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【書評】本谷有希子「異類婚姻譚」

【異類婚姻譚:本谷有希子:講談社:2016:第154回芥川賞受賞作】

 特異な環境であればあるほど生物のほうもまた特異な進化を遂げる。そうせざるをえないのであって、そうした生物はいわば環境を映す鏡と言える。夫婦は長年連れ添うことで顔が似て来るというが、それは「家庭」という特異な環境への順応の結果、なのかもしれない。
 主人公の「私」は最近「旦那」と顔が似てきた。

 というのも、これまで私は誰かと親しい関係になるたび、自分が少しずつ取り換えられていくような気分を味わってきたからである。
 相手の思考や、相手の趣味、相手の言動がいつのまにか自分のそれに取って代わり、もともとそういう自分であったかのように振る舞っていることに気付くたび、いつも、ぞっとした。やめようとしても、やめられなかった。おそらく、振る舞っている、というような生易しいものではなかったのだろう。
――略――
 旦那と結婚すると決めた時、いよいよ自分がすべて取り替えられ、あとかたもなくなるのだ、ということを考えなかったわけではない。
(p52)

 何事も「ただそうあるもの」として受け容れてしまいがちな、よく言うと懐の深い私は、専業主婦として日々を過ごすうち、旦那に飼い慣らされていく(あるいは旦那を飼い慣らしていく)。
「テレビを一日三時間は見たい男」
「家では何も考えたくない男」
 と公言してはばからない旦那が故のない体調不良に見舞われ、なぜだか家で揚げ物を揚げ始めるあたりから雲行きが怪しくなっていく。
 近所の、私の唯一の知り合いである「キタヱさん」の家では愛猫「サンショ」があたり構わず粗相をするものだから山に捨てにいかねばならない。あれやこれやで話が進み、最終的には常軌を逸した結末が待っている。

 本作には、「理屈の面白さ」と「理屈抜きの面白さ」が同居している。
 家族というものは多かれ少なかれお互いに依存しているものだろうし、不断の「妥協」がバランスを調整しているところがある。そうした不可抗力的な同調圧力を「夫婦は顔が似る」というよく言われる話に仮託して幻想的に仕立て上げた本作には、構造そのものにそれなりのリアリティがある。
「p44:楽をしないと死んでしまう新種の生きもの」とまで評されるこの夫の人物描写は戯画的なものであるとはいえ、「生活」のすべてを配偶者に丸投げしたうえで何の反省意識もなくのうのうと家庭で休まるデカい面をした世帯主の像としてはこちらもそれなりのリアリティがあるように思われる。
 というのはまあいいとして。
 その旦那がいきなり揚げ物を揚げ始めるところだったり、旦那が最後〇〇〇となってしまうところだったり、といった部分部分には、物語の構造上明確に意味的な連関を求めることができないため、いわば「遊び」のような要素として作中で輝きを放っている。
 端的に言うと、謎なのだ。
 楽をしなければ死んでしまうはずの夫がいきなり炊事しはじめる、というシナリオ自体は「夫婦は顔が似る」という題材からの連想と見ることができる。つまり旦那が私を模倣し、私が旦那の立場に立つことで、私が旦那のパーソナリティに「取り換え」られる、という構造がここにはある。
 しかし、それが「揚げ物を揚げる」である必然性はない。必然性はないながら、意外にもおいしく揚がっているたけのこ、うずら、茗荷などを次から次へはふはふとほおばるシーンには「安穏とした不気味さ」と言ったらいいだろうか、独特な熱がある。
 起こるべきことがただ起こるがままに起こっていくという感がある。しかしその「起こるべくして起こること」の積み重ねが次第に現実を超え、明後日の方向へ向かってゆく。この崩壊感覚はしかし、「家庭という特異な環境における人間の個的な生態」の延長線上にあるものとして不思議な納得を以て受け入れることができる。
 面白く読んだ。

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