいるのは当然のことだと思うからだ。

私は龍になるチャンスが欲しいと思っている。
この状態で障害者雇用を選べば、私の中に「飛魚になった」という思いを残すことになりそうで怖いのである。
(障害者雇用の方=飛魚、と言っているわけではない。受け止め方の違いの話である)

本当はわかっている。
私は飛魚だ。龍になんかなれない。
なれないのにしがみつく姿はきっと飛魚よりも醜く、愚かで情けないに違いない。

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