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Björk姐さんのcornucopia行ってきた


Photo by Phoenix Han on Unsplash


若いころほど熱心に、耳にイヤホンを常時つっこんで音楽を聴く、ということからかなり離れてしまい、音の世界にわたしが求めるもの、が年を重ねるうちに、かなり変容したように思う。
昔あんなに入れ込んでいたのに、今はまったく興味を持てない曲もたくさんある。
なのだけど、ビョークは、今も変わらず大好きだ。

彼女の世界観の好きなところは、デジタルさと、オーガニックさの絶妙なバランス、否、凄まじい攻防戦というところにあると思う。
この、無機的な世界と有機的な世界の葛藤、というのは私自身にとってもとても大きなテーマなので、彼女が、自分のやり方でその戦いを魅せてくれることは、私にとっても大きな、生きる勇気と希望なのだ。

ライブレポートとか、そういったものは、わたしよりちゃんと書き記している方がたくさんいると思うのでそちらを探してほしいのだけど、私の目線で感じたことをメモしておきたい。

昔から、彼女の世界観には、現代音楽テイストが通奏低音のようにがっつり入っているのが好きだった。バルトークとか、民族音楽にベースがありながらもクラシックのお作法を抑えている系、のコード進行とか、リズムの使い方とか、かなりビョークの基幹にあるのだろうと思う。

3月31日、東京のcornucopiaの会場には、普通のライブによく生息してそうな、ミーハーだけど普通な人、という風貌な人はあまり見かけず、みなさんとても静かで品が良い感じだが、どこかやっぱり変わった人がたくさんいる、という印象があった。業界人多いだろうなと思っていたけど、変拍子好きなユザーンさんや、黄色い家、の川上未映子さんもいらしてたというのをTwitterでみかけた。川上さんの作品は、いくつかとっても心に残ったものがある。黄色い家も読んでみたい。彼女の世界観は、ビョークのジェンダー観というか、見えている世界がおそらくかなり似ている。
そんな感じで、深いところで同じ水脈につながっている人が、あの日、会場でつながっていたんだなあ、としみじみ思い返している。

私の座っていた席は、3階の少し前の方、だった。ホールの構造として、非常にどの席からもみやすいように作られていたとはいえ、舞台はかなり遠いところにあって、細かいところはまったくわからなかった。
字幕もでていたけど、読めなかった。

会場にいた多くの人はおそらくわたしと同じ感じだったと思うのだけど、言葉を超えたところで伝わるものに、全員が圧倒されて、満足して、帰っていたのは間違いないだろう。

今日、ロッキングオンのライブの詳しい解説記事をみつけ、舞台上で何が起こっていたのか知ってさらに驚いてしまった。




ハリボテとして、見た目のインパクトのためにいろいろ仕掛けがあったのはもちろんなのだが、円形フルートとか、やばすぎるだろう。
なんか天井からフラフープみたいなのが降りてきたけど、何の儀式やろ、UFOの召喚かしらんと思っていたけど、あれほんとうに楽器として機能してたとは、、、

昨今、サブスクでいろんな音を無料でいくらでも、浅く広く聴けてしまう時代に、ぴんとこないかもしれないが、ビョークが、そのデジタルでわりと聞き慣れているような音を、生楽器で実践し、それを会場に轟かせたというのは、ものすごいことだと、わたしはしみじみ思う。

この、デジタルではもう見慣れて聞き慣れているが、その仕組みを自分で体験し実践するとどうなるか、という試み。
これをガチでやってるの、ビョーク姐さんくらいしか思い浮かばない、、

私自身、学生の時に、ピアノ科の子たちとは実はあまり仲が良くなくて(趣味が合わなさ過ぎた)、他の楽器の子や作曲科の子とばかりつるんでいて、作曲の初演の演奏を手伝ったこともあった。
作曲する人というのは勝手なもので、自分で弾けやしない曲を作る人がたくさんいる。モーリス・ラヴェルだって、一度たりとも自分の曲をノーミスで演奏できなかったという逸話があったはずだけど、まあそんなものだ。

何がいいたいかというと、シーケンス的に、デジタルな世界が得意とするものって、ひとつひとつ、オーガニックな存在としてのわたしたちがそれを体現すると、それはものすごい負荷がかかる。。。

わたしはほとんどその、自分がロボットのように進化する、というのを学生の時に嫌と言うほどやって、もうこれ以上無理だと思った。
(星を読む人からすれば、山羊月っぽいエピソードだと思うだろう(;^ω^))

そのおかげで、今のこのすさまじいデジタルな社会で、地に足をつけたままなんとか生きている。若い子たちは、デジタルネイティブで、確かに一見うまく泳ぎ切っているようだけど、物事の表面しかみないからそれができている、と思えてしかたない。いつか、年を重ねるうちに壁にぶちあたるだろう。そのとき、わたしがなぜこんなことを言っていたのか思い出すかも、、

で、ロキノン誌によると、ビョーク姐さんは、この生命世界とデジタルの攻防戦の、端的なメタファとして、キノコの世界に目をつけていたそうだ。

ちなみに、いきなり話はそれるけど、ビョークは今作を作る前にNetflixで見た『素晴らしき、きのこの世界』がインスピレーションになったと言っていた。キノコの世界があまりに洗練されていて驚いた、と。キノコと言ったら、『ザ・ラスト・オブ・アス』で世界を崩壊させる菌をばら撒くのもキノコだ。クリエイター達は、キノコの世界があまりに洗練されているから、そこから菌が発生したら人類は本当に終わりと言っていた。突き詰めるとキノコなんだ、というのは共通で、でもビョークはそこに未来を、『ザ・ラスト・オブ・アス』はそこで世界の終わりと愛を描いたのが面白いと思った。

ビョーク、最新アルバム『フォソーラ』からタイトル曲のMV公開 AERA.dot


キノコって、腐った木に寄生して、最後木を、土に戻していくつなぎめ、の存在である。新曲のfossoraもそうだし、今回の舞台も根底に、この菌の世界を考えるとすごくよくわかる。

世界は陰陽でできている。デジタルがここまで台頭するということは、おなじだけ、オーガニックの世界のすさまじさも極まるということだ。違ういい方をすれば、人類が、オーガニックの世界の深さを見出していくといえるだろう。

2023年は、牧歌的でのほほんと自然を享受し、その中でぼんやり生きることができた時代と今はまったく違う。まったく違う世界に生きるからこそ、感じることができるオーガニックさというものがあるのではないだろうか?

私自身、ほんとうは自然が多いところで暮らしたい。反面、土着的因習的で閉塞的な、村社会には馴染めない。なにより、車に乗れない。得意というわけでは決してないのだが、都会で求められるデジタルな仕事は、それなりに、なんとか、やれる。

私の人生も常に、この無機的有機的な世界の攻防戦がベースにあるので、ビョーク姐さんの果敢な戦いに、とても、勇気をもらった。

いつもいろんなことがブレブレになりがちな私だが、今ここでやれることを、やっていきたいとあらためて思う。





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