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【書評】山尾悠子「飛ぶ孔雀」


#読書感想文

「ものが燃えにくくなる」という災厄に見舞われた土地で起こるあれこれの話。
 国土地理院の男。
 火を運ぶ儀式。
 路面電車。
 タバコ屋。
 川中島Q庭園での茶会。
 増殖する石。
 大温室。
 カードゲーム。
 奇妙な双子。
 飛ぶ孔雀。
 ロープウェイ。
 ダクト屋。
 大蛇。
 掃除屋。
 くじ引き。
 その他諸々。いくつもの挿話が断片的に語られていくが、全体として一貫した筋らしい筋はない。かといってそれぞれが完全に独立した短篇というわけでもなく、登場人物や出来事などゆるい繋がりがおぼろげに見えてくる。

 そもそも筋を追うことを楽しむような作りをしておらず、むしろ付置された断片的な挿話から世界(観)を立ち上がらせることに主眼が置かれた作品、という印象がある。

 読み手は数々の挿話を覗き窓として、不可思議な世界の全体をおぼろげに想像する楽しみを与えられる。だからこの作品に関しては、難解という言葉は当たらないだろう。
 そもそも正しい読解というものがありえず、これといった正確な像を結ぶわけでもない。因果関係を探ることができはするが、投げられたままの伏線、浮ついた話、あるやなしやの緩い示唆など曖昧な点が多くあるため完全な連関は見いだせない。読み手は理性だけでなく、むしろ感性を働かせる必要がある。理解することよりも感懐することに核心がある。

 というわけで深読みすることなくさしあたりイメージに身を浸すように読んではみたのだが、巷の読み手が激賞するほどには感じ入ることができなかった。この手の話は個人的に好きな部類ではあり、例えば円城塔の「相互にどんな関係があるのかよくわからないような話が並置された短編連作風の作品」というものを面白く読めたりもする。
 両者はどこが違うのか。
 単純に、そこで展開されているところのイメージの世界が肌に合わなかったという話だろうか。

 少々気になったのが、
「――これは話が少し後先するが」
 とか、
「――が始まるのはこの直後のことになる」
 といったように、語り手の顔が透けて見えるところ。
 意図的な仕掛けなのだろうが、「そういうお前は誰なんだ」という疑問が頭をもたげ、可能世界への没入を多少妨げていたような感がある。
「ものが燃えにくい」
「石が増殖する」
「井戸や山が二重写し」
 といったようにこの世界は見えないルールに縛られているのだが、その見えないルールに縛られた世界というものが語りの主体の主観に閉じているような気がして、そこへ読み手としての自己を没入させることに違和感を覚えた、と言うべきだろうか。語り手の作ったゲームのなかで、素直に遊ぶことに抵抗を覚えた、と言うべきだろうか。

 ――そう書いてみて初めて、自分が感じていた違和感の正体がおぼろげに見えてきたような気がする。
 一般的な小説というのは全編通して概ね筋がさらえるように出来ている。尻切れに終わっていても、何かの匂わせがあるとしても、ともあれ作品の内部においては概ね論理的に整合的にできている。
 これを「閉じられた物語」とするなら、作品の内部において論理的に完結しえない物語については「開かれた物語」と言える。
 当初自分は本作を、論理的に整合的に読み解くにはそもそもパズルピースが足りていないという点で「開かれた物語」と見なしていたのだが、しかし実のところこれは「「開かれた物語」として語り手に閉じた物語」なのではないか、という疑いが生じる。
 芝居じみた雰囲気を付加することによって、「これはそういうものです」という有無を言わせない示し合わせを与え、これが全体として混沌とした物語をまとめあげるタガとして機能しているところがなくもない、のではないか。

 もちろんどのような小説であれそれを読むということは、即ち書き手の作ったルールの内部で遊ぶということになる。
 そしてそれはこの現実世界を生きることにも通じている。
 われわれはそれこそ誰が作ったかもしれないゲームのなかで不可避的に遊ばされているわけだが、このゲームのルール自体揚言不可能であるという意味では、「開かれた物語」に属している(ルールを体系化するという行為自体そのゲームの内部で行われざるを得ないため、不可避的に従われているルールが常に残り続ける)。
 この意味で文学作品における「開かれた物語」というものは、「閉じられた物語」にも増してわれわれの生を寓していると言うことができる。そこに何らかの不条理な規則が示唆されたとき、物語は系を開き、現実の生を鏡写すものとなる。可能世界の描出が現実世界に示唆を投げるということが起こる。

 ――そう書いてみて改めて、本作は「開かれた作品」としても「閉じられた作品」としても、どちらとしても読めるという構造を持っているのかもしれないことに思い至る。
 それこそシビレ山とシブレ山の二重写し状態のように。
 神のごときルールメーカーの存在を透かし見ることが結果的に違和感を生じるかどうかというのは、究極的には読み手の宗教性の問題なのかもしれない。また、慣れの問題も当然あるだろう――語り手と読み手の「二重写し」が気にならないくらい慣れてしまえば、これは「開かれた物語」として機能するかもしれない。

 ともあれ優れた作品には違いなく、気が向いたらまた読んでみたい。
 二読、三読したら印象がガラっと変わってきそうな感がある。

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