②大切な宝物、長女(きゆたん)


茉由の事を忘れた訳ではない。


でももし、わたしのお腹に
新しい命が芽生えたなら、
(それは茉由の人生だった。)
と思う事にして、
あえて茉由の出産予定日の前に、きゆたんを身籠った。
もしきゆたんが無事に生まれてきてくれたら、
二人の赤ちゃんは一緒に私のお腹に宿れないのだから、
茉由の運命を受け入れる事が出来る。


私は妊娠した。
違う産婦人科を探した。


赤ちゃんを亡くした母親が元気な赤ちゃんの声を聞かずに済む産婦人科を選んだ。


私の妊娠を知った弟は、
夫と連番の携帯電話を契約して来て、夫に渡した。
何かあった時に直ぐ連絡出来る様に。
弟も茉由の事に責任を感じていた。
茉由が死ぬ前、「お腹がいたい」と弟に伝えていて、あの時直ぐ産婦人科に連れて行っていれば、と自分を責めたのだろう。
本当に優しい弟の事だから。


妊娠したはいいが不安で、
怖い夢を毎日見た。


家族は優しかった。
妊娠4ヶ月から、子宮口が開かない薬を飲んだ。


妊娠六ヶ月の時には入院もした。ひたすら安静にして、点滴をしていた。
する事が無いので赤ちゃんの名前をアレコレ考えた。
本を沢山持ち込んで字画の勉強もした。
安静にして、出された食事を食べるだけなので、ドンドン肥っていった。
38キロも増えた。


夫立ち会い出産をする為に、夫は何度も母親学級に参加した。

「この産婦人科は麻酔分娩が出来る所ということで、痛みに耐えきれず、途中から麻酔分娩する母親がいるので皆さんそうならない様に!」と先生が講義していた。

(そんな母親も居るんだな!)と呑気に思いながら話を半分しか聞いてなかった。


もう赤ちゃんが産まれてきても大丈夫という時期まで入院した。


紙オムツは頭が悪くなるとか言う本を読んで、布オムツも揃えた。


母と井筒屋に行き、カワイイ布団と赤ちゃんが寝るカゴを買ってもらった。
もう準備万端だった。


女の子と解ったので、(きゆたん)に決めた。


1996年4月26日、お腹が痛くなった。
間隔も短くなっている。
夫に連れられて産婦人科に行った。
色んな処置をして、
「まだまだだねー!」と呑気にいう先生の言葉が気が遠くなる程の痛みの中で、コダマした。
母親も来てくれた。
とにかく地獄だった。
夫も側に居てくれるが、
血走った眼をして唸ってる私を見て不安そうだった。
何時間たつのだろう。

壁の絵が揺れる。
熱も出てきた。
熱が高くなると赤ちゃんが心配との事で、急遽麻酔分娩に入る。


急に痛みから開放された。
ずっと寝てないので、居眠りをしてしまい、分娩台に乗せた足が落ちる。
麻酔が効いてて自分で戻さないので何回もナースが重くなった私の足を持ち上げてくれる。


段々熱が高くなった。
(これ以上は危険)だからと判断した先生は、「もう出そう!」と私の股を大きく切って、赤ちゃんを出した。

オギャーと言う鳴き声が低くて、
ダミ声、へその緒がついたまま、
私の手の平に赤ちゃんをおいてくれた。
温かい。
凄く温かい。
その温かさに、涙が止まらなかった。
麻酔分娩では夫は立ち会い出来ないので、
ずっと母親学級に通ってた夫を不憫に思ったのか、手術服を着て、夫が入ってきた。
私の手から夫の手に赤ちゃんを抱かせてくれた。
夫も泣いていた。
本当に幸せだった。
女として産まれてきて初めて良かったと感じた。

4月27日、14時。





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