16.日常を剥ぎ取る ~ありのまま~
先日、常田大希さんがテレビに出ていたので、慌てて録画したのは『スイッチインタビュー』というテレビ番組だった。
二週連続だったらしく、常田さんの対談相手の津田健次郎さんがメインだったが、そこでまさに、「最近これ体験したなぁ」と思う言葉があった。
津田さんが蜷川幸雄さんの舞台に出ていた時、
「主婦の方はじゃがいもの値段が気になっていたり日常が全身にべったり張りついているんだよ。だから君たちは、その日常を剥ぎ取る重要な役目だ。それを最初の5分でするんだ。」
というようなこと(正確なセリフはうろ覚えです)を蜷川さんに言われたそうだ。
最近、久々に彫刻を観に行って、「ああやっぱりアートっていいなぁ」と思ったり、BMXのパフォーマンスを観て、「人に感動を与えられるって素敵だなぁ」と思ったのは、私が日常を一瞬にして剥ぎ取られた爽快感だったのだ。
思えば、他にもそんな経験があった。
イルミネーションやジェットコースター、舞台のオープニングの演出など、それらを体験した時も同じ感覚だった気がする。
すべて、確かに最初の5分ぐらいが一番高揚感があった。
だから、蜷川さんの「剥ぎ取る」という表現が良く言い当てていると、言葉を仕事にしている人は本当にすごい。
そこでふと思った。
“日常”と”生活”は同じようで違うのかもしれない。
日常は、つねひごろ。日々勝手に積み重なるもの。
生活は、生きるための活動。生きていくために必要なもの。
私がよく”暮らし”と言っているものは「”生活”を整えてくれるもの」で、”日常”のことではないんだなと気づいた。
こう考えると、「14.暮らしのスパイス ~習い事~」で書いた習い事も、日常を剥ぎ取る経験をさせてくれるものでもあったなぁと思う。
映画も旅もそうだなぁ。考え始めたらどんどん出てくる。
私の大事にしている“彩りある暮らし”は、非日常があってこそなのだ。
非日常があることで、日常という洋服というか鎧のようなものを脱ぎ捨て、何者でもない私自身になれるのだ。
それが、”ありのまま”ということだろうか。
難しい言葉だと思っていたけど、ありのままの私は、意外といつもそばにいたのだ。
これからも、日常が張り付いた何者かの私と、ありのままの私、両方とも大事にして暮らしを楽しみたいと思う。
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